夕子のアラベスク

セラ ケンタロウ

夕子のアラベスク

 河川に接する緑豊かな公園で夕子は、あたかも犬に繋いだ伸縮リードに引かれているかのように、腕を差し伸ばしてみる。指の先まで寸分の狂いなく、リールの収まる本体を手にしている人のそれに似せてみせる。

 無数の高い樹木に囲まれ、あたりに木漏れ日がきらめくなかで夕子は、

 我ながら優雅な手先ではないか――、と誇らしげに思う。

 幼いころに習っていたこともあるし、今でも時おり鑑賞するバレリーナの華麗な舞いが空想される。

 ちょっとばかり目を離したってかまわないだろう、と、彼女はリールを手放す。それから、いまなお体に染みつくアラベスクのポーズや動きを想像して、腕だけをさらに伸ばしてみた。

 確かに彼女の手先は、繊細で美しかった。なだらかな指の先は、外界との境が曖昧で、たとえば一滴の水が彼女のみやびな手を伝い、爪の甘皮までさしかかり、今に滴り落ちようとしていても、しかしその水滴は、地に落ちることはできなかっただろう。そのかわり、景色のなかへ滲んで消えていたに違いない。

 さて、もうお分かりのように、ジゼル気取りの彼女は最初から空にしか触れていなかった。

 しかし犬を連れていないと言えば、嘘になる……

 目を離したすきに、少し離れてしまったかもしれない、と、彼女はリールを再び手にして、まだ数メートルは残されているそれをロックした。

 すると、10メートルは先を行っている大介が、ぴたりと止まるのだった。
彼は双眼鏡を目にがっちりと当てて、ずっと上の方を見上げる。そうやって野鳥を観察するのが、彼の趣味だった。

 夢中になって観察している間に、夕子が追いつく。彼女は空想上のリールを回してやった。
 大介は鳥を追いかけて進んでゆく。
 どんどんと彼は離れていくが、夕子が綱を止めてやれば、やはり彼も立ち止るのだった。

 そんなこんなで彼が勢い込んで駆けたときがあった。夕子は慌ててロックした。彼は止まったが、左右に小刻みにステップして、おかしな仕草に出た。客観的に見れば、彼は追いかけていた鳥を見失ったのである。
 しかし夕子のなかでは、彼はもっと進みたがっているのに、首に繋がれたワイヤーに引っ張られてしまって、一種の抵抗を見せているのだった。

『しょうがないなぁ』

 そうして夕子は彼を、もう少し自由にさせてみた。

 探り探り歩を進める彼はやがて、首に食い込んでいた力が抜かれ切っているのをはっきりと感じ取ったのか、猛然と進み始めた。

 もう言う必要はないと思うけども、念のため、要するに彼は見失った鳥を発見したのである。

 ところが、向かいから若い女がジョギングしてくるのが見えるやいなや、鳥を追いかけるのに夢中になっていた彼が、それまでは見せたことがないような挙動不審を、かすかに見せるのだった。
 色鮮やかでお洒落なランニングウェアを身に纏うその女と彼が、目と鼻の先まで近づくと、夕子はそのとき決してリールをロックなどしていなかったはずなのに、一瞬ではあったが彼の動きは確かに止まったのだった。

 ぴくッと彼は一瞬止まったのだ。

 女と夕子がすれ違う瞬間、女は夕子をちらりと見た。

 そのごく自然な、無表情の目はこう語っていた。
「お宅の旦那、わたしの胸を見てたわよ。2度ならず3度も」

 恥ずかしさと憤りに突き動かされた夕子は、リールをロックすると同時に、力の限り思いっきり引いた。
 彼は、目の前に偉大なる社長様が現れたかのようにはたと立ち止って、硬直したまま微動だにしなくなった。
 そばまでやってくると夕子は、温情に満ちたやさしい、だが恐怖さえ感じる笑顔を浮かべて言った。
「どうしたの?」
「いや、あの……」
「なに?」
「き、きみだってイケメンを見たりするだろう?」
ここで夕子は笑顔を打ち切って、冷たい表情で冷たく言い放つ。
「一緒にしないで。顔は見ても股間は見ないもの」
彼は涙声で言った。
「本当にきみのこと愛してるんだ。信じてくれ」

・・・・——「おすわり」

・・・・なんのこっちゃ?、とでもいわんばかりの彼の表情。

夕子はもう一度にべもなく言う。

―—「おすわり」

・・・・戸惑いの表情を見せるがおとなしく従った大介に、夕子は続けて命じる。その顔は少しも笑っておらず、いたって真剣だった。
「お手」

 そうして差し出された夕子の掌に、大介は恐る恐る手を置いた。

 鳥たちのさえずりがこだましているだけの静かな時間が流れた。

 「終わりじゃないでしょう?」と夕子は沈黙を破って催促するが、彼が躊躇してしまうのには訳があった。
 というのは傍らで女の子と男の子の2人組が、ニタニタしながら、もじもじしながら、指を咥えて興味津々に見つめてくるのだった。

 覚悟を決めたらしい大介は目を閉じ、深呼吸をした。そして高らかに吠えた。

「わん!!」

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