お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

13. 話しすぎました

「口の中の火傷、大丈夫ですか。もう一度水飲みます?」
「だ、大丈夫だよ。心配かけてごめん」

 数分後、葉月たちは湯畑の広場から何本か外れた通りにある商店街を歩いていた。
 まだ手は繋いだままだ。
 葉月を放っておけないし、すみれたちに出くわしたときの印象工作にもなるから、と朔也は言っていた。

 ──朔也くんの手、あったかくて大きいな。朔也くんの彼女に悪いし、そんなこと思っちゃう自分が恥ずかしいけど……ちょっと役得、かも。
 ──こうしてると本当のデートみたい。街にいる人たちには私たちがカップルに見えてるのかな……?

 自分は偽物だし、恋人のいる朔也にこんなことを考えるのはモラルに反している。おまけに彼とはとても釣り合わない。
 そう理解してはいるが、葉月は浮かれてしまうのを止められなかった。

「……あ」

 広い石畳を歩いているうちに、ふと視線が吸い寄せられる。

 喫茶店や土産物屋が並び、ひなびてはいるが賑やかな商店街。
 その中に埋もれるように、年季の入った小さな古本屋がひっそりと開いていた。
 ガラスの引き戸の向こうは薄暗いが、本の詰まった棚がいくつもあるのが見える。

「気になりますか? 入りましょう」
「いいの? あまり観光っぽくないけど」
「葉月さんが楽しいのが一番ですよ」

 無表情でさらりと殺し文句を放たれ、葉月はどぎまぎしつつも古本屋に入った。

 中は思ったよりも狭く、焦げ茶色の木の本棚が乱立している。
 店の奥では、店主らしき老人がこちらに視線をやることもなく読書中だった。
 換気のためか、小さな扇風機が至るところにある。
 だが空気は少し埃っぽく、古い本特有の不思議と心が落ち着く匂いが広がっていた。
 棚には背表紙が日に焼けた文庫本が詰め込まれ、昔のベストセラーのハードカバーが無造作に平積みされている。

 ──これは掘り出し物がありそう。わくわくしてきた……!

「……ふっ」

 低い笑い声で我に返り、葉月は隣を見た。

「いや、すみません。甘いものを見たときと同じ反応なのが面白くて。目がきらきらしてました」
「そ、そうだった? 恥ずかしいな。あまり見ないで」
「恥ずかしいことじゃないですよ。何と言うか、つられて楽しい気分になります」

 朔也の微笑みに鼓動がドキッと跳ねる。
 満面の、とは行かないが、彼は確かに楽しそうだった。

「それなら……よかった」

 胸に甘酸っぱいものが弾けて、葉月も笑い返す。
 朔也が笑顔を見せるようになったのも、自分と一緒にいて楽しくなってくれたのも、とてつもなく嬉しい。

「どうぞ好きなだけ見てください」
「ありがとう」

 朔也から手を離されて一瞬だけ寂しくなったが、葉月はうきうきと店内を見て回った。
 思ったよりも書籍は充実している。
 一昔前は旅行先で本を読みたくなった人や逆に読み終えた人たちがたくさんここを訪れたのだろう。

 ──近代文学の名作がいっぱいある。温泉地が舞台の作品だから? せっかくだから私も読み直してみようかな。
 ──こっちはガイドブック……昭和の!? 面白そう。雑誌も結構古いのが残ってる……あ、これ懐かしい……。

 夢中であちこちの棚に手を伸ばす。
 ふと背後からの視線を感じて振り向くと、朔也が本ではなく葉月を見ていた。

「ああ、またすみません。邪魔しましたか」
「ううん、どうしたの? ごめん、退屈だった?」
「いいえ。葉月さんは本当に本が好きなんだなって思って」

 再び微笑まれ、頬が熱くなる。
 嬉しいような恥ずかしいような、不思議な気分だ。

「そうだね。昔から本の虫だったから」
「図書館でいろんな本を借りてましたよね。小説も実用書も何でも」
「うん、たくさん秘密基地で読んだね。家で読めるのは参考書だけだったし、すごく幸せな時間だった。図書館が宝の山みたいで行くたびに楽しくって……」

 一気に語ってしまったあとで朔也が昔の話を嫌っていたのを思い出し、慌てて彼を見る。
 だが、朔也は笑顔のままだった。
 彼が心を開いてくれた喜びに、葉月はつい話し続けた。

「そのとき、本も図書館も好きになりすぎたのかも。どうしても司書になりたくて諦められなかったんだ。家族からは猛反対されたけど」

 もっと互いのことを知りたくて、勇気を出して一歩踏み込んでみる。

「朔也くんはどうして弁護士になったの?」

 葉月の質問が予想外だったのか、朔也はわずかに目を見開いた。
 ややためらったあと、口を開く。

「……小さい頃は警官とか消防士とか、そういうのに憧れてたんですけどね」

 ──あれ? そんなの聞いたことなかったけど……隠してたのかな。

 葉月も朔也の答えが予想外だったが、彼がこっそり警官や消防士を夢見ていたとしてもおかしくはない。
 朔也は見ず知らずの葉月を助けるほどの正義漢だった。いわゆる「ヒーロー」らしい職業を志すのは自然な流れだ。
 覚えているかはわからないが、朔也がファンだった戦隊ヒーロー──ドラゴンレッドも、消防士だったはず。

「けど、家族の職業が職業だから公務員にはなれないって知って諦めたんです。小三ぐらいのときに」
「……っ、そうだったんだ」
「ええ。それで……しばらく夢なんてなかったんですが、中学生に上がる頃、母親や家のことで弁護士の先生と話すようになって」

 過去を思い出しているのか、朔也が眉を寄せて目を伏せる。
 つらいことを聞かなければよかったと葉月は慌てたが、朔也はそんな葉月に気づいて薄く苦笑した。

「大丈夫ですよ、もう昔のことですから。それがきっかけだったってだけです。その先生は……弱い者の味方、みたいな人で。いつだって真剣に俺の話を聞いて、母とぶつかってまで俺を守ってくれた。いろいろ割り切れないこともあったはずなのに、最善を目指してくれました」
「素敵な先生だったんだね」
「はい。それで俺もあの人みたいになりたい、って思ったんです。年が年でしたから、先生は話がまとまる前に亡くなってしまったんですが……ああ、話しすぎました」

 朔也は珍しく饒舌に語ったあと、我に返ったように眼鏡を直す。

「楽しい話でもないのにすみません。最近、思い出せてなかったから……つい、浮かぶままに」
「ううん。ありがとう、話してくれて」

 笑いかけてみるが、朔也は目を伏せてしまった。
 表面上は取り繕ってみせても、内心には何かが渦巻いているような、そんな態度に見える。

 ──もしかしたら、偽装婚約しようとした原因はこの辺にあるのかも……?

 葉月はそう思いついたものの、尋ねる勇気は出なかった。
 朔也の抱えている問題の正体がわかれば、一緒に解決策を見つけることができるかもしれない。
 だが、踏み込みすぎれば、再会した直後のように拒絶されてしまう可能性もある。
 彼と打ち解けられたからこそ、それが怖かった。

 ──臆病だな、私。
 ──もし私が朔也くんの本当の彼女だったら……彼に愛されてるって自信があったら、「あなたを助けたいから教えて」ってストレートに聞けたのかな。

「さ、朔也くん、最近本は読んだ? よかったらおすすめを教えてほしいな」

 切なさに胸が締め付けられるのを感じつつ、本当に伝えたい言葉を呑み込んで笑顔を作る。
 朔也がほっと表情を緩めたのを見て、これでよかったのだと思った。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品