お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

2. 私、こじらせすぎ……!(1)

 二十六歳の春、葉月は東京都の区立図書館で司書として働いていた。

「ふふっ、ドラゴンレッド懐かしいな……」

 窓はなく、狭い壁一面に本が並んでいる、埃っぽい作業室。
 隅にある小さな机で戦隊ヒーロー名鑑をひとり補修しながら、初恋を思い返す。

 あれから十四年。
 朔也とは引っ越したあと一年ほどメールのやりとりをしていたが、彼から返信が来なくなってそれきりだ。
 二十五歳となった朔也の現状は一応知っているが、今さら声をかける勇気もない。

 ──朔也くん、私のこともう忘れちゃったかな。
 ──覚えてくれてても身分違いだし、話すなんておこがましいけど……。

 感傷的な気分で本を閉じたタイミングで、エプロンのポケットのスマートフォンが震え出す。

 ──あっ、まずい! 普通に残業しちゃったけど、今日すみれとご飯食べるんだった!

 友人との約束を思い出して焦り、葉月はろくに画面も見ずに通話ボタンをタップした。

「葉月! あんたいいかげんにしなさいよ」

 途端にスピーカーから母の金切り声が流れ出し、慌てて顔からスマートフォンを離す。

「あ、ああ……ごめんなさい、プチギフトの件だよね。でも本当に忙しくて」
「なんで妹の結婚式なのに協力できないわけ? ラッピングぐらい手伝いなさいよ、あんたこういうことできないから男に縁ないの。妹を見習って……」

 早口で痛いところを突かれまくり、ぐっと言葉に詰まる。

 ──穏やかに断ったつもりだったんだけど、駄目だったか。
 ──あの子、お母さんに告げ口したんだろうな。私のこと召し使いくらいにしか思ってないし……。

 葉月は家庭に興味のない父と、病弱な妹にかかりきりの母の下に長女として生まれ、軽んじられながら育った。
 体の成長とともに妹は完治したのだが、家庭内のカーストは消えず、葉月はいまだに振り回され続けている。

「だいたいね、忙しいって今あんた何してんの」
「えっと……仕事中」
「もう七時よ? ったく……またサービス残業? あのね、前から言ってるけどいつまで司書続けるつもり? 大学に行くの許してやったのに派遣で貧乏暮らしなんて……お母さんのこともう少し考えてよ。近所の人にお前の話させられるたびに恥ずかしいんだから」
「あの、でも、正規採用の試験を受けるから」
「一昨年も去年も落ちたでしょ。あんた昔っから倍率高い試験ことごとく駄目なんだから無理に決まってる。人間性が非正規なのよね。諦めるか男捕まえなさい。婚活してるの?」
「それは、まだだけど……」
「はあ……賞味期限ってわかってる? あんた自分の身の丈知らないから駄目なのよ。もっと現実を見て──」
「ご、ごめんなさい、友達と約束があるから切るねっ」

 本格的な説教が始まる前に、葉月は無理矢理通話を切った。
 すぐにまた着信があったが、震えているスマートフォンをポケットに戻して席を立つ。

 ──だから手伝いたくなかったんだよね……手伝うなら実家に帰らなきゃいけないから。

 まだ母のとげとげしい声が耳に残っている。
 母には昔から妹の看病のストレスをぶつけられてきた。
 大人になってもそれは変わらない。むしろ、葉月が反対を押し切って司書になってからはさらに激化している。
 葉月も苛立ちはするが、幼い頃から植え付けられた恐怖心と自己肯定感の低さもあり、言い返せたことがなかった。

 ──なんで私ってこう駄目なんだろう。
 ──ひどいこと言われても仕方ないよ。うじうじしてるし、稼げてもない。この年で彼氏ができたこともない。

 大きく溜め息をつき、エプロンのポケットから黒いベロア生地の小さな巾着を取り出す。
 中身を覗くと、そこには十四年前に朔也から渡されたおもちゃの指輪があった。

 ──しかもいまだに思い出にすがってる、なんて……。

 恥ずかしいことだが、つらいときにこの指輪を手に取る癖がやめられない。
 あの日の切ないが幸せな記憶が、葉月に勇気をくれるのだ。

「……うん、もう行こう」

 葉月は小さく頷き、席を立った。
 友人のすみれとの約束は八時。
 遅刻しなくて済みそうなのが、唯一のいいことだ。

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