Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき

chapter,4 シューベルトと初恋花嫁の秘密《4》




 翌日の土曜日は久しぶりの晴れだった。アキフミと一緒の寝台で抱き合ったまま夜を明かし、窓から差し込む朝陽で目覚めたわたしは、いまだに隣ですやすやと寝息を立てている彼を見て、幸せな気持ちになる。

「……アキフミがまだ寝てるなんて、珍しい」

 いつもわたしより先に起きて、寝室のピアノを演奏していた彼が、いまも夢の世界にいる。
 彼の穏やかな寝顔を見ていたら、このまま寝かせておきたい自分と、早く起こしたい自分が心のなかでせめぎあいをはじめてしまう。もしかしたらアキフミも、寝ているわたしを見て、悩んではピアノを弾いて誤魔化していたのかもしれない。寝ていても起きてもやさしい気持ちでいられる音楽を選んで。

 彼を起こさないように身体を起こし、夜着姿のまま、ピアノの椅子に腰掛ける。
 くるぶしまでの長さがある夜着はまるで、コンサートのときに着たロングドレスのようだ。
 ピアノの蓋をゆっくりと開ける。彼が調律したわたしの父親の形見のアップライトピアノ。その隣に置かれている小さな引き出しから二冊ほど楽譜を取り出し、譜面台へ乗せていく。アキフミは暗譜している曲が多いけど、いちどピアノから離れたわたしは楽譜があった方が安心して弾くことができる。あと、いきなり難しい曲を弾く前に指を温める必要もあるのだ。

 指の腹で鍵盤をポーン、と鳴らして、手始めに分厚いハノンの練習曲集でウォーミングアップ。呪縛のようにつづく淡々とした反復運動は子どもの頃は苦手だったけれど、いま思えばハノンの曲集でスケールやアルペジオの大切さを学んだ気がする。一番から六十番まで通しで一時間以上かかるが、最後まで弾ききる際のカデンツ、ピアニッシモのまま消え入るペルデンドシの指示が爽快で、弾きはじめると止まらない呪縛のような魅力がある。
 その後、取り出した別の楽譜で選んだのは、今日の晴れ間によく合いそうなラヴェルーー水の戯れ。

 ホ長調四分の四拍子、楽譜の冒頭に掲げられた題辞“水にくすぐられて笑う河の神様”を思い浮かべて、わたしはきわめてやさしく、一定のリズムとテンポを保ちながら奏でていく。
 わたしが学生の頃からすきな、超絶技巧と叙情的な一面を持つ、古典的でありながらひとを惹きつけてやまないソナタ形式の曲。

「周りで水の精霊が飛び跳ねているみたいだな」
「アキフミ……起きた?」
「ああ。素敵な目覚ましをありがとう」

 背後から抱きしめられてピアノの演奏を止められたわたしは、そのまま彼に顔を近づけられてキスをする。鍵盤に身体を押しつけられながらのキスが、不協和音に彩られる。

「ちょ、どうしたの」
「俺の女神さまを笑わせてやるのさ……水にくすぐられて笑う河神のように」
「やだ、朝だよ、アキフミっ」
「身体は嫌がっていないくせに」
「ンッーー!」

 ピアノに身体を押しつけられたまま、唇を塞がれ、夜着の上から愛撫を施され、くすぐったいと逃げ出そうとしたら寝台に連れ戻されて乱されて。
 わたしはまた、朝から彼に慈雨のように降り注ぐ愛の言葉とともに、身体を奏でられてしまうのだった。


   * * *


 結局、アキフミとほとんど昼ごはんのような遅い朝ごはんを食べてから、ふたりで軽井沢観光をすることになった。
 以前の約束はまだ有効だものな、と言って、彼はわたしに上質な紙袋を手渡してくる。

「これは?」
「せっかくのデートだから、ふだんとは違うネメが見たいと思って」
「……こんなに短いスカート、履けないよ」
「実際に履いてみないとわからないって。それに、ピアニストの頃はもっと露出度の高い服装してただろ」
「あ、あれは舞台の上で映えるだろうからってスタイリストさんが……」
「とにかく。俺のために着てくれ」
「……わかった」

 身体にぴったりとした黒のノースリーブとミニスカートのセットアップ。渋々着替えてアキフミの前へ姿を見せたら、彼は嬉しそうに頬をゆるめてわたしを抱きしめる。彼も麻のジャケットに黒のチノパンというシンプルなコーデに着替えている。ふだんから黒い服を好んで着ている彼が、白いジャケットを着ている姿が新鮮で、わたしも思わず頬をゆるめてしまう。

「アキフミ、ずるい」
「なんだよそれ」
「何着ても似合うのに、隠してた」
「そんなこと言ったらネメだってそうだろ。さすがにまだノースリーブは早いから外に出るときはカーディガンかストールがいるか」
「あ、わたしが持ってる白いストールならこの服に合わせやすいと思う! たしか寝台の下の引き出しに……」

 わたしが寝台の下の引き出しを開こうとその場にしゃがんだのを見て、アキフミがくすりと笑う。

「スカートが短いとお前のすらりとした足がよく見えて眼福だな」
「きゃ、見ないでよ変態」
「だからストールよりもロングカーディガンの方がいい」
「え。それどういう理屈?」

 わたしが引き出しから白いスツールと、その隣に仕舞われていたレースのロングカーディガンを取り出せば、彼が勝ち誇ったように告げる。

「俺以外にその眩しい太ももを見せたくないってことさ」

 かつて、制服のスカートをなめられないように短くしろと命じておきながら実際に短くしたわたしに「俺以外の男に見せたくない」と言っていたアキフミ。いまもむかしも変わらない彼の言葉に、わたしは感慨深くなる。
 自分がわたしのミニスカート姿を見たがっていたくせに、実際に出かけるときはロングカーディガンを着て下半身を隠せと言う彼に、わたしもまたくすりと笑ってしまう。

「だけど、この服装でデートに行きたいんでしょ?」
「だからだよ」

 ぷいっと顔をそむけた彼の耳が赤くなっているのを見て、わたしは頷く。

「わかった。カーディガンにするから拗ねないで」

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