Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

chapter,5 シューベルトと婚約の試練《1》




 降りつづいていた雨は、予報通りにやんだらしい。わたしは彼に乱されたガウンを着なおし、リビングの窓から見えはじめたおおきな月を前に、目を瞠る。ガラス張りのおおきな一枚窓に映る藍色の空と黒き森を、薄くなった雲の間から照らすクリームイエローのまるい月は、まるでわたしとアキフミの情事を雲に隠れて見ていたかのようだった。
 時計の針は午後八時。夫の遺言書を読み上げていたはずが、そのままソファの上でアキフミに抱かれてしまったわたしは絶頂と同時に気をやってしまったのだろう。三十分くらい記憶が抜けている。

「アキフミ?」
「ネメ。気がついたか? メシ、できてるぞ」
「……アキフミが作ったの?」
「材料炒めただけだ。大したことはしてない」

 キッチンから鼻孔をくすぐるスパイシーな香りが漂ってくる。どこか懐かしい、食欲をそそるカレーの匂い。ダイニングテーブルのうえには二人分のカレーのお皿がスプーンと一緒に置かれていた。彼はわたしが起きてくるまで待っていたのだろう、水道の音から彼が調理器具を片付けていることが理解できる。
 ゆっくりとソファから起き上がり、わたしはキッチンで洗い物をしているアキフミの隣に立つ。

「手伝うよ」
「もう終わるから平気だ。それに、ピアノを弾く指を冷たい水にふれさせたら、お前のお袋さんが化けて出そうだ」
「……昔はそうだったかもしれないけど、いまは違うよ」
「それでも。俺が洗いたいから洗っているだけだ。ネメはテーブルについて待っていて」

 先に食べていてもいいから、とやさしく諭されて、わたしは渋々ダイニングの椅子に座る。ナチュラルな木製チェアはすこし不安定で、わたしが足を下ろすと、揺りかごのように前後に震えた。
 カレーかと思えば、炒めたというアキフミの言葉通り、カレー粉をつかったチャーハンだった。ドライカレーみたいな色合いをしていて、香りだけでなく見た目でも食欲を刺激している。

「……いただきます」

 この辺りは山の雪解け水をつかっているから、夏でも冷たく美味しい水を料理や家事につかうことができる。ピアニストとしてこの地に連れてこられたのなら、きっと冷たい水をつかった家事ひとつしないで、ピアノばかり弾いていたことだろう。ひびやあかぎれを作ることもしないで。
 いまの自分の手はピアノだけで生きていた頃と比べれば荒れているものの、恥ずかしい手ではないと自負している。掃除も洗濯も、苦手だけど料理も軽井沢で学んで、自分のものにした。
 それでも他人が作ってくれる料理はとても美味しい。わたしは炒めただけだというアキフミのカレーチャーハンを一口ふくむ。

「ーー美味しい!」
「口に合って良かったよ。冷蔵庫にりんごジュースの缶が入っていたけど、これは飲んでも大丈夫なんだよな」
「うん。近くの農園で採ったりんごをジュースにしているの。うちにも卸してもらっていて、サービスとして冷蔵庫に三つ常備しているんだよ」
「へえ」

 冷蔵庫からりんごジュースの缶をふたつ取り出し、こちらへ歩いてきたアキフミに教えれば、彼はテーブルに缶を置いて、向かいの席へ腰を下ろす。両手を合わせて「いただきます」と丁寧に挨拶をして食べはじめるのが彼の習慣だ。子どもの頃から母親にこれだけは躾けられたのだと言っていた。自分で料理をつくったときも、料理に向かってきちんと「いただきます」と告げるアキフミの姿は、傍から見ても清々しい。

「どうした?」
「ん。アキフミの作ったご飯をふたりで食べるなんて、初めてだね」
「そうだな。ふだんは家政婦が用意してくれるから、ネメも自炊はしないだろう?」
「掃除や洗濯と比べると、まだ苦手かも」
「今度、ふたりで作ろうか」
「ほんとう!?」

 嬉しくて声を弾ませるわたしを見て、アキフミがくすりと笑う。
 彼は高校中退後、母親が再婚するまではさまざまなバイトを転々としていたという。そのなかには飲食店も含まれていて、自分でまかない飯を作ることもあったのだという。

「俺の料理なんて居酒屋のつまみばっかりだぞ」
「それでも何も作れないよりすごいよ。ほんとうにわたし、炊飯器でお米炊くのですら自信なかったんだから」
「それただの機械音痴なだけなんじゃ……?」

 音大を出てから数か月だけ一人暮らしをしたものの、ほとんど外食だったあの頃。
 洗濯物はちょっとしたものはコインランドリーで済ませたし、ステージ衣装はクリーニング店にお願いしていたし、ひとりで白物家電をつかうことなど滅多になかった。

「こ、これでも学習したよ」
「知ってるよ。ピアニストの道を断たれた後、自力で生きていくために頑張っていたんだものな」

 アキフミはやさしい。
 見えないところでずっとわたしのことを見守っていてくれた。
 わたしと彼がはなれていた九年のあいだに起きたさまざまな出来事すら、彼は把握している。
 調律師になった彼との再会は偶然だったのか必然だったのかわたしにはわからない。
 ただ、彼が自ら紫葉リゾートの社長の座を奪い、この土地とピアノを押さえた原因はわたしにあるのだと彼は囁いていたから、わたしは愛人に甘んじていた。アキフミははじめからわたしを花嫁に迎えたかったみたいだけどそのときのわたしはバツイチの未亡人になったばかりだと思っていたから、そこまであたまが回らなかったのだ。
 けれど、いまは違う。

「これからは一緒に生きていこう、ネメーー俺の妻になってくれ」

 カレーチャーハンのお皿をシンクに置いて、アキフミがわたしの前へ跪く。
 彼の何度目かわからない求婚に、わたしは苦笑しながらこくりと頷いて。

「わたしも、彼方じゃないとダメみたい」

 ちいさな声で、応じるのだった。

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