【コミカライズ】寵愛紳士 ~今夜、献身的なエリート上司に迫られる~
「大丈夫ですか」3
◇◇◇◇◇◇◇◇
この日、退社は珍しく夜九時を過ぎた。
雪乃がオフィスにこの時間まで残っているのは初めてである。
最近は定時の午後五時、日の入りギリギリに帰宅できていたのに、この日はたまたまシステムトラブルが起こり、社内システムに詳しい雪乃が代表して残業を言い渡されたのだ。
「ごめんね細川さん、助かったよ。もう帰ってもらっていいけど、ひとりで大丈夫かい?」
部長にそう労われても、雪乃の表情は晴れなかった。
「大丈夫です」
外は真っ暗、駅まで人通りはあまりない。窓を開けて確認すると夜特有の寒さ、雨上がりのじんわりした匂いもしていて、意味もなく胸騒ぎがした。
嫌で仕方がないが、この暗闇の中を帰らねば家には着かない。
誰かに駅まで送ってもらうこともできたが、この時間では男性社員しか残っておらず、雪乃にとってそれでは逆効果。暗闇を男性と歩くというのは、何としても避けたいパターンのひとつだった。
雪乃は冷や汗をかきながらも、徒歩五分の駅へひとりで向かい、すくむ足を奮い立たせ、傘を杖にして電車を待った。
ホームには、乗車口に並ぶほど人が多かった。
これがすべて乗っても、二十分後に自宅の最寄り駅に到着する頃にはまばらに減ることが予想される。
ホームに冷たい風とともに颯爽と電車が到着し、雪乃は胸騒ぎのするまま乗り込んだ。
いつもよりも心臓が痛む。
最初は吊革を持って立っていたが、大きな駅で人が降りるとポツポツと席が空き始め、緊張状態のままとりあえず着席した。
車窓は異空間のような暗い世界。
雪乃にとって、真夜中の景色は夕方の暗さとは全く違う本物の暗闇だ。ドクンドクンと胸が鳴り、なにかよからぬことが起こる予感がした。
目的地の数駅手前の比較的大きな駅で、さらに人が降り。雪乃のいる車両には七人の乗客しか残らず、ごっそりと集団が抜けたことでその七人のメンバーが浮き彫りとなった。
ほとんどが中年の男性で、真っ黒なスーツのサラリーマン。
(あ……!)
そのとき雪乃は、ちょうど対面の席に座っていた男性が 〝彼〟であることに気付いた。スーツの上にコートの、あの憧れの人である。
思わぬサプライズに、一瞬だけ恐怖が吹き飛んだ。
彼は腕を組んで目を閉じ、鞄は腕の中、傘は脚の間に立てかけて、電車の揺れに身を任せている。
帰りの電車で彼と出くわすのは初めてである。彼が常にこの時間まで働いているのだとしたら、いつも夕方には帰宅している雪乃と電車が合わないことは当然だ。
遅くまで仕事を頑張る人。またそんな妄想が膨らみ、密かにドキドキしていた。
しかし次の瞬間。
突然、頭上の電気が消えた。
頭上だけではない。席の上に一列に並んでいる車内灯は、車体の奥へ向かって次々に消えていく。チチチと音を立て、すごい速さですべての車内灯が消えると、車内が暗闇になった。
(えっ!?  真っ暗!?)
続いて電車が大きく減速し始める。
(やだ!!  なに!?  なにが起こってるの!?)
雪乃は座ったまま、膝の上で鞄の紐を握りしめ、なにも目に入らないよう視界を下に落とした。
一瞬だけ車内は窓の外の暗闇と同化し、電車は完全に停止する。悲鳴を出しそうになったが、その前に出入口付近の予備電灯がぽっかりと点灯した。
人の輪郭だけがかすかに分かるくらいに薄暗く照らしだされている。車輪の音、空調の音はいっさい消え去り、感じたことのない静寂だけがあたりを包んだ。
「……はっ……はっ……」
あまりの事態に雪乃は過呼吸に陥った。
周囲に悟られないよう手で口を隙間なく押さえるが、代わりに鼻の呼吸がパニックで乱れ、肩やら腹筋やらが連動してガタガタと揺れる。
『お知らせ致します。この電車は停電により一時停車しております。ただいま原因を調査中ですので、座ったままでお待ちください。なお、線路上は危険ですので、ドアの開閉、線路への降車はなさらないようお願いします』
(停電……!?)
無機質なアナウンスの後、車内のほぼ全員が携帯電話を取り出した。彼らは各々、小さな画面で何かを確認し始める。
その光りでそれぞれの顔がお化け屋敷の演出のように恐ろしく照し出された。
周囲は全員男。ほとんどがスーツで真っ黒。暗い電車内では、そんな男たちの顔が光ったり消えたりをひたすら繰り返す。
彼らは慌てることもなく至って冷静、それに引き替え雪乃だけがパニックに陥っていた。
「はっ……はっ……」
鞄の取っ手と一緒に握っていた傘が、手の震えに合わせて“カタカタ”と音を立てていた。
(落ち着かなきゃっ……落ち着かなきゃっ……)
呼吸を整えようとすればするほど、乱れていく。
様子のおかしい雪乃を振り向く人もいたが、基本的に誰も興味を持とうとはしない。変な女がいる、関わらないでおこう。そんなところだった。
この日、退社は珍しく夜九時を過ぎた。
雪乃がオフィスにこの時間まで残っているのは初めてである。
最近は定時の午後五時、日の入りギリギリに帰宅できていたのに、この日はたまたまシステムトラブルが起こり、社内システムに詳しい雪乃が代表して残業を言い渡されたのだ。
「ごめんね細川さん、助かったよ。もう帰ってもらっていいけど、ひとりで大丈夫かい?」
部長にそう労われても、雪乃の表情は晴れなかった。
「大丈夫です」
外は真っ暗、駅まで人通りはあまりない。窓を開けて確認すると夜特有の寒さ、雨上がりのじんわりした匂いもしていて、意味もなく胸騒ぎがした。
嫌で仕方がないが、この暗闇の中を帰らねば家には着かない。
誰かに駅まで送ってもらうこともできたが、この時間では男性社員しか残っておらず、雪乃にとってそれでは逆効果。暗闇を男性と歩くというのは、何としても避けたいパターンのひとつだった。
雪乃は冷や汗をかきながらも、徒歩五分の駅へひとりで向かい、すくむ足を奮い立たせ、傘を杖にして電車を待った。
ホームには、乗車口に並ぶほど人が多かった。
これがすべて乗っても、二十分後に自宅の最寄り駅に到着する頃にはまばらに減ることが予想される。
ホームに冷たい風とともに颯爽と電車が到着し、雪乃は胸騒ぎのするまま乗り込んだ。
いつもよりも心臓が痛む。
最初は吊革を持って立っていたが、大きな駅で人が降りるとポツポツと席が空き始め、緊張状態のままとりあえず着席した。
車窓は異空間のような暗い世界。
雪乃にとって、真夜中の景色は夕方の暗さとは全く違う本物の暗闇だ。ドクンドクンと胸が鳴り、なにかよからぬことが起こる予感がした。
目的地の数駅手前の比較的大きな駅で、さらに人が降り。雪乃のいる車両には七人の乗客しか残らず、ごっそりと集団が抜けたことでその七人のメンバーが浮き彫りとなった。
ほとんどが中年の男性で、真っ黒なスーツのサラリーマン。
(あ……!)
そのとき雪乃は、ちょうど対面の席に座っていた男性が 〝彼〟であることに気付いた。スーツの上にコートの、あの憧れの人である。
思わぬサプライズに、一瞬だけ恐怖が吹き飛んだ。
彼は腕を組んで目を閉じ、鞄は腕の中、傘は脚の間に立てかけて、電車の揺れに身を任せている。
帰りの電車で彼と出くわすのは初めてである。彼が常にこの時間まで働いているのだとしたら、いつも夕方には帰宅している雪乃と電車が合わないことは当然だ。
遅くまで仕事を頑張る人。またそんな妄想が膨らみ、密かにドキドキしていた。
しかし次の瞬間。
突然、頭上の電気が消えた。
頭上だけではない。席の上に一列に並んでいる車内灯は、車体の奥へ向かって次々に消えていく。チチチと音を立て、すごい速さですべての車内灯が消えると、車内が暗闇になった。
(えっ!?  真っ暗!?)
続いて電車が大きく減速し始める。
(やだ!!  なに!?  なにが起こってるの!?)
雪乃は座ったまま、膝の上で鞄の紐を握りしめ、なにも目に入らないよう視界を下に落とした。
一瞬だけ車内は窓の外の暗闇と同化し、電車は完全に停止する。悲鳴を出しそうになったが、その前に出入口付近の予備電灯がぽっかりと点灯した。
人の輪郭だけがかすかに分かるくらいに薄暗く照らしだされている。車輪の音、空調の音はいっさい消え去り、感じたことのない静寂だけがあたりを包んだ。
「……はっ……はっ……」
あまりの事態に雪乃は過呼吸に陥った。
周囲に悟られないよう手で口を隙間なく押さえるが、代わりに鼻の呼吸がパニックで乱れ、肩やら腹筋やらが連動してガタガタと揺れる。
『お知らせ致します。この電車は停電により一時停車しております。ただいま原因を調査中ですので、座ったままでお待ちください。なお、線路上は危険ですので、ドアの開閉、線路への降車はなさらないようお願いします』
(停電……!?)
無機質なアナウンスの後、車内のほぼ全員が携帯電話を取り出した。彼らは各々、小さな画面で何かを確認し始める。
その光りでそれぞれの顔がお化け屋敷の演出のように恐ろしく照し出された。
周囲は全員男。ほとんどがスーツで真っ黒。暗い電車内では、そんな男たちの顔が光ったり消えたりをひたすら繰り返す。
彼らは慌てることもなく至って冷静、それに引き替え雪乃だけがパニックに陥っていた。
「はっ……はっ……」
鞄の取っ手と一緒に握っていた傘が、手の震えに合わせて“カタカタ”と音を立てていた。
(落ち着かなきゃっ……落ち着かなきゃっ……)
呼吸を整えようとすればするほど、乱れていく。
様子のおかしい雪乃を振り向く人もいたが、基本的に誰も興味を持とうとはしない。変な女がいる、関わらないでおこう。そんなところだった。
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