Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
chapter,5 シューベルトと婚約の試練《4》
ホテルからほど近い場所にある音楽スタジオを貸し切りにしたという章介によって、わたしはその夜からピアノの猛練習に励むことになった。せっかくスイートルームを予約したのに、とぼやいていたアキフミだったが、ドレスを脱ぎ捨て入浴して楽な格好になったわたしがスタジオにこもってピアノを弾きたいと頼めば、渋々練習につきあってくれた。
防音設備のととのった地下空間に一台のアップライトピアノ。スタジオのドアの向こうには同じ空間に仮眠用のソファとテーブルが置かれている。眠れる気はしないが、アキフミが練習につきっきりなので初日は早めに切り上げてソファで一緒に身体を休めた。彼はホテルに戻るものだと思っていたらしいが、時間がもったいないからとわたしがそのままソファに沈み込むと、彼も観念したのか一緒に眠ってくれた。
朝は五時からピアノを弾きはじめ、アキフミが近所のコンビニで買ってきた菓子パンを食べ、またピアノを弾いて、アキフミが持ってきたホテルのレストランのテイクアウトランチを食べ、ふたたびピアノを弾いて、アキフミと一緒にホテルに戻って夕飯を食べ、シャワーだけ浴びてスタジオに戻り、ピアノを弾く、というストイックな時間を二日間過ごし、わたしは決戦に備える。
アキフミは「そこまでしなくても」と苦笑を浮かべているが、やるといったらとことんやるのがわたしのポリシーなのだ。
「完璧な状態に仕上げてやる。誰にもアキフミの妻としてふさわしくないなんて言わせないんだから!」
ピアノに向き合いながら闘志を燃やすわたしを見て、アキフミもこくりと頷く。
「それでこそ俺の……シューベルトの妻だな」
* * *
そして運命の日。
パーティーがはじまるのは夕方からだが、わたしはアキフミの母親から呼び出され、昼食後からドレスに着替えさせられ、ホテルの美容室の椅子に長い間座らされていた。
「一世一代の晴れ舞台なのに、その格好じゃあ舐められるわよ。スタイリストにお願いしたから貴女の美しさを最大限生かしてもらいなさい」
アキフミに抗議しようとしたが、彼も今回は母の味方らしく「キレイになってこい」とわたしを美容室に残していなくなってしまった。時間があればもう一度スタジオに戻ってピアノのおさらいをしたかったのに……
だが、ここ数日の猛練習で身だしなみを疎かにしていたのも事実だ。大勢の客が集まるパーティーの席でくたびれた女がピアノの演奏を行ったところで、社長の妻だと認めてもらえないだろう。アキフミの母のように常に美しく自信満々でいなければ、周りを圧倒させることはできないのだ。
……とはいえ、丹念なシャンプーとトリートメントをされた後に美容室の椅子に座って数分もしないうちにわたしは眠っていたらしい。リラックス効果のある甘酸っぱいグリーンアップルの香りは、軽井沢の緑いっぱいの空気のようだった。
ピアノの練習に夢中で、ゆっくり休む暇もなかったわたしが目覚めたとき、鏡の向こうで楽しそうに微笑む自分が待っていた。
――そうだ、自分が自分じゃなくなるこの感覚。ピアニストとして演奏していたときにいつも感じていた高揚感。蛹だった蝶が羽化する直前のような複雑な気分。
アキフミの母と仲が良いという女性スタイリストは慣れた手付きでわたしの髪を結い上げ、白銀の蝶のバレッタをトップに飾ってくれた。
シンプルな星空色のドレスによく似合う、中心のサファイアが目立つ白銀の蝶のバレッタは、アキフミが東京のデパートで見つけて一目惚れしたものだという。いつの間に買ったのだろう……たぶんわたしがスタジオ練習で夢中になっていたときか。
化粧を施され、青白かった肌にも柔らかい赤みが増す。眠そうな瞳にもアイメイク。まるで魔法をかけるかのように、スタイリストはわたしの全身を磨き上げ、満足そうに肩を叩く。
鏡からちらりとのぞいたアキフミの姿を確認したわたしは破顔する。
「――綺麗だよ、ネメ」
「アキフミも……」
お互いに見つめあったまま黙り込んでしまったのを見て、スタイリストが初々しいですこと、と上品に笑う。
「旦那様、奥様、いってらっしゃいませ」
そしてわたしとアキフミは本日のパーティー会場へ向け、出陣した。
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