星乙女の天秤~夫に浮気されたので調停を申し立てた人妻が幸せになるお話~

ゆきづき花

01. きっかけ

 
 私と先生が出会ったきっかけは、この街にはありふれた、とても些細なことだった。  





 夕飯の食器を片付けてリビングのソファに座り、私は独りでコーヒーを飲んでいた。夫は今日も残業で遅くなるらしい。見るともなくつけていたテレビのニュースが終わる頃、夫が帰宅した。
着替えることなく玄関からまっすぐリビングに来て、私の前に立った夫は、「おかえり」という私に返事もせず、開口一番にこう言った。

「離婚してほしい」

夫の言葉に私は耳を疑った。私が唖然としていると、夫がさらに続けて言った。

「子供が出来たんだ」

私は血の気が引くのを感じていた。そして、ああ、そういうことか、と妙に納得していた。
表面上は夫婦円満だったはずの私達。やっぱり壊れていたんだ。





 春なのは暦の上だけで、外は酷く寒かった。地下鉄の駅から地上に出ると、街にたむろする人々の間には様々な言語が飛び交っている。英語、仏語、中国語を聞きながら歩く道の先には、今日も赤い東京タワーが見える。多分、明日も赤い。
 悲鳴のような酔客の哄笑と、絶え間ない喧噪に溢れた表通りを抜けて裏道に入る。私は足を速めた。いるはずないと頭ではわかっていても、気持ちが私を急かしていた。

 付き合っていた頃も、結婚してからも、何度も通った馴染みの店。星乙女の名を冠するそのお店「アストライアー」は、ライティングも音楽も落ち着きがあり、店員さんの対応も素敵なお気に入りの場所だった。軽食だが提供されるお料理はどれも美味しく、お酒の種類も豊富なので常連客も多い。
 ドアを開けて、ほどよく込み合った店内を見渡すが、待ち人はいない。バーカウンターの2席をとり、私はカクテルを注文した。若手のバーテンダーさんは他の常連客と談笑している。話しかけられたくない今日の私には都合が良い。いつも通り物静かな初老のマスターが、しなやかな手つきでシェイカーを振り、グラスに青と水色のグラデーションを満たしていく。
 (来る。俊彰としあきはきっと来てくれる)

 今日は結婚記念日。私達が付合い始めた日でもあり、この日は必ず毎年ここに来ていた。
 俊彰とふたりで迎えるはずの記念日を、私は最悪の気分で過ごしている。

 私、林原あずさは、この街にありふれた平凡な会社員だった。都内の私立大を出て総合商社の事務職に就き、仕事もそつなくこなしている。
 大学生の頃にバイト先で出会った2歳上の俊彰と、5年付き合って結婚した。その頃の俊彰は契約社員で、両親は難色を示したが、結局反対を押しきって入籍した。
 二人の収入を合わせてようやく年収800万円程度なのに、わざわざ広尾の賃貸マンションで暮し、大学時代の延長のように週末は気ままに遊び歩いていた。
 私よりもあとに結婚した友人に子供が生まれても、祝福こそすれ羨ましいとは思わなかった。まだ遊んでいたい。それは俊彰も同じだと思っていた。一週間前、俊彰から離婚したいと告げられるまでは。



 「ねぇ、おねえさん」

 考え事をしているところに突然肩に手をおかれ、私はビクッと震えて振り返る。そこには待ち人ではなく、にやけた顔をした若い男性が立っていた。

「誰か待ってんの?」

そう言って私の隣に座る。そこは俊彰のために空けてあるのに、なんて馴れ馴れしいんだろう。

「来ないんでしょ?もう、いいじゃん、俺らと飲まない?」

俺ら、という言葉にひっかかって視界を広げると、私を挟むようにもうひとり男が立っているのに気づいた。いつから見られていたんだろう。29歳にもなると、ナンパなんてただ面倒くさいだけだ。
「ごめんなさい」
一言だけ言ってはぐらかそうとしたが、存外男は食い下がってきた。

「じゃあ、来るまで俺らと飲もうよ」

来ないんでしょ?と見透かされている気がして苛ついた。そのにやけた馬面に水をかけてやりたい。
「こっちのテーブルにおいでよ」
もうひとりの男が背中に触れてきた。気持ち悪い。ここのマスターは客同士のやりとりには極力口を出さないが、さすがに助けを求めようとした時、入口の方から低い声がした。

 「やあ、待たせたね」

 声の主は、彫りの深い整った顔に、ネイビーブルーのスーツがよく似合う30代前半位の男性だった。顔立ちのせいなのか何なのか、目付きがすこぶる悪い。肩に届く程の長い黒髪がいやでも目を引く。そして、横の男達より頭二つ分は高い身長と、均整のとれた逞しい体躯。

 こんないかつい人なら威圧を与えるのに言葉はいらないだろう。
 どう見ても極道です。
 本当にありがとうございました。

 その人が私に近づき、手を差し出して立つように促す。導かれるように、その手を取った。
 どこからどうみてもヤのつく自由業だが、さっきのこの人の声がとても優しかったから、何故かわからないけれど信用しようと思った。

 「私の連れに何か用だったかな?」
 その人が低い声で凄むように言い、鋭い眼光を男達に投げると、彼らは「いや、何でもないです」と蚊のなくような声で引き下がり、もといた席へ戻っていく。

 その人はカウンター内に視線だけ向けて言った。

 「奥、連れていっていい?」

 滅多に表情を変えないマスターがにっこりと笑っていた。



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