王が住む教室

文戸玲

先生


 生徒会室に立候補用紙を出しに行くと,大栗はいなかった。あの憎たらしい顔で嫌味を言われることを覚悟していたので拍子抜けだ。代わりに,例のくまみたいな教員がいた。昨日と同じように,窓際に立ってグランドを眺めていた。

「立候補用紙出しに来たぞ」

 部屋に人が入ってきたことに全く気付かなかったらしく,目を丸くして驚いていた。そしておれの顔を見るなり柔らかい顔になり,お疲れ様,と言って両手で立候補用紙を受け取った。そんなに丁寧に扱われると,ぞんざいな言葉づかいで片手で渡したことが後ろめたくなる。
 首からぶら下げられた職員用の名札がクリップで胸ポケットの位置に留められている。郷地幸村,戦国武将みたいな名前だ。

「郷地って言うんだ。授業も受け持ってないから,分からないよなあ。数学を教えているんだ」

 よく響く,太い声で郷地は名乗った。名札を見ている視線に気づいたのだろう。ごく簡単な自己紹介をした。そして,手元の紙に目を落とすとゆっくりとうなずき,大切そうに両手で持って身体を窓に向けた。

「そんなに外が好きなのかよ・・・・・・ですか?」
「誰かが何かを頑張っているなんて,これほど素晴らしいことはない。眩しいけど,ずっと見続けていたい。人の努力を適当にあしらうう人ばかりじゃないから,自分を応援してくれている人がいるということを心から感じることが出来れば,それは一生の宝になる」

 郷地はグランドに視線を送ったまま話した。よく分からないけど,昨日の大栗のことが頭にあって,背中を押してくれているのは何となく伝わった。

「あんたはさ,・・・・・・先生はおれが勝てると思う?」

 グランドでは女子が集団でサッカーコートを歩いていた。前ほど人の数はいない。相良を探して視線を動かしたが,どこにも見当たらなかった。あいつも部活をさぼったりするのだろうか。
 郷地はグランドにくぎ付けだった視線を外し,おれの目をまっすぐ見た。やっぱりくまみたいな顔をしている。でも,優しいくまだ。

「そんなのやってみないと分からないだろ。野球と一緒だ。なんだってそんなもんだ」

 当たり前だろ,という顔をしてまたグランドに視線を戻す。そうか,野球部の顧問か。なんとなくグランドの様子を見ているのかと思ったが,野球部の練習を見ていたのだ。時折するどくなる視線を見ると,なんとなく野球部に締まった雰囲気があるのが分かる気がする。言うべきところでビシッと指導をするのだろう。でも,こいつは絶対に理不尽なことを言わないはずだ。

「どうなるか分かんねえけど,やるだけのことはやってみるよ。暇そうだけど,頑張れよ,郷地先生」

 じゃ,と言ってドアノブを握ろうとすると,頑張れ,と背中に声を掛けられた。「また今度,部活に来るといいよ」とも言った。「行くかよ,おれはスポーツがだめなんだ」と大介の代弁をして部屋を出た。
 部屋を出てからずっと,胸の奥がこそばゆかった。誰かのことを「先生」とつけて呼ぶのなんていつぶりだと考えたが,うまく思い出せなかった。



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