お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

16. 駄目だってわかってても、食いたくなるから

 開け放たれた障子の間から、清らかな朝日が和室に差し込んでくる。
 旅行二日目の午前八時、葉月は朔也と座卓を挟んで朝食を取っていた。

 旅館の献立は上品で彩り豊かだ。
 焼き鮭に茄子の煮浸し、きんぴらごぼう、出汁巻き、あんかけ豆腐……その他にも小鉢がいくつも黒い膳の上に並んでいる。
 もちろん味噌汁とご飯と漬物もついているし、端にはデザートの果物まで。
 出されたときは食べきれるか心配になったが、とてもおいしいので問題なく平らげてしまえそうだった。

 ──朔也くん、食べてるところも綺麗だな。

 箸を止め、ちらりと朔也を見やる。
 客室用の水色の浴衣をまとった彼は背筋を伸ばし、美しい所作で出汁巻きを口に運んでいた。
 髪は自然にセットされ、それを着て眠ったはずなのに浴衣に乱れはなく、凜とした雰囲気が漂っている。
 ふと視線が合いそうになり、葉月は慌てて目をそらした。

 ──不自然だったかも。でも、恥ずかしくて顔が見られないよ……。

 今朝、顔を合わせるなり驚くほど真剣に謝罪され、夕べの出来事は夢ではなかったのだと実感した。
 事故とは言え、葉月は朔也と一緒に露天風呂に入り、裸で覆い被さられ、お姫様抱っこされたのだ。
 その上に、彼は葉月が眠るまでつきっきりで看病してくれた。
 思い出しただけで胸がドキドキして、普通の表情を保てなくなる。

 ──……駄目だ、こんなこと考えちゃいけないのに。

 いくら自分に言い聞かせても、存在してはいけない恋心が膨らみ続けて止められない。
 不意に「葉月さん」と呼ばれ、心臓が大きく跳ねた。

「いりますか?」
「えっ?」
「さっきから俺のこと見てたでしょう。これかなって」

 長い指が卓上の小鉢を差す。
 そこには、ルビーのように輝く新鮮な苺があった。

「い、苺……?」
「はい」
「そんな、他の人の分まで取らないよ! 大丈夫だから朔也くんが食べて」
「別に俺は構いません。我慢するのは体によくないですよ」

 朔也が唇の片端を上げる。
 ややぎこちない微笑みだったが、動揺している葉月はそれに気づけなかった。

 ──そ、そこまで食い意地張ってるって思われてたなんて……! 漫画のギャグキャラじゃないんだから。
 ──いや、でも、朔也くんにとってみたら私ってそんなものなのかも。打ち解けてくれただけまだマシだけど、女の人としては意識してもらえてないんだろうな。裸、一応見せたのに……。

「昨日は葉月さんが俺に茶碗蒸しをくれましたから。今度は俺があーんします」
「も、もう……からかわないの。『あーん』はなし、って朔也くんが言ったでしょ」
「撤回しますよ」

 それが冗談だとわかっていながら、葉月は頬が熱くなった。
 長くて骨張った指。短く切り揃えられた爪。それらがあの瑞々しい苺に触れて、つまみ、葉月の口へ「あーん」と──。
 形のいい朔也の手を盗み見て、つい妄想が膨らんでしまう。

 ──正直……されてみたい。今ならまだ笑い話にしてごまかせるかな。
 ──……うん。「今なら」じゃなくて「今しか」ない。私が朔也くんと恋人みたいなことできるチャンスなんて、この旅行中しかないんだから……!

「じゃあ……お願いしちゃおうかな」

 葉月は勇気を振り絞って立ち上がり、朔也の隣まで歩いて腰を下ろした。
 朔也が目を丸くしたのが見えてすぐに後悔するが、今さら後戻りできず気づかなかったふりをする。

「好きなんだ、苺」

 恥じらいと気まずざに消えそうになる声で言い訳しつつ、朔也がやりやすいようにやや体を寄せる。
 前のめりになったせいで浴衣の合わせから胸の谷間が覗いたが、葉月にはわからなかった。
 朔也の顔をそれ以上見られなくて目を閉じ、勢いに任せて口を小さく開ける。

「…………」

 さほど長いわけでもない沈黙が、永遠に思えた。

 ──や、やばい、やっぱり調子に乗りすぎた……!
 ──そうだよね、「あーん」なんて本物の恋人だけの特権だよ。全然ごまかせなかったし! なんでこんなことしちゃったんだろう……!

「な、なんて……私もたまには冗談言うんだよ」

 いいかげんに引かなければまずい、と冷や汗をかきながら瞼を開く。
 すると、なぜか朔也の顔が思ったよりも近くにあった。

 ──あれ……?

 思い詰めた表情。熱のこもった瞳。
 これまでにない朔也の雰囲気に、ざわっと危機感に似た何かが背筋を駆け上がる。

「むぐっ」

 しかしその正体に気づく前に、苺が口へ突っ込まれた。

「……おいひい。ありがとう……?」

 なぜ途中で妙な沈黙があったのか疑問に思いつつも、ひとまず苺を食べる。
 朔也は無言で頷き、眼鏡を上げた。
 手で顔が隠されて表情は読めない。だが、彼が自分の中の何かを振り払ったような、強引に制止したような、そんな感じがする。

「駄目ですよ、葉月さん。そういう冗談言っちゃ」
「あっ、や、やっぱり面白くなかったよね。ごめん……」
「面白いとか面白くないとかじゃなくて、あなたは無防備すぎるんです」
「無防備?」
「はい」

 大きな掌が葉月の頬にそっと触れる。
 そして、整った顔が近づいてきた。

 ──うそ、キス……!?

 フリーズしかけた頭の中に、再会した直後の記憶が蘇る。
 強引だったが柔らかい唇。熱く濡れた舌。彼のたくましい体と、香水の匂い。
 甘い疼きさえも思い出して、ゾクッと腰の奥が震える。

 ──もう一度してくれるの? それなら、私……!

 混乱したままきつく目を閉じたら、こつん、と額に何かが当たった。

「え……?」
「……ほら。無防備でしょう?」

 遠ざかる気配に、額に額を当てられたのだと気づく。
 きょとんとする葉月を見て、朔也は自嘲的な微笑みを浮かべた。

「そういう可愛い顔するのも駄目です」

 彼の手が名残惜しそうに葉月の頬から離れていく。

「駄目だってわかってても、食いたくなるから」

 レンズの奥の黒い瞳が、一瞬だけぎらりと光った。

「──……!」

 その途端、再び葉月の体に甘い感覚が駆け抜ける。

「……これは冗談じゃありません。昨日はあなたの無防備さに助けてもらってしまいましたが、あれは本当に……」
「う、ううん、いいの! 謝らないで。私も看病してもらったしお互い様だよ!」

 また謝罪が始まりかけ、葉月は焦って朔也を止めた。

「ありがとうございます。でも、もうあんな醜態は晒しません。ちゃんと自分を管理します。今日はしばらく仕事に集中するつもりです」
「うん、私はすみれと観光してくるから。和室とかも好きなように使ってね」
「助かります」

 微笑んだ朔也に安心するが、一方で話をそらされたようにも思える。
 だが、うろたえてしまって追求する気にはなれなかった。

「じゃ、朝飯食っちゃいましょうか」
「そ、そうだね!」

「食う」という単語に先ほどの朔也の瞳を思い出し、鼓動が速まる。
 自分の席に戻って苺を口に運ぶとより記憶が鮮明に蘇って、葉月は頬が熱くなった。

 ──朔也くん、「食いたくなる」とか「可愛い顔」とか……なんか、すごいこと言ってたな。
 ──も、もしあれが本気で、私へキスしようとしたのもそうだとしたら……!

 不埒な妄想が広がりかけてしまい、慌てて考えるのをやめる。
 彼女がいる朔也がそんなことをするはずがない。
 優しくて可愛い朔也だが、彼は再会した直後、偽装婚約に従わせるために葉月にキスをした男でもある。
 先ほどの行為も、おそらく何か別の意味があるのだ。

 ──でも、何のために? 冗談? 警告? 偽装婚約のリアリティを増すためかな。昨日はそれでデートしたわけだし。
 ──とにかく……私はただの偽物なんだから、わきまえないと。

 爽やかな朝らしくないもやもやした気分を、葉月は強引に飲み下した。

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