お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

24. 本当に、俺と結婚してください(1)

 桜と温泉街を見下ろす丘に、春の静かな細い雨が降る。
 旅館から続く遊歩道の坂の上にある展望台。
 葉月はそこで東屋のベンチにひとり腰掛け、雨粒が地面のコンクリートを濡らすのを眺めていた。
 じめじめした空気が髪や服を重くする。
 東屋やベンチから放たれる湿った木材の匂いも、より気を滅入らせた。

 ──何してるんだろう、私……。

 衝動的に離れを出てしまったから、スマートフォンも財布もお守りの指輪もない。
 戻るしかないとわかっているが、雨宿りを理由に決断を先送りし続ける。

 ──朔也くんに会うのが怖い。
 ──本当に何てことしちゃったんだろう。ただでさえ問題が山積みなのに、彼女からの電話に勝手に出て、当てつけみたいに指輪とメモなんて置いて……。

 視線を上げたら、向こうの高台に群生した桜が雨でかすんでいた。
 十四年前もこんな景色をこんな気分で見たのを思い出す。
 傷つくたびに逃げ込んだ、森林公園のはずれの秘密基地で。

 ──……私、あの頃からずっと同じ場所にいるんだな。朔也くんのことは好きなまま、性格もうじうじしたままで。

 自嘲と呆れがこもった笑いが出て、引きつるような吐息が漏れる。
 それから目頭が熱くなり、涙が溢れた。
 いつまでもこうしているわけにはいかないのに、離れに戻れば二人の関係が終わると思うと覚悟を決められない。

「葉月さん!」

 不意に、背後から聞こえるはずのない声がした。

「──っ、いてくれてよかった……!」

 驚きに振り向いた葉月のもとへ、朔也が駆け寄ってくる。
 彼は焦りと安堵が入り交じったような表情で、ずいぶん雨に濡れていた。
 紺のジャケットの肩はより濃い色に変わり、セットされた髪は乱れて落ち、肌にも眼鏡のレンズにも水滴がついている。
 旅館から走ってきたのか息も荒く、いつものスマートさはどこかへ行ってしまったようだ。

「さ、朔也くん……!?」
「……ごめんなさい。あなたを泣かせたくなんかなかったのに」

 葉月の前に立った朔也がきつく眉を寄せる。
 涙の跡を見られたのだと気づき、葉月は慌てて頬を拭った。
 真っ白だった頭がようやく動き出し、どうにか笑顔を作る。

「これは……雨だよ。その、ごめん、探しにきてくれるなんて」
「葉月さん、もう作り笑いしないでください」

 だが、思いがけない台詞に言葉が消えた。
 朔也がしゃがみ、ベンチに座っている葉月と視線を合わせる。

「俺がそうさせたのにすみません。でも、あなたを一人で悲しませたくない。本当の気持ちを教えてくれませんか。これまでずっと……俺のせいで、向き合えなかったから」

 真剣な瞳が、葉月の胸の奥を揺さぶる。
 朔也の誠実さにどうしようもなく惹かれてしまう一方で、切なさにまた泣きそうになった。

「……ありがとう。本当に優しいね、朔也くんは」

 うつむいて涙を堪えるが、声が震えてしまう。

「けど、そこまでしてくれなくてもいいんだよ。これ以上朔也くんの負担を増やしたくない。私は偽の婚約者なのに、勝手に片思いして暴走した。そんな奴に優しくする必要なんてない──」
「あります」

 珍しく強い声で遮られ、葉月は驚いて顔を上げた。
 朔也は変わらず葉月を見つめている。
 その美貌は歪み、ここで葉月を逃がしたら一生後悔する、と言わんばかりの必死さが滲んでいた。
 彼らしくない不格好な表情だが、それに鼓動が激しく跳ねる。

「必要ありますよ。俺は葉月さんが好きで誰よりも大切です。今まで優しくできなかったのが問題なんです」

 朔也が葉月の手をしっかりと握る。
 葉月は目を見開き、彼を見つめ返した。

 ──誰よりも大切……!?

 聞き間違いだと思おうとしても、朔也の熱い眼差しがそうさせてくれない。

「で、でも、思ってることを押しつけるなんて……」
「押しつけてください。どんな内容でもあなたが知りたい。もう逃げません。これまではできなかったけど、もう変わる」

 手を包んでくれる掌さえも熱かった。
 それらの熱に心の壁が溶かされて、内側に閉じ込めていたものが溢れてしまいそうになる。

 ──本当は……ずっと、朔也くんにこの気持ちを受け止めてほしかった。
 ──けど、怖いよ。前は押しつけちゃったせいで朔也くんを苦しめて、私も傷ついて……!

「葉月さん」

 朔也の瞳は揺らがず、葉月だけを見据え続けている。
 視線を合わせているだけで、彼がどれだけ本気なのか伝わってきた。
 心臓の鼓動が速まり、喉が勝手にごくりと生唾を呑み込む。

 ──どうしたって怖さは消えない。もうこれ以上傷つきたくない。
 ──……でも、朔也くんは自分を変えてまで私と向き合おうとしてくれてるんだ。
 ──私だって、勇気を出してみてもいいのかもしれない……!

 葉月は小さく息を吸い、おずおずと口を開いた。

「……私、つらかった」

 ためらいながらも本音を言うと、それが重くのしかかってくる。
 朔也は葉月の気持ちに寄り添うように眉を寄せ、「どうしてですか」と尋ねてきた。

「長くなるけど、いいかな……」
「もちろんです」
「私……朔也くんを助けたかったんだ。お節介だけど、放っておけなくて。偽装婚約に協力したのは、一緒にいればどうして悩んでるのか理由がわかると思ったから。借金のためでもあったけど……」
「……やっぱり、そうだったんですね」
「うん。でも、どんどん朔也くんを好きな気持ちが抑えられなくなって……下心とか、彼女への嫉妬とか、汚い気持ちも混じり始めて。今日、朔也くんの問題がこれで解決できるかもって思ったとき、私は喜べなかった。最初はそれが目的だったのに」

 つらさを思い出すのも醜い自分を朔也に見せるのも苦しくて、ついうつむく。
 朔也が呆れていないか怖かった。
 だが、彼を信じて向き合うと決めたから話し続ける。

「朔也くんの幸せの中に私がいないことが悲しかった。見返りなんていらなかったはずなのに求めてた。それに気づいて全部嫌になって、だから逃げて……」

 堪えきれず、涙がぼろぼろとこぼれた。
 隣に座った朔也がハンカチでそれを拭ってくれて、さらに胸の奥が締め付けられる。

「話してくれてありがとうございます、葉月さん」

 おそるおそる朔也を見ると、彼は少しも呆れておらず、むしろ自分が実際に苦しんでいるかのような表情をしていた。
 本当に受け止めてくれたんだ、と熱いものがこみ上げ、より涙が溢れてしまう。

「すみませんでした。俺が馬鹿だったせいで……あなたをひどい目に遭わせただけじゃなく、そんな思いまでさせた」
「謝らないで……私が勝手に思ってただけだよ」
「いえ、あなたを悲しませちゃ駄目なんです。あなたには幸せになってもらわなきゃ困る」

 葉月の手を握る手に、ぎゅっと力がこもる。

「俺の幸せには、幸せな葉月さんが必要だから」

 まっすぐな視線に射貫かれ、葉月の心臓が大きく震えた。

 朔也の言葉は真実だ。
 理屈を吹っ飛ばして心で、そう理解できる。

「何度もあなたの好意をはねのけてしまったのは、俺が許されちゃいけないと思ったからです。けど、一人でそんなことを決めるのは傲慢だった。あなたの気持ちを聞いて、俺の気持ちも伝えるべきだった」

 改めて自分を責めているのか、朔也が眉をきつくひそめる。

「全部、話してもいいですか。あなたが知りたがってた理由も、俺の考えてたことも……レイラのことも。彼女と話したんですよね。通話履歴があるの、さっき気づいて」
「──……! ご、ごめん」
「いえ、何もかも俺が悪いんです。彼女も俺の被害者ですから」

『被害者』という言葉に葉月は目を丸くした。
 まだ何か、思いもよらない真相があるのかもしれない。

「情けなくて自分でも向き合えてなかったけど、もう逃げたくないんです。あなたがよければ聞いてほしい」

 朔也の固い声には、覚悟と少しのためらいが感じられた。
 先ほどの葉月と同じく、醜い自分を見せるのが怖いのだろう。
 そう思うと、彼の決意と勇気を応援したくなる。

 ──朔也くんはさっき、私を受け止めてくれた。
 ──大丈夫。私にだってその覚悟はあるよ。

「……うん。聞かせて」

 繋いだ手の上に、葉月はもう片手をそっと重ねた。

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