お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~
29. これからずっと一緒にいるんだし(終)
素肌に触れるシーツが心地いいが、隣にいつもの体温がない。
葉月が違和感に目を覚ますと、ベッドから朔也は消えていた。
ぼんやりしたまま、周囲を見回してみる。
かすかな空調の音だけが聞こえる、温かな色合いの上品な寝室。
大きな出窓には分厚いカーテンがかかっていたが、隙間から朝日が漏れていた。
ベッドサイドのテーブルには朔也の眼鏡が置かれ、窓の近くのソファに白いガウンがかかっている。寝るときはなかったから、たぶん朔也が用意してくれたものだろう。
──朔也くん、起きたときそばにいないの珍しいな。お手洗いかな……?
キングサイズのベッドから下りて、ありがたくガウンを着る。
カーテンを開けたら、朝の東京の景色が見下ろせた。
初夏の空は青く澄んでいる。まるで森のような日比谷公園や皇居の新緑が眩しく、流れる堀の水はきらきら輝いていた。
つい見入ってしまったが、リビングから話し声が聞こえた気がして、葉月はそちらに行ってみることにした。
「……ええ、はい。勅使河原さんもお疲れ様でした」
ドアを開けると、リビングの隅にある出窓のそばに、ガウンを身にまとった朔也が立っている。
彼はこちらに背中を向けて電話していたが、葉月に気づいたのか振り返って笑いかけてきた。
そしてすぐに会話を終わらせ、通話を切る。
「おはようございます。すみません、急にかかって来たのでこっちで話してて」
「ううん、私こそごめん、仕事の電話? 邪魔しちゃった」
「いえ。それに、すぐ切る予定でしたから。向こうも忙しいからそのほうが喜ばれる……あ、何か飲みます? 水がいいですか」
「うん。ありがとう」
朔也はスマートフォンを近くの執務机に置き、ミニバーのカウンターに歩いていった。
──改めて見ると、本当に豪華な部屋だなぁ。
葉月もミニバーへ向かいながら、足の裏でふかふかした絨毯を感じる。
リビングは寝室と同じく洋風の内装で、落ち着いた高級感が漂っていた。
執務机以外にもダイニングテーブルとローテーブルがあり、ソファなんて三つもある。
にもかかわらず、室内は広々として見えた。青空が覗く大きな窓の開放感のおかげもあるのだろうが、実際にとにかく広いのだ。
「どうぞ」
朔也が木目調のキャビネに隠された冷蔵庫を開けてミネラルウォーターの瓶を取り出し、ワイングラスに注いでくれる。
葉月は礼を言い、受け取ったグラスに口をつけた。冷たく爽やかな喉越しが気持ちいい。
「いい飲みっぷりですね」と朔也が微笑み、それから真面目な表情になる。
「……さっきの電話、一ノ瀬が逮捕された、って刑事からの報告だったんです」
「えっ」
思いがけない知らせに、葉月は目を丸くした。
旅行先での改心をきっかけに、朔也は一ノ瀬の悪事を告発し、通常業務の影で警察の捜査に協力していた。
必死で頑張る朔也を葉月もサポートしていたから、彼の努力が実ったのが自分のことのように嬉しい。
「お疲れ様、朔也くん。おめでとう!」
「ありがとうございます」
朔也は一応笑ってみせたが、思うところありげに表情を曇らせた。
「レイラも連行されたそうです。詳しくは言えませんが、昔から積極的に協力していた形跡があったので」
「……そう、なんだ」
「ええ。証人と被告人の関係になる前に謝っておけてよかった。俺のエゴですが」
うつむいた朔也の眉間の皺が深くなる。
旅行から帰ったあと、朔也はすぐにレイラと会い、出世目的で近づいたことを謝罪した。
彼女は激怒し、そのとき持っていたグラスの水を朔也にぶちまけて去っていったらしい。
それ以来接触はなくなったそうだが、今後は裁判で顔を合わせることになる。
己の欲望のためにレイラを利用しただけでなく、被告席にまで追いやってしまった。根が優しい朔也は、そう自責してしまっているのだろう。
「大丈夫だよ、朔也くん。ちゃんと向き合って決着をつけたのはレイラさんに誠実だったと思う。それに、彼女が悪いことをしてたのは朔也くんのせいじゃない」
葉月の励ましに、朔也ははっと顔を上げた。
「……ありがとう、葉月さん。あなたにはいつも救われっぱなしですね」
それから険しくなっていた表情を緩め、葉月を抱きしめる。
「俺、これからも頑張ります。全部が全部うまくいくわけじゃないけど、困ってる人たちを助けたい。あなたが俺にしてくれたみたいに」
「ふふっ……私のヒーローにそう言ってもらえるなんて嬉しいな」
「葉月さんだって俺のヒーローですよ」
再会した直後の不安定な朔也と同一人物とは思えない堂々とした笑顔に、葉月は胸が熱くなった。
弁護士は過酷な仕事だから、また障害にぶつかってしまうこともあるかもしれない。
だが、彼ならもう己を見失わないはずだ。
「ともかく、やっと一段落です。そこのワインセラーにシャンパンありましたし、乾杯しましょうか」
「えっ、朝から?」
「お祝いなので」
そう言いながらも、なぜか朔也は葉月の手を引き、ソファに並んで座らせた。
葉月から空のグラスを取り、近くのローテーブルに置く。
「……でも、その前に聞いておきたいことがあるんです。問題にケリがついた今なら、言える」
それから両手で葉月の手を包み、やや強張った表情で見つめてきた。
──まだ、何かあるの……?
緊張が伝染し、喉がごくりと鳴る。
「葉月さん。あなたがよければですが」
「う、うん」
「……名前を、呼び捨てで呼んでもいいでしょうか」
「えっ?」
深刻な声の申し出に、葉月は目を瞬かせた。
──よ、呼び捨て!? それだけでこんな、真剣に……?
思わず固まったあと、一気に笑いがこみ上げる。
朔也は恥ずかしそうに顔を背け、ずれてもいない眼鏡を直した。
「そんな笑わなくてもいいでしょ」
「っ、はは、ごめん……! ものすごく真面目に言うから可愛くって……!」
「可愛くありません。その……葉月さんに俺はふさわしくない、とかぐちぐち悩むのはやめました。けど、名前の呼び捨てだけは全部ケジメついてからにしようって考えてたんです。なんか……偉そうだから」
確かにこの先も敬語で通すのだろうか、と思ってはいたが、そんな理由があったなんて。
強くなったと思えば急に愛らしくなる朔也に心を奪われっぱなしだ。
「ありがとう。もちろん大歓迎だよ、朔也くん。敬語もやめちゃおっか」
「ありがとうござ──……いや、違う。葉月さん、笑わないでくださいよ。あっ」
「ふふっ……」
「あーもう、こら、恥ずかしいから」
じゃれるように朔也が抱きついてきて、そのままソファに押し倒される。
それが無性に楽しくて、葉月は声を上げて笑った。朔也もいつの間にか笑っている。
「大丈夫。これからずっと一緒にいるんだし、少しずつ慣れてけばいいよ」
葉月が朔也の頬を撫でると、彼は愛おしそうに目を細めて頷き、そっと葉月の左手を取った。
薬指にはまった婚約指輪を眺めてから、葉月をまっすぐ見つめる。
「……ありがとう。俺と一緒にいるって決めてくれて」
敬語をやめた途端に溢れた朔也の頼もしさに、葉月の鼓動が跳ねた。
「あなたに会えて本当によかった。選んでくれたこと、絶対後悔させない。俺の人生をかけて幸せにする」
「朔也くん……」
「愛してる、葉月」
シンプルだが強烈な愛の言葉と、初めて呼び捨てられた名前。
「──……っ」
そのあまりの威力に、葉月は何も言えなくなってしまった。
朔也がにんまりと笑みを浮かべ、駄目押しのように唇を奪ってくる。
「どうした? ほっぺた赤くなってきてる」
「ずるいよ、朔也くん。急に可愛くなったり、かっこよくなったり……」
「はは、その言葉そっくりそのまま返す」
「昨日はかっこよかったけど、今の葉月はすごく可愛い」と指の背で頬を撫でられ、葉月はますますそこが熱くなった。
「わ、私も慣れる時間が必要、かな……」
「ああ。これからずっと一緒にいるんだし、少しずつ慣れてけばいい」
「それ私が言ったこと……」
「これもそのまま返す」
からかわれて恥ずかしいが、幸せそうな朔也を見ていると葉月も幸せな気分になる。
「じゃあ、私も返しちゃおうかな。愛してるよ、朔也くん」
「……本当だ。それ、ずるいな」
「ふふっ、でしょ?」
葉月が笑うと、朔也も照れくさそうに笑って頷く。
自然と言葉が消え、葉月たちは互いだけを見つめ合った。
これから一緒にいる時間がもっと増えて、いつか朔也の口調も愛の言葉も日常になるのだろう。
葉月は明るい未来を思い浮かべ、優しく降ってきた朔也の唇を受け止めた。
(終)
葉月が違和感に目を覚ますと、ベッドから朔也は消えていた。
ぼんやりしたまま、周囲を見回してみる。
かすかな空調の音だけが聞こえる、温かな色合いの上品な寝室。
大きな出窓には分厚いカーテンがかかっていたが、隙間から朝日が漏れていた。
ベッドサイドのテーブルには朔也の眼鏡が置かれ、窓の近くのソファに白いガウンがかかっている。寝るときはなかったから、たぶん朔也が用意してくれたものだろう。
──朔也くん、起きたときそばにいないの珍しいな。お手洗いかな……?
キングサイズのベッドから下りて、ありがたくガウンを着る。
カーテンを開けたら、朝の東京の景色が見下ろせた。
初夏の空は青く澄んでいる。まるで森のような日比谷公園や皇居の新緑が眩しく、流れる堀の水はきらきら輝いていた。
つい見入ってしまったが、リビングから話し声が聞こえた気がして、葉月はそちらに行ってみることにした。
「……ええ、はい。勅使河原さんもお疲れ様でした」
ドアを開けると、リビングの隅にある出窓のそばに、ガウンを身にまとった朔也が立っている。
彼はこちらに背中を向けて電話していたが、葉月に気づいたのか振り返って笑いかけてきた。
そしてすぐに会話を終わらせ、通話を切る。
「おはようございます。すみません、急にかかって来たのでこっちで話してて」
「ううん、私こそごめん、仕事の電話? 邪魔しちゃった」
「いえ。それに、すぐ切る予定でしたから。向こうも忙しいからそのほうが喜ばれる……あ、何か飲みます? 水がいいですか」
「うん。ありがとう」
朔也はスマートフォンを近くの執務机に置き、ミニバーのカウンターに歩いていった。
──改めて見ると、本当に豪華な部屋だなぁ。
葉月もミニバーへ向かいながら、足の裏でふかふかした絨毯を感じる。
リビングは寝室と同じく洋風の内装で、落ち着いた高級感が漂っていた。
執務机以外にもダイニングテーブルとローテーブルがあり、ソファなんて三つもある。
にもかかわらず、室内は広々として見えた。青空が覗く大きな窓の開放感のおかげもあるのだろうが、実際にとにかく広いのだ。
「どうぞ」
朔也が木目調のキャビネに隠された冷蔵庫を開けてミネラルウォーターの瓶を取り出し、ワイングラスに注いでくれる。
葉月は礼を言い、受け取ったグラスに口をつけた。冷たく爽やかな喉越しが気持ちいい。
「いい飲みっぷりですね」と朔也が微笑み、それから真面目な表情になる。
「……さっきの電話、一ノ瀬が逮捕された、って刑事からの報告だったんです」
「えっ」
思いがけない知らせに、葉月は目を丸くした。
旅行先での改心をきっかけに、朔也は一ノ瀬の悪事を告発し、通常業務の影で警察の捜査に協力していた。
必死で頑張る朔也を葉月もサポートしていたから、彼の努力が実ったのが自分のことのように嬉しい。
「お疲れ様、朔也くん。おめでとう!」
「ありがとうございます」
朔也は一応笑ってみせたが、思うところありげに表情を曇らせた。
「レイラも連行されたそうです。詳しくは言えませんが、昔から積極的に協力していた形跡があったので」
「……そう、なんだ」
「ええ。証人と被告人の関係になる前に謝っておけてよかった。俺のエゴですが」
うつむいた朔也の眉間の皺が深くなる。
旅行から帰ったあと、朔也はすぐにレイラと会い、出世目的で近づいたことを謝罪した。
彼女は激怒し、そのとき持っていたグラスの水を朔也にぶちまけて去っていったらしい。
それ以来接触はなくなったそうだが、今後は裁判で顔を合わせることになる。
己の欲望のためにレイラを利用しただけでなく、被告席にまで追いやってしまった。根が優しい朔也は、そう自責してしまっているのだろう。
「大丈夫だよ、朔也くん。ちゃんと向き合って決着をつけたのはレイラさんに誠実だったと思う。それに、彼女が悪いことをしてたのは朔也くんのせいじゃない」
葉月の励ましに、朔也ははっと顔を上げた。
「……ありがとう、葉月さん。あなたにはいつも救われっぱなしですね」
それから険しくなっていた表情を緩め、葉月を抱きしめる。
「俺、これからも頑張ります。全部が全部うまくいくわけじゃないけど、困ってる人たちを助けたい。あなたが俺にしてくれたみたいに」
「ふふっ……私のヒーローにそう言ってもらえるなんて嬉しいな」
「葉月さんだって俺のヒーローですよ」
再会した直後の不安定な朔也と同一人物とは思えない堂々とした笑顔に、葉月は胸が熱くなった。
弁護士は過酷な仕事だから、また障害にぶつかってしまうこともあるかもしれない。
だが、彼ならもう己を見失わないはずだ。
「ともかく、やっと一段落です。そこのワインセラーにシャンパンありましたし、乾杯しましょうか」
「えっ、朝から?」
「お祝いなので」
そう言いながらも、なぜか朔也は葉月の手を引き、ソファに並んで座らせた。
葉月から空のグラスを取り、近くのローテーブルに置く。
「……でも、その前に聞いておきたいことがあるんです。問題にケリがついた今なら、言える」
それから両手で葉月の手を包み、やや強張った表情で見つめてきた。
──まだ、何かあるの……?
緊張が伝染し、喉がごくりと鳴る。
「葉月さん。あなたがよければですが」
「う、うん」
「……名前を、呼び捨てで呼んでもいいでしょうか」
「えっ?」
深刻な声の申し出に、葉月は目を瞬かせた。
──よ、呼び捨て!? それだけでこんな、真剣に……?
思わず固まったあと、一気に笑いがこみ上げる。
朔也は恥ずかしそうに顔を背け、ずれてもいない眼鏡を直した。
「そんな笑わなくてもいいでしょ」
「っ、はは、ごめん……! ものすごく真面目に言うから可愛くって……!」
「可愛くありません。その……葉月さんに俺はふさわしくない、とかぐちぐち悩むのはやめました。けど、名前の呼び捨てだけは全部ケジメついてからにしようって考えてたんです。なんか……偉そうだから」
確かにこの先も敬語で通すのだろうか、と思ってはいたが、そんな理由があったなんて。
強くなったと思えば急に愛らしくなる朔也に心を奪われっぱなしだ。
「ありがとう。もちろん大歓迎だよ、朔也くん。敬語もやめちゃおっか」
「ありがとうござ──……いや、違う。葉月さん、笑わないでくださいよ。あっ」
「ふふっ……」
「あーもう、こら、恥ずかしいから」
じゃれるように朔也が抱きついてきて、そのままソファに押し倒される。
それが無性に楽しくて、葉月は声を上げて笑った。朔也もいつの間にか笑っている。
「大丈夫。これからずっと一緒にいるんだし、少しずつ慣れてけばいいよ」
葉月が朔也の頬を撫でると、彼は愛おしそうに目を細めて頷き、そっと葉月の左手を取った。
薬指にはまった婚約指輪を眺めてから、葉月をまっすぐ見つめる。
「……ありがとう。俺と一緒にいるって決めてくれて」
敬語をやめた途端に溢れた朔也の頼もしさに、葉月の鼓動が跳ねた。
「あなたに会えて本当によかった。選んでくれたこと、絶対後悔させない。俺の人生をかけて幸せにする」
「朔也くん……」
「愛してる、葉月」
シンプルだが強烈な愛の言葉と、初めて呼び捨てられた名前。
「──……っ」
そのあまりの威力に、葉月は何も言えなくなってしまった。
朔也がにんまりと笑みを浮かべ、駄目押しのように唇を奪ってくる。
「どうした? ほっぺた赤くなってきてる」
「ずるいよ、朔也くん。急に可愛くなったり、かっこよくなったり……」
「はは、その言葉そっくりそのまま返す」
「昨日はかっこよかったけど、今の葉月はすごく可愛い」と指の背で頬を撫でられ、葉月はますますそこが熱くなった。
「わ、私も慣れる時間が必要、かな……」
「ああ。これからずっと一緒にいるんだし、少しずつ慣れてけばいい」
「それ私が言ったこと……」
「これもそのまま返す」
からかわれて恥ずかしいが、幸せそうな朔也を見ていると葉月も幸せな気分になる。
「じゃあ、私も返しちゃおうかな。愛してるよ、朔也くん」
「……本当だ。それ、ずるいな」
「ふふっ、でしょ?」
葉月が笑うと、朔也も照れくさそうに笑って頷く。
自然と言葉が消え、葉月たちは互いだけを見つめ合った。
これから一緒にいる時間がもっと増えて、いつか朔也の口調も愛の言葉も日常になるのだろう。
葉月は明るい未来を思い浮かべ、優しく降ってきた朔也の唇を受け止めた。
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