Saori's Umwelt (加藤沙織の環世界)

オミィ・ランバード

第29話 Benz (ベンツ)

「……さ」

「……たね、沙織」

 どのくらい時間が経ったのだろう。沙織は、愛染に肩を揺すられ、自分がぼんやりと立っていることに気がついた。

「一緒にいけるってさ」

 目の前には、満面の笑みの愛染がいる。沙織は辺りを見回した。

 何もかも変わっていない。
 ただ、先ほどよりさらに外が暗くなっていた。

「準備が整いました」

 黒服がモーゼに報告をしにきた。

「行こうか」

 モーゼとイノギンが廊下に出ていく。

 沙織は、まだ少しぼんやりとしている。まるで夢の中にいるようだ。ずっとしていた緊張が解けたせいだろうか。

「おいで」

 沙織は愛染に手を引っ張られ、されるがままに廊下に連れ出された。

 薄暗い廊下には黒服が二人いる。他に人の気配はない。校舎には誰もいないようだ。

 「操られていた人達も、全員病院に搬送しました」

 黒服の一人がモーゼに報告をしている。

ーー全員。桃。無事だった。

 沙織はなんだか安心した。


 愛染と手を繋ぎながら、何年間も通い慣れた校舎の階段を降りる。

ーー嗚呼。もうこの世界には戻ってこられないのかもしれない。

 沙織は、自分の言葉で回り始めた歯車を感じながら、静かに靴箱から革靴を出した。

「こちらを」

 いつの間に持ってきたのだろう。外で待っていた黒服の一人が、教室に置いてあるはずの緑のコートと、空色マフラーを両手で恭しく差し出してくる。どうして自分のものだとわかったのかは謎だが、愛染のコートも持ってきているので何かしらの判別方法があったのだろう。沙織は感謝の意を述べて、コートとマフラーを受け取った。

 二月の夜はそれでも寒い。
 自分の気持ちとは関係なく、体感的なことはやはり、自分の精神に入り込んでくるものだ。
 目が覚めはじめる。
 沙織は、白い息を長く吐きながら気持ちを落ち着かせた。

 校門の外には黒塗りの高級車が三台止まっている。
 周りには黒服が何人もいる。
 沙織は、その集団に一際大きな、プロレスラーのような人影を見つけた。
 見覚えのあるシルエット。
 沙織は、知らず駆け出していた。

 夢の世界を愛染に導かれ、漂うように歩いていた沙織の環世界で、唯一現実味を帯びている、世界で一番安心できる人物。
 暗闇に光る青い目。
 車のライトに照らされて光る短めの金髪。
 全ての困難から沙織を包み込んで守るための、アーミースタイルで身を固めた最後の砦。

「ミハエル!」

 遠間から飛びついた沙織の脇に手を入れ、ミハエルは、沙織を誰よりも高く持ち上げた。
 背の低い沙織は、今までは全てを見上げている景色だったが、持ち上げられて全てを見下ろす景色へと変化した。

 道路を走るたくさんの車のヘッドライト。
 闇の中に溶け込むように動く何人もの黒服。
 先ほどまで威圧的に見えたモーゼ。
 あれほど強く大きく見えたイノギン。
 神々しかった愛染。
 今では全てが小さなものに感じる。

 沙織はなぜか、世界の美しさを感じた。


「なんで来てくれたの?」

 沙織を地面に下ろしたミハエルは、野球のグローブのような手で沙織の頭を包み込む。

「沙織を守るのは私の役目だ」

 安らぐ。

「なんで来て欲しいってわかったの?」

「愛染から連絡があったんだ。沙織が困っているから学校まで来て欲しいと。それに……」

 ミハエルは、いつも以上に慈愛溢れる目で、沙織を見ながら言葉を続けた。

「雅弘が、守りにいけ、と言っているような気がしたんだ」

 大柄の黒服が近づいてきた。

「あなたがミハエルさんですか? はじめまして。『ダビデの星』のモーゼです」

「ダビデの星……。ということはやはり沙織は」

「そうですね」

「愛染も?」

「はい」

「自分から?」

「そうです」

「なるほど……」

 ミハエルは、左足にしがみついている沙織の頭に手を置きながら少し考えた。それから、モーゼに頭を下げた。

「不束(ふつつか)者とは思いますが、沙織たちをよろしくお願いします」

「はい。ミハエルさんはカトゥーさんと共にKOKをお手伝いしていらっしゃったのですよね? 歴戦の勇士に出会えて光栄です」

「そうですか……。そう言っていただけてありがたいです」

「行きますよー」

 イノギンが三台目のベンツの窓から身を乗り出して叫んだ。が、モーゼと共にいるミハエルを見つけてやってくる。
 いつの間にか銀色の鎧は着ていない。
 襟まで止まった赤いスーツに、黒いコートを羽織っている。
 首にはゴーグル。
 鋭い顔だが、やはり大学生くらいの年齢だ。
 体脂肪率の少なさそうな体つきをしている。

「もしかして……、噂のミハエルさんですか?」

「ああ」

「KOKのイノギンです」

 二人は握手を交わした。

「ミハエルです。沙織と愛染に仙術を教えています。引退した身でありながら、愛弟子たちが心配で、つい、しゃしゃってしまいました」

 イノギンは、ミハエルにしがみついている沙織を見て、安心させてあげたいと思った。

「心配でしたら一緒に来られますか? もちろんオーラも扱えるでしょうし、あの、カトゥーさんのチームに所属していたということは、ダビデ王ともお知り合いですよね?」

「まあ、そうです、ね」

 ミハエルは、うなづいて沙織を確かめた。先程まで小動物のように震えていたが、今はイノギンの言葉を聞いてピタリと震えが止まり、ミハエルの顔をじっと見上げている。

「それでは……一緒に行かせていただきましょう」

 ミハエルは、沙織を、先ほどよりも少しだけ、力を込めて抱きしめた。

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