【コミカライズ】寵愛紳士 ~今夜、献身的なエリート上司に迫られる~
「俺の家に来ませんか」1
自宅までの夜道をふたりで歩きだした。
足の長さのまるで違う雪乃に合わせ、晴久はゆっくりとリードする。
帰路はひとりのときより、ふたりの方が静寂に包まれていた。
隣を歩く雪乃は、眼鏡にマスク、それに冴えない服。
お世辞にも素敵な装いだとは言い難いが、晴久は彼女の臆病な性格を知り、いつもなにかに怯えて、自分を隠しているのだろうと納得した。
雪乃を助けたことに特別な意味はなかったが、震えていた彼女をなぜか放ってはおけなかった。大丈夫だと言われるとなおさら。
このまま置いて帰ったら、一晩中この子のことが気になって眠れない。晴久はそんな気がしたのだ。
「暗い場所が苦手なのは、昔からですか」
緊張を解くため、まるで従者のようにそろそろと歩く彼女に、そう尋ねてみる。
「十年前からです」
「十年前。なにかきっかけが?」
「はい。全然、大したことではないのですが……」
雪乃の声は明らかに暗くなったが、こうなっては隠していてもしかたがないと深呼吸をし、続きを話す。
「高校生の頃、夜道で男の人にあとをつけられたことがあるんです。それ以来、暗闇と男性に恐怖心を抱くようになりました」
晴久は受け止めるようにうなずいてみせる。いくつか想像していた仮説のうちのひとつだった。
そういうことか……と、事情を聞いてさらに納得した。
「トラウマ、ですね。それは大きなことですよ」
同情をするとともに、晴久は彼女が暗闇だけではなく、男性も苦手であることをこのとき初めて知った。
思い返せば彼女は乗客に近づけなかったり、タクシーに乗れなかったりと、いくつかヒントはあったのだ。
そしてすぐに、その苦手なものに晴久自身も当てはまっていると気付く。
この状況は雪乃に無理強いをしてしまったのではないかと感じた晴久は、「すみません、知りませんでした」と素直に謝罪し、さらに念のため、十センチほど彼女と距離をとった。
「あ、いえ、ごめんなさい!  そんなつもりではなくて……」
「電車でもいきなり声をかけてしまって、迷惑ではありませんでしたか」
「まさか!  高杉さんのことは怖くないですから」
雪乃は顔を赤くして弁解する。
なぜ自分のことは怖くないのか、晴久はまずそっちを疑問に思ったが、それならとりあえずよかったと、尋ねることはしなかった。
「しかし、それでは日常生活が不便でしょう。暗闇と男性を避けて暮らすのは」
「そうですね……でも、今のところはなんとかなっています。職場も総務の仕事なので接客はしていませんし、知っている人なら会話くらいは問題なくできますから」
晴久には不便に違いないように思えたが、彼女はこの制限された生活を毎日送っている。
「今日はたまたま残業で遅かっただけで、普段は六時には帰宅しています。こんなに遅くはなりません」
雪乃は眼鏡の奥で目尻を垂らし、なるべく心配をかけないよう明るい声で話した。
晴久は雪乃が過呼吸を起こしていた間は分からなかったが、彼女の声は穏やかで、聞いていて心地よかった。
そこから彼女の、女性らしく繊細で、おっとりとしているだろう素顔を想像すると、それが美人かは関係なく、好奇心が湧いてきた。
どんな表情をしているのだろう、と。
「あの、ここです」
雪乃はクリーム色をした三階建てのアパートを指差した。
間取りはどれもワンルーム、新しくはないものの、オートロックがついている。
施錠されたエントランスを見た晴久は、これなら本当に安全だろうと無事役目を終えたことに安堵した。
「本当に、ありがとうございました」
雪乃は改まり、晴久と向き合って頭を下げた。
「いえ。気にしないで下さい。俺の家もこの先なので、帰り道でしたから」
顔を上げた雪乃は、晴久の澄んだ目を見ながら、家には入らず立ったまま、動こうとしない。
目は泳いでおり、マスクの下では顔が赤くなっている。
晴久が待っているのに、いつまでもその場でモジモジと手を擦り合わせて時間をかせいでいた。
晴久が首をかしげて「細川さん?」と尋ねると、雪乃は勇気を振り絞り、鞄から携帯電話をとり出した。
「……高杉さんの連絡先を教えてもらうことはできないでしょうか」
彼女は耳まで真っ赤になっていた。
不意打ちのお願いに、晴久はドキッと胸が鳴る。ここまで真剣な面持ちで女性に連絡先を聞かれたのは初めてだったのだ。
そもそも、こんな出会い方も、誰かをここまで手助けした経験もなく、晴久も女性相手に別れが惜しいくらいの気分にはなるというもの。
連絡先を聞かれたタイミングも、彼女の勇気がじりじりと伝わってきた。
「すみません、もしダメなら無理にとは……」
「いやっ、大丈夫です。いいですよ、交換しましょう」
「いいんですか……!?」
雪乃は滅多に出さない最上級に明るい声を漏らし、嬉しさで眼鏡の中の目を三日月型に細めた。
晴久もスマホを取り出し、連絡先を交換する。雪乃は画面に映る晴久の番号を見ると、「うれしい……」と無意識の喜びをつぶやき、さらに目尻を垂らした。
素直な言葉と、形の移り変わる彼女の目もとが可愛らしく、晴久は胸が疼いた。
「ありがとうございます。引き留めてすみませんでした」
「いえ。無事に帰ってこれて良かったですね。細川さんが部屋に入るまで一応ここにいますよ。寒いので、どうぞ入って」
ふたりは爽やかな気持ちで会釈をし合い、雪乃だけがエントランスの鍵を開けて建物の中へ入っていく。
晴久は言ったとおり、しばらく彼女を見ていた。
雪乃は階段を上り、部屋の鍵を開けた後、下にいる晴久に手を振ってから扉の中へと消えていった。
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