わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)
18. 橘部長が返してくれない_1
塩見さんからの電話の用件は、おそらく「バイト代われ」だろう。無視しようかと思ったが、塩見さんはしつこく掛けてくる人なので、私は橘部長に「バイトの先輩なので、すみません」と断って電話に出た。電話の向こうは雑音が酷く音楽もうるさいから、きっとパチンコ店の中だと思う。
「無理です」
『えー俺まだ何も言うてへんのに』
用件を言われる前に断った。それなのに、塩見さんはヘラヘラ笑ってるような声で続けた。
『負け続けとったけど、やっと勝ったとこやさかい、もう少し粘って取り戻したいねん』
「今日は無理です」
『この台は出るて信じとったんや』
「知りません。無理です。他の人にあたってくださいね。切りますよ」
『もう断られてん。桜ちゃーん、冷たない?お小遣い、ちゃんとあげんで』
「お、お小遣い……」
一瞬、心が揺らいだ。お給料日まで、まだ日があるからお小遣いをもらえるなら嬉しい。そしてハッとした。今、橘部長と千円を天秤にかけてしまった……。比べ物にならないのに。
奨学金も借りているが、全額を実家の借金返済に充てている。親が私のお金を流用していることは、周囲には薄々気付かれているし、私自身も納得している。私は自分の生活費は全部自分で稼がないといけない。
食費は橘部長に甘えることにしたし、使う度に上限額までチャージしてくれるお陰で、大学生協で買える物は何とかなるけど、その他にも現金は必要。他大学にしかない本のコピー依頼もタダじゃない。
悲しいかな、千円でも私にとっては貴重なのだ。
だから、これまでだったら「ハイよろこんでー!」と交代して、アルバイト先まで自転車を飛ばしていただろう。
でも今日は、行きたくない。せっかく橘部長が会いに来てくれたから、少しでも一緒にいたい。
私が沈黙した隙に、塩見さんが言った。
『ほな、頼むわ』
「あ!待ってください!無理です!自分で行って!!」
私が慌てていると、急に端末を取り上げられた。見上げたら、橘部長が私のスマホを持って見つめている。何してんの?と思っていたら何気ない仕草で通話を切った。
「橘部長ー!何してるんですかー?!」
「用件は終わったんだろう?だから切った」
電源も落として、橘部長が言った。
「"塩見晴樹"?」
「バイトの、先輩です」
何故か詰問されているような口調で、私は内心びくびくしていたけれど、橘部長はやっぱり無表情だった。そのままスマホを返してくれないから手を出したのに、無視して話しかけてくる。
「……君の家は今出川だったな」
「そうですけど、何で知って…………ああ、そりゃ履歴書見てるから知ってますよね」
プチストーカーだもんね。
「あの、スマホ返してください」
「いやだ」
橘部長は無表情で、私のスマホをスーツの胸ポケットにしまいこんだ。
私が「いやだ、って子供ですか!人のものを勝手にとるのはドロボーですよ!ドロボー!」と言って、橘部長に迫っても、全然返してくれそうにない。それどころか、私を一瞥して門の方へと歩き出した。慌てて追いかけたけど、怒ってるようにしか見えない。
「スマホ返してくださいよ!」
「君の家に着いたら返す」
「家?……ってうちに来る気ですか?!え!ヤダヤダヤダ!」
「同乗するか?」
門の外まで出ると、そこに停まっていたのは黒塗りの高級車だった。これ、追突してはいけないやつじゃん。
白手袋の運転手さんが降りてきて、後部座席のドアを開けて待っている。本当に存在するんだ……。
「一緒に乗り込むなんて目立ち過ぎます。私は自転車で帰りますから……」
「わかった」
いやだと言ってるのに、私の家に行くのはもう決定事項らしい。それより、スマホを返して欲しい。個人情報の塊なのに。そう思って口を開こうとしたが、先制された。
「電源は入れない。情報を抜いたりしない。君の家で必ず返す」
塩見さんからの連絡を絶対に受けて欲しくないんだろうな、と思った。無表情だけど、若干の苛立ちが見て取れる。仕方なく私は、その条件でスマホを預けることにした。
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