わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)

ゆきづき花

16. 橘部長に甘えることにした_1


 金曜日はゼミがあるから、午前中から大学へ行って準備をして、お昼は研究室のみんなで学食へ行くのが定例だった。
 私は懐具合によっては参加せず、家で作ってきたおにぎりを研究室で食べる事も多かった。珍しく私が「生協いっきまーす!」とついて行ったので、修士課程マスター博士課程ドクターの先輩達が口々に言った。

「桜ちゃんが元気で安心やわ」
「みんな、いつか倒れるんちゃうかって心配しとったんやで」
「やっぱし就活早う終わらせた子は余裕やな」

 定食に加えてヨーグルトもトレーに載せていたので、先輩達に「偉い偉い」と褒められた。
先輩達だってお金ないのに、時々奢ってくれたりしてたから、早く社会人になって差し入れする立場になりたいなと思う。

 本来なら高校を出た時点で就職して、実家にお金を入れた方がいいのはわかっていたけど、私のわがままで大学に行かせてもらった。「入学金・学費の全額免除が勝ち取れたら」という条件付きではあったけれど。
 妹は高校生二年生で、弟はまだ中学生三年生。来年就職すれば、何とか二人の学費は稼げると思う。

 とりあえず、私は橘部長に甘えることにした。

 先日、「生計を一にする」などと電話で言った橘部長は、私が「心苦しいです……」と言うと、『使わないつもりなら、それでもいい。現金がいいなら振り込む』と答えた。

「絶対振り込まないでくださいね! ありがたく使わせて頂きますから!!」
 とんでもない額を振り込みそうな予感がしたので、私は慌ててそう言った。



 普段優しい先輩たちは、ゼミの質疑では鬼のようになる。

「『グリヒヤ・スートラ』はええんやけど、『王子の誕生クマーラサンバヴァ』の翻訳、文節がおかしない? 自分で原本から訳したか?」
「すみません、時間なくて和訳を使いました」
 他大学の紀要にあった和訳を使ったのを怒られた……。

「ジャイナ教における概念まで持ち出したら、本題から逸れへん? 観点はええ思うけど、時間あるん?清川は翻訳作業遅いのに、一月の締切までに出来るん?」
「すみません、教授せんせいと相談します」
 附論が増えるから、確かに先輩の言うとおり間に合わないかもしれない……。

 他にもたくさん突っ込まれて、全部の質問に答えきれずに泣かされた私は、めそめそしながら自転車置き場まで歩いていた。
 
(バイトの後で時々寝落ちしながらも頑張って準備したんだけど、まだまだ甘かったなあ。先生にみてもらってない部分で、注釈の翻訳に間違ってる所あったし……)

 でも就活も終わって、前よりは時間に余裕が出来たから、卒論完成に向けて頑張ろう。そう考えながら、気分転換に図書館に行こうか、それともさっさと帰ろうかと逡巡していたら、手に持っていた携帯端末が振動した。

「わーい!橘部長から電話だ~!」

 液晶画面に表示されている「橘宮燈」という三文字に心がぴょこぴょこ跳ねる。この前みたいにぼんやりせずに、すぐに電話に出た。

「こんにちは!」
『元気にしているか?』
「はい、お陰様で元気です! ごはん美味しいです!」

 橘部長が少しだけ沈黙した。電話の向こうで笑ってるような気がしたのは、多分私の願望だと思う。

『……いま、どこにいる?』
「え? 大学にいますけど」
『の、どこだ?』
「文学部の前です」
『これから、時間あるだろうか?』

 私の実家に行くのは来週に決まったし、特に用事はないはずだけど、お電話でお話したいのかな?
 というかまだ五時を過ぎたところだから、仕事中かと思ったんだけど。

「時間ありますよ。今日はバイトも休みですし」

 金曜日のゼミは長引くこともあるから、なるべくアルバイトを入れていない。さっきまで落ち込んでたから、声が聞けてうれしかった。会話してるだけで気分が落ち着いてくる。私はこの人が好きなんだなあとぼんやり思っていた。

 会いたいなぁ。
 会ってちゃんと御礼を言いたい。

 三食ごはんを食べられるって、物凄く幸せだった。40kgを切ってた私の体重は適正体重に近づいている。腰を据えて話せるよう、どこか座る場所を探した方がいいかなと思っていたら、橘部長が妙なことを言った。

『クスノキにいるのだが』
「…………クスノキ? 時計台の?」

 吉田キャンパス正門の時計台。戦前からあるキャンパスのシンボル。時計台の前には大きなクスノキがある。ぐるりと囲むようにベンチがあり、いつも誰かが集まってサークル活動やってたり、踊ってたり待合せしてたりする。学生だけでなく子連れのご近所さんや観光客も多い場所。

『そうだ、時計台』
「い、行きます! すぐ行きます!!」

 通話を切って、端末を手に持ったまま私は走った。
 時計台は、文学部からすぐそば。橘部長が在籍してた法経済学部からもすぐそば。
 走ればすぐに着く。

 すぐに。



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