お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

8. なんで俺のことなんか

「送ってくれてありがとう。おやすみなさい」
「……はい。おやすみなさい」

 アパートの前でややぎこちなく微笑む葉月に頷くと、朔也は車を発進させた。
 幅の狭い道路。やたらとあるドラッグストア。
 少し進んでからの信号待ちでさりげなく後方を確認し、葉月が中に入ったのを見て溜め息をつく。

「クソッ……」

 ついでに悪態もついた。

 ──あの人、全然変わってなかった。

 自分と同じように、初恋の少女も醜い大人になってしまったはず。
 内心そう願っていたのに、彼女──葉月は、危なっかしいくらいお人好しのままだった。
 勝手に音信不通になった朔也を理由も聞かずに歓迎し、借金を盾に偽装婚約を迫られても罵ることすらせず。
 いろんな場所に連れ回されても、くだらない中傷を受けても、むしろ朔也を気遣って。

 ──……強引にキスまでされたのに。

 後悔の念が押し寄せ、唇を噛む。

「変わったね」と葉月が震えた声で呟いたあのとき、朔也は暴走する自分を止められなかった。
 痛いところを突かれてかっとなったから。
 封印していたはずの切ない想いがこみ上げたから。
 否定されるのが怖くて、自分からわざと嫌われようとしたから。
 原因はいくつもあるが、すべて身勝手なものばかりだ。行為を正当化できる動機なんてありやしない。

 ──なのに、葉月さんは……。

 後ろめたさから冷たくしても健気に見つめてくる瞳を思い出し、朔也は苛立ちながらジャケットの内ポケットを探った。
 中にあるものを手に取ろうとして止め、再び車を発進させる。

 速度を上げていくと、ダッシュボードのホルダーに取り付けた私用のスマートフォンが着信を知らせた。
 画面に表示された相手──「一ノ瀬レイラ」を見て舌打ちし、無視を決め込む。
 ようやくメロディが消えたと思えば、今度はアシスタントAIの機械音声が流れ出した。

「留守番電話に新しいメッセージが登録されました。再生しますか?」
「……ああ、頼む」

 溜め息をつき、指先でハンドルを叩く。
 正直なところ聞きたくないが、聞かなければさらに厄介なことになりかねない。

「朔也さん、この間は父がごめんなさいね。私だって心がちぎれそうなほどつらいけれど、でもやっぱり私とあなたじゃ生まれも育ちも違いすぎるの」

 大袈裟に悲劇のヒロインを気取った女の声に、また悪態が出そうになる。
 メッセージの主、一ノ瀬レイラは二ヶ月前まで朔也が交際していた相手だった。

 と言っても、最初から愛情はかけらもない。
 朔也がレイラに近づいたのは、彼女の父親に取り入るためだったからだ。有名弁護士にコネを作り、彼が幹部を務める最大手の法律事務所に移籍するために。

 業界の通例では、若手弁護士は評判と実力があってもコネがなければ移籍ができない。
 キャリア形成を考えると路線変更は早ければ早いほうがいいから、手段なんて選んでいられなかった。

「ああ、朔也さん、あなたはどうして朔也さんなの? あなたのおじいさまとお母さまが犯罪者なんかでなければ……」
「……クソが」

 堪えられず、朔也はハンドルを握ったまま悪態をついた。

 一ヶ月前、朔也はレイラから──厳密に言うと、朔也の出自を調べた父に叱られたレイラから、突然の別れを切り出された。
 朔也の祖父と亡くなった父は元暴力団幹部で、母は飲酒運転で事故死した。
 レイラの父──一ノ瀬は娘に汚点を作りたくなかったのだろう。自分がやましいことをしているからこそ。

「思い出になんてまだできないわ。あなたが心配なの。私、私──」
「この台詞、何かの歌詞で聞いたな」

 朔也はメッセージの再生を途中で止めた。

 自分から朔也を振り、もう連絡しないと言ったにもかかわらず、レイラはずっとこの調子だ。
 交際している間、彼女はパーティーに朔也を連れ歩き、恋人の整った容姿と肩書きを見せびらかしてばかりいた。
 当時は「素敵な彼氏がいる自分」に、現在は「身分違いの悲恋を嘆く自分」に酔っているのだろう。

 ──つくづく自分しか見えてない女だ。
 ──……まあ、俺よりはマシか。

 朔也は自嘲し、唇の片端を上げた。

『君がうちの娘に近づいた理由はわかってるよ。いや、非難するつもりじゃない。そういう気骨のある若者はわが事務所にぜひ来てほしいね。君は有能だって評判だし』
『けど……わかってるだろう? 先立つものが必要だって。そうだな、キャッシュで七くらい』

 一ノ瀬から告げられた言葉が蘇り、もっと笑いたくなる。
 縁を切った家族のせいで出世の道が途絶えたかと思いきや、今度は祖父の遺産の金で道が開ける。人生とは不思議なものだ。

 朔也が道路の前方を睨んでいると、社用のスマートフォンが鳴り始めた。
 知らない電話番号だ。
 依頼者からの連絡かもしれないので、車を路肩に寄せて応答する。

「よう、雨宮先生」
「……またあなたですか。番号を変えるなんて面倒なことを……切ります」
「おっと、待った待った。どうです? この間の話、考えてもらえました?」

 気さくなふうを装いつつも鋭い中年男性の声に、朔也は溜め息をついた。
 男──勅使河原は、経済犯罪を扱う刑事だ。

「一ノ瀬さんについて話を、でしたか。もう一度お伝えしますが、私に尋ねられても何もお答えできませんよ。お話しできるような関わりがそもそもありませんから」
「またまたぁ。あの人の娘さんと付き合ってるでしょ?」
「もう別れました。ご存知でしょう?」
「ありゃりゃ! そいつはお気の毒」

 とっくに調べ上げているはずなのに、勅使河原は道化めいた声を出した。
 朔也を怒らせたいのが見え見えだ。それもわざと見せているのかもしれないが。

「いやぁ、風の噂なんですがね。雨宮先生も知ってるかな? テレビ局の内部告発をなんと……」
「知ってますよ。下請けを脅して口封じしたって話でしょう。でも、噂は噂です」

 かわしてみるものの、おそらくそれは事実だ。
「内緒だけどパパったらね」とレイラが武勇伝のつもりで自慢してきたから、朔也は内情を知っている。
 気を引くためのレイラの嘘かもしれないが、彼女の考えにしては手が込みすぎていた。

「火のないところに煙は立たんでしょう。ねえ、雨宮先生。レイラさんと別れたって知ってることはあるんじゃないですか?」

 勅使河原のしつこさに朔也は再び溜め息をついた。

 娘の危うさをわかっている一ノ瀬は、警察から徹底的にレイラをガードしている。
 だから、勅使河原はレイラから漏れ出た情報を拾いたいのだ。
 彼女の周囲は父親の息がかかった人間ばかりだから、みな口が堅いはずだが。

「いいえ、ありません」

 朔也も同じく、話すつもりなどない。
 勅使河原への告げ口が一ノ瀬に知られたら、入所あっせんの話が消えるだけでなく、業界を干されてしまう。
 そんなリスクを冒す馬鹿がどこにいるのだろう。

「同じ業界にいるんだから、一ノ瀬のせいでどれだけ被害が出てるかわかってるでしょう? 奴が一つ不正をしたら、一万人の首が飛ぶ。先生の勇気でその人たちが救われるんですよ」
「情に訴えられても、知らないものは知りません」
「雨宮先生、あんた弁護士なんだから正義の心があるはずだ。弁護士ってのは本来、困ってる人を助けるのが仕事でしょ?」
「──……っ」

 不意に心の柔らかい場所を突かれ、朔也は言葉に詰まった。
 甘味処で「困ってる人を助けられるお仕事なんてすごいね」と無邪気に笑った葉月がつい浮かんでしまい、胸の奥が震える。

「ねえ、本当のとこどうなんです?」
「……もう連絡するのはやめてください」

 動揺を隠すこともできないまま通話を切り、勅使河原の番号を着信拒否する。
 だが、きっと勅使河原はまた別の番号から電話をかけてくるはずだ。犯罪を許さない、彼の正義のために。

 ──正義の心。
 ──困ってる人を助けるのが弁護士、か。

 弁護士を目指していた頃の朔也は、まだその心をなくしていなかった。
 だから企業案件のみを扱う大手法律事務所のスカウトを蹴り、一般の人々を弁護する事務所へ就職したのだ。
 大金を得るための争いではなく、困っている人を直接助けたかったから。いつかの朔也や葉月のように、自分ではどうにもできない不幸に苦しんでいる人たちを。

 それが現場に出れば覚めてしまう夢だとも知らずに。

 ──中途半端な正義の心なんて、ないほうがマシだ。

 半年前、依頼者を自殺未遂に追いやってしまったときの記憶が蘇り、口内に苦い味が広がる。

 彼は三十代の妻子ある男性で、痴漢冤罪を訴えていた。
 だが朔也は無実を証明できず、依頼者を文字通り絶望の淵に沈めてしまったのだ。
 それ以来弁護から外れたが、病室で「どうしてパパを助けてくれなかったの」と泣きすがってきた彼の子どもの顔は今でも夢に出てくる。

 ──本当は冤罪じゃないってことを俺は知ってた。だから本気で戦えてなかった。中途半端な正義のせいで割り切れなくて、どうしていいのかもわからなくなって、無意識に逃げてたんだ。
 ──けど、それがあの人を追い詰めて、あの子を不幸にした。俺がちゃんと向き合えてれば、あんなことにはならなかったのに……!

 いまだに鮮明な悔しさと罪悪感が湧き上がり、朔也はハンドルの上できつく拳を握った。

 ──「誰かを助けるヒーローになりたい」なんて笑わせる。
 ──俺はそんな器じゃない。ただの金の亡者なんだ。母さんと……同じように。

 大手法律事務所に移籍しようとしたのは、きっと現実から逃げたかったからだ。
 正義のためではなく金や地位のために生きれば、楽になれると思った。
 良心を失ったふりをすればそのうち本当に何も感じなくなって、もう悩んだり傷ついたりせずに済むと思った。

「……っ」

 ふとまた葉月の顔が浮かび、振り切るようにアクセルを踏む。

 彼女に偽装婚約を迫り、心の聖域だった初恋の思い出を踏みにじったのは、何もかも壊してしまいたかったからだ。
 朔也と同じく醜い大人になった葉月を見て、安心したかったのもあるかもしれない。

 ──なのにあの人は優しくて、純粋なままで。
 ──俺は……そんな葉月さんを……。

 今日、朔也は葉月に嘘をついた。
 祖父の遺産と許嫁の話は事実だが、本当は家同士の借金なんてない。
 葉月を巻き込むためのでまかせだ。彼女は疑おうともせず、抵抗もしなかったが。

「……葉月さん、なんで俺のことなんか心配するんだよ……」

 口からとうとう苦しげな声が漏れ、指先がすがるようにジャケットの裏ポケットに触れる。

 だが、すでに賽は投げられた。
 どれだけ後悔したって、初恋の人を脅して従わせた事実は覆せない。弱音を吐いていい資格なんてない。

 朔也は唇を噛み、ずり落ちてもいない眼鏡を直した。

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