星乙女の天秤~夫に浮気されたので調停を申し立てた人妻が幸せになるお話~
03. 身の上話
一年前、私は妊娠し、残念ながら早期流産した。
自然流産ではなく稽留流産だったので、手術が必要だった。術後の激痛と流産してしまったという悲しみで、病院のベッドの上で苦しんでいた私の横で、俊彰が病室に備え付けのテレビをつけたときは、さすがにひどいと泣きわめいた。
……それから俊彰は私に触れなくなってしまった。
セックスレスになっても、私はあまり気にしなかった。仕事も忙しかったし、もともとセックスがそんなに好きではなかったし。子供が欲しい気持ちは皆無ではなかったけれど、俊彰が「まだ二人だけでいいよね」と言うから、またそのうちでいいかと思っていた。
夫婦生活がなくなっても俊彰とは、週末デートもするし、仲良く一緒に暮らしていた。
そう思っていたのは私だけだったのだが。
この半年程、俊彰の帰りが遅かったり、出張が増えたりしても、仕事を頑張ってるんだなとしか考えてなかった。以前はやってくれていた夫担当の家事をしなくなっても、そんなに気に留めてなかった。小言を言うと、「ごめん、忙しくて」と謝るので、許して私が代わりにやっていた。
単に俊彰は私との共同生活を放棄していただけなのに。
会話も減り、週末外食しても話題がなかったりして、さすがの私も違和感を覚え始めた。
そして、一週間前、俊彰が全てを話した。
「同僚と浮気していた」「その子が妊娠した」「その子と結婚したいから、梓と別れたい」
自分の言いたい事だけ言って、テーブルの上に署名捺印済みの離婚届を置いて家を出ていこうとしたので、私は「話し合いたい」と言った。けれど、俊彰はそれを無視すると、それきり家に帰ってこなかった。
「お義母さんに一度電話したんですけど、どうやら実家に帰ってるみたいです」
「夫有責か……。しかも、不倫相手が妊娠……」
桐木先生はそこで言葉を切ると、髪をかきあげて笑った。
「自分からべらべら喋るなんて、びっくりするほど馬鹿だな、君の旦那さん」
「えっ?!」
「それか、君が馬鹿にされてるか、だ」
「私が……馬鹿にされて……る……」
ああ、本当に馬鹿だ。今日、ここに来てくれるかもなんて、妄想もいいところだ。とっくの昔に私達の関係は破綻していたのに。喧嘩になるのを避けて、俊彰の態度の変化から目をそらしていた私。付き合って5年、結婚して3年、計8年も経てば、人も環境も変わるのに、何にも成長してなかった私。
「その不倫相手の事はどこまで知ってる?」
「名前は聞きました。神代早苗。夫の会社の後輩とかで、一度会ったこともあります」
私の会社の飲み会と、俊彰の会社の飲み会の場所が偶然近くで、街でばったり会ったのだ。その時に紹介された同僚のうちの一人で、若くてとびきり美人だったので覚えている。
「どうしたいの?」
「わからないんです。でも離婚しかないな、とは思ってます」
「財産分与は?慰謝料は?」
「そんな……わからないです」
「あんた、この一週間何やってたんだよ!」
呆れるように言われ、少しムッとして言い返した。
「あんた呼ばわりしないでください」
「失礼、……林原さん。今は相談中だったな。口が滑った」
……この一週間、私はただただ俊彰が帰ってくるのを待っていた。
食事もせず、眠ることも出来ず、でも会社には行って、休憩のたびに俊彰に電話をして。そのうち電話も繋がらなくなった。夫の実家に繋がったのは一度きりで、そのあとはずっと留守電だったから、メッセージは残さずに切っていた。
馬鹿だな、本当に。
「何やってたんだろう……」
自分が馬鹿すぎて辛い。
自覚したら、涙が溢れ出てきてとまらなかった。
俊彰に離婚したいと言われてから初めて、私は泣いた。
みっつめのおしぼりで顔を拭いた頃には、涙もとまって、そして化粧もボロボロだった。俊彰に会えるかもと思って気合入れてメイクしたから落差は酷いものだろう。
桐木先生は、私の隣で無言でグラスを傾けている。
「えーと、なんで肩に手があるんでしょう」
「泣いてる女を慰めてるだけだが」
「にしては近すぎません?」
「元気が出てきたようで何よりだ」
桐木先生はふっと笑って腕をほどいたが、相変わらず隣に座っている。
「お、落ち着かないんですけど……」
「そのうち慣れる」
「はぁ……」
お互いしゃべることなく1分位経って、私が桐木先生に向かって叫んだ。
「いや、慣れませんよ?!」
すると、桐木先生は心の底から面白いものを見たとばかりに笑い出した。ひとしきり笑ってこう言った。
「あー久しぶりに笑った。いいよ、一緒にやろうか」
「はい?何をですか?」
「何って慰謝料請求だよ。馬鹿旦那と不倫相手の二人にね。やるなら調停でも裁判でもいい」
「え?二人に?」
「俺は負ける裁判はしない。そして、儲かる仕事は断らない」
すぐ近くに桐木先生の顔。さっきまでと違う顔。
獲物を見付けた獣のような表情をしていた。心臓がびくんと跳ねた。
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