わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)

ゆきづき花

58. 橘部長が噂の的_2


 いつものように「Visitor」のネームプレートを首から下げて、指定された階へ行くと、杉岡さんは小さな会議室を借りていてくれた。

「新聞報道の件か」

 私が椅子に座るなり、杉岡さんが単刀直入に言う。確かにこんな話、外では出来ない。私は杉岡さんの顔を見ながら頷いた。
 社内では宮様ファンクラブの方々が真っ先に気づいて、あっという間に噂が駆け巡ってるらしい。元々「橘部長に彼女が出来た」という噂は広まっていたから「あの噂は本当で、女優と付き合っていた」「許せない」と朝から怨嗟が渦巻いているらしい。想像するとかなり怖い……。

「実は俺も知らなかった。あの人があんな……ちょっと想定外だった」

 杉岡さんが知らないって事は仕事関係じゃない。完全にプライベートだ。ますます暗鬱な気持ちになる。

「接点がどこにあったかもわからない。ただ、私が同伴しない私的な交遊関係での集まりもあるだろうからな。まあ女性には好かれる人だから相手が女優だろうが何だろうが不思議じゃないが、あんなに君に執着していたのに、と俺には信じられない」

 私を嫌ってるはずの杉岡さんが、何だか私を心配してるような顔をしている。この人に相談することにしてよかったなと思いつつ、私は言った。

「結婚式を延期したいと言われました」

 杉岡さんが驚いた顔をした。少し黙ってから、低い声で言う。

「……俺は聞いてないぞ?」
「でも言われました……」
「理由は?」
「言えない、と」
「なんだそれは。俺は聞いてない!」

 杉岡さんが身を乗り出すから会議室の机がガタンと鳴って、ちょっとびくっとしてしまった。杉岡さんは宮燈さんの行動に怒ってるみたいだった。

「言えない、なんてことあるかよ。君は配偶者だろう?こっちは散々苦労して君達のことを隠してきたのに」
「そのことなんですけど、私達って本当に結婚してるんですか?」

 私がそう質問すると、呆れたような顔で杉岡さんが答えてくれた。

「疑うなら、住民票をもらってくればいいだろう」
「あっ!そっか!」
「君は頭がいいのか馬鹿なのかわからないな……。手っ取り早く健康保険証でも見てみろよ」

 そう言われて、私はお財布から保険証を出した。
 『氏名 橘桜』と書かれた私の健康保険証。結婚することで私は宮燈さんの扶養家族になったから、健康保険は国民健康保険から双葉の社会保険に切り替わった。『家族(被扶養者)』『被保険者氏名 橘宮燈』と記された小さなカード。私が宮燈さんと結婚してるって事の客観的な証拠。

 確かめたら安心して涙がぽろぽろ零れてきた。杉岡さんは戸惑ったような声で「おい、泣くなよ。俺が泣かせたみたいで居心地が悪い」と言っていたが、涙がとまらなかった。
 この保険証を発行する手続きをしてくれたのは、総務課福利係の二人の社員さん。宮燈さんが結婚したことは総務部長とその二人の社員さんしか知らないらしい。杉岡さんからこれを手渡されるときにそう聞いた。

「離婚したら、また面倒な手続きをお願いしなくてはならないですね。ごめんなさい」

 私がそう言うと、「本気なのか?」と杉岡さんが問う。だから、私は顔をあげて答えた。

「もし、橘部長が浮気してたら、私は絶対許せません。離婚します」
「もしそれが、一回のあやまちでも?」
「過ち……? 一回だろうが何だろうが、私は許せないです」
 
 それに、それこそ私と宮燈さんが結婚したきっかけだけ見れば、私の方が「過ち」で、浮気相手の方が本気なんじゃないかと思ってしまった。



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