お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

4. 俺が怖くありませんか

 車内は重い沈黙に満たされて、窓の外で流れていく東京の夜景は作り物のようだ。
 お守りの指輪が入ったトートバッグを、無意識に掌が撫でる。
 車のかすかな振動に揺られながら、葉月は朔也との出会いを思い返していた。


 夕暮れの公園。遊具から離れた場所にある、生け垣に埋もれかけた赤いベンチ。
 家に居場所がなかった当時の葉月は、図書館の休館日はそこで人目を避けつつ本を読むのが習慣だった。
 だが、その日は運悪く同級生の女子たち三人に──いじめっ子たちに、囲まれてしまったのだ。

『竹本さんってさー、東京から来たからってあたしたちを馬鹿にしてる? いっつも一人で本読んで暗いよねー』
『っ、……ほ、本、返して』
『えーなに? 全然聞こえない。っていうか一人でベンチずっと使ってちゃだめじゃん。家で読めばいいのに』
『お母さんに嫌われてるから帰れないんじゃない? この間、家の外まで聞こえるぐらい怒られてたもん』
『か、返して……!』
『うわーきっもーい、泣いてるー』

 葉月は取り上げられた小説に手を伸ばすことしかできなかった。
 言い返す勇気がなく、自分は母に嫌われていない、気持ち悪くない、と言い切る自信もなかったからだ。

『読んでる本もキモーい。女子なのに男子が読むやつ読んでるよー』

 女子たちがけらけらと笑い、葉月の持っていた本を回し読みする。
 その背後──公園の入り口から、帽子を被った知らない少年がずかずかと歩み寄ってきた。

『おい、返せよ』

 彼がいきなり女子たちから本をひったくる。

 ──え……?

 何が起きたのかと驚く葉月をよそに、振り返った女子と少年が睨み合った。

『は? 何だよチビ』
『その子泣いてんだろ。いじめるなんて最低だ』
『なにそれウザい、ヒーロー気取り? あっち行って』

 リーダー格の女子が少年を突き飛ばそうとする。
 体格が一回り小さいにもかかわらず、彼はどかなかった。
 それどころか、その女子の手首を掴む。彼女が振り払おうとしても、それを離さなかった。

『いった……やめてよ!』
『お前らがもうこの子をいじめないって約束したらな』

 少年に指差され、葉月はびくっと肩を跳ねさせた。

 ──だ、誰なの、この子? なんで私を助けたりなんか……。

『……ねえ、こいつ三丁目のヤクザの孫じゃない?』

 ふと、取り巻きの女子がいぶかしげに少年を見る。
『えっ』とリーダー格の女子が少年から後ずさったところで、夕方五時のチャイムが鳴った。

『も、もう帰ろ! 変な奴来るから冷めたわ』

 リーダー格の女子が強引に話を切り上げ、取り巻きたちを引き連れて去っていく。

『はい、これ』

 葉月は呆然としていたが、少年に本を手渡され、慌てて彼へ向き直った。
 改めて見ると、帽子の下の顔はびっくりするほど端正だ。

『あ、ありがとう!』
『お礼なんかいいよ。約束取り付けられなかったし』

 少年がにこりともせず言い、帰ろうとする。

『待って!』

 葉月は思わず少年の後ろ姿に声をかけた。
 普段こんなことできないのに、と自分に驚いてしまい、続きの台詞が出てこない。

『……なに?』
『あの……名前、教えて』

 やっとの思いで尋ねたら、少年は眉をひそめた。
 険しい表情に葉月の心臓が縮み上がるが、勇気を振り絞ってどうにか彼を見つめ続ける。

『オレの家族がヤクザだから気になる? 怖い? 気にしないでいいよ、何もしないから』
『ち、違うよ! その……また会えたら嬉しいって思ったから、知りたかったの』

 葉月の言葉に少年が目を見開いた。

『……また会いたい? オレが怖くないの?』

 少年は警戒に顔を強張らせている。
 だが、その瞳はどこか寂しげで、なぜか葉月は助けを求められている気がした。
 放っておけなくて頷き、ぎこちなく笑いかける。

『怖くなんかないよ。私を助けてくれた人だから』
『……ふうん。じゃ、先にあんたの名前教えて』
『あ、そ、そうだよね。私は竹本葉月だよ』
『そう。オレは雨宮朔也』
『ありがとう、朔也くん。えっと……またね』

 朔也は頷いて無言で立ち去ろうとしたが、途中で足を止めて振り返り、じっと葉月を見た。
 怒らせてしまったかと葉月が内心焦っていると、彼の目が泳ぎ、伏せられる。

『……うん。またね』

 恥ずかしそうな小さい声に、葉月の胸が生まれて初めてきゅんと疼いた。


 ──懐かしいな。頼りがいがあったから、出会ったときは年下だなんて思わなかったんだよね。
 ──年齢知った途端に敬語使われて、ちょっと寂しかったっけ……。

 車窓の外を眺めながら、葉月は微笑ましい記憶に頬を緩めた。
 しかし、思考が徐々に現実逃避から戻ってきてしまう。

 ──あんなに優しかった朔也くんに……私のヒーローだったあの子に、脅されるなんて。

 葉月はそっと運転席の朔也に視線をやった。
 彼が何を考えているのか、美しい横顔からは読み取れない。
 先ほどのキスのあと見せた感情の高ぶりも、すっかり消え失せていた。

 ──偽装婚約、か。あの結婚の約束、大切な思い出だと思ってたのは私だけだったのかな。

 朔也に怒りたいが、もはやそんな元気も出ずにうつむく。
 抵抗はあっても彼に協力せざるを得ない。
 妹が結婚間近だから、家にトラブルを持ち込むわけにはいかなかった。

 ──でも、本当にできるかな。
 ──私は演技なんてしたことないし、恋愛だって初恋以外はしてこなかった。朔也くんが何を考えてるのかもわからない。
 ──もし失敗すれば、借金は……。

「葉月さん、大丈夫ですか」
「ひゃっ!?」

 いきなり声をかけられ、葉月はシートから尻を浮かせた。
 気がつけば車は屋内駐車場に停まっている。
 まばらな白色蛍光灯に照らされた薄暗く無機質な灰色の空間の中、車たちがずらりと並んでいた。
 ダッシュボードのカーナビの画面によると、ここは銀座のショッピングエリアのようだ。

「顔色が悪いですね」
「だ、大丈夫だよ。ごめんなさい」

 反射的に謝った葉月に、朔也は眉をひそめた。

「あなたが謝ることじゃないでしょう。俺がいろいろ言ったせいですよね。それとも車酔いですか?」
「違うよ、酔ってない。それも大丈夫」
「……なら、いいですけど」

 朔也が手を伸ばしてきて、シートベルトを外してくれる。
 相変わらず表情は乏しいが、その手つきは優しい……ように葉月には思えた。
 だが、ただ単に車の中で吐かれるのが嫌なのかもしれない。

「行きましょう」

 朔也は先に車を降り、葉月のいる助手席側のドアを開けた。
 なぜか片手をこちらに差し出してくる。
 理由がわからず葉月がきょとんとしていると、そっと手を取られた。エスコートだ。

「あ、ありがとう……」

 戸惑いながら、葉月も駐車場に降りた。
 地下の空気は淀んで冷たく、不安な気持ちを掻き立てる。
 リモコンで扉をロックしている朔也を見ていたら、不意に彼が振り返った。
 眼鏡のレンズが、一度だけ光った車の赤いライトを反射する。

「逃げないんですか、葉月さん」
「えっ?」
「……あんなことされて、俺が怖くありませんか」

 レンズの向こうから、どこか寂しげな瞳が葉月を見つめた。
 視線が合った瞬間、鼓動が大きく跳ねる。

 ──初めて会ったときと、同じ目だ。

「怖くないよ。朔也くんは朔也くんだから」

 本当は違うのに、気づけば葉月はそう口にしていた。
 あのときと同じく、彼を放っておけない感じがしたからだ。

「お人好しですね、相変わらず」

 朔也は目を伏せ、自嘲するように少しだけ唇の片端を上げた。

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