Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき

chapter,3 シューベルトと夏の宝探し《4》




 夫の死から二ヶ月が経過した、六月の下旬。梅雨入りしてから連日のように降りつづく雨のなか、アキフミは東京の親会社から招集を受け、十日ほど前から屋敷を留守にしている。
 わたしは応接間のピアノでショパンの「雨だれ」を弾いた。音楽が終わったところで、応接間のソファでコーヒーを飲んでいた紡が拍手をしながら懐かしそうに呟く。

「喜一さんは俺の親父とバンドを組んだことがあるんですよ。ピアノとベースとあとひとり、クラシックギターがいて。よく、この屋敷でクラシックをベースにしたジャズを奏でてました」
「紡さんも?」
「そのときの俺はまだ小学校にあがる前の子どもですよ。そういえば喜一さんの最初の奥さん……峰子さんにかわいがってもらいましたね」
「わたしと峰子さんって似てますか?」
「どうだろう? ピアノを弾いている姿が似ている、っていえば似ているかもしれないけれど、俺はそこまでそっくりだとも思わないな」
「夫はわたしをねね子って呼んで、亡き奥様の面影を求めていました」
「それは……悲しかったね」

 自分よりも切なそうに眉をひそめて、紡がため息をつく。
 アキフミが留守にしていると知って、後日出直しますよと言った彼を引き止めたのはわたしだ。
 彼が知っている亡き夫のことや、バンドをしていた頃のアキフミの話をききたかったから。

「仕方がないですよ。そうでもしないときっと、わたしは孤独死していたと思うんです」
「それは……君が鏑木音鳴って名前でピアニストをしていたことと関係があるのかな」

 紡のぶれない視線に、わたしは素直に頷く。
 彼はわたしが元ピアニスト鏑木音鳴だってことを知っていながら、この一ヶ月、何もきいてこなかった。傍にアキフミがいたから、核心に迫れなかっただけかもしれないけれど。

「はい。わたしは父の形見のピアノを守るために、夫がいた軽井沢に隠居することにしました」
「隠居って、君まだ二十六歳だよね? 何人生悟っちゃってるの」
「悟っているわけじゃないです。いまの暮らしに満足していただけです」

 夫と暮らした三年間を思い出して、わたしは微笑う。
 穏やかに四季を過ごし、気ままにピアノを弾いて、心の傷を癒やした日々。
 ただひたすらやさしかったぬるま湯のような日々。

「満足していた、ね。いまは違うんだ」
「……そりゃあ、アキフミや紡さんが乗り込んできましたから」
「レイヴンくんが鏑木鳴音の熱狂的なファンだったってのは俺も知ってるよ。異国のパトロンに拾われたって噂にショックを受けて一時期かなり荒れていたんだよ」
「そうなのですか」

 アキフミが、わたしの熱狂的なファンだった? そんなこと、ぜんぜん態度にも出さなかったくせに。
 驚くわたしに、紡が悪戯っぽくつづける。

「俺はシューベルトになるんだ、ってのが学生時代の彼の口癖でね。なにがシューベルトなのかは教えてくれなかったけれど……もしかして君は知っているのかな?」
「シューベルト……」

 紡はわたしとアキフミが高校時代に恋人同士だったことを知らない。
 だけどシューベルトの妻になると口にしたわたしを信じて、彼はシューベルトになると周りの人間にはなしていたのかもしれない。
 黙り込むわたしを見て、紡はするりと話題を変える。このひとはやさしい。言いたくないことを無理に言わせることはけしてしない、とても柔らかいひとだ。

「レイヴンくんも面白い子だよね。喜一さんが亡くなってから一緒に暮らしているネメちゃんも、そう思うだろう?」
「あ、はい」

 彼は紫葉リゾートのやり方にはいい顔をしていないが、アキフミ自体には悪意を持っていないのだな、ということがこの一ヶ月でなんとなく理解できるようになった。彼がわたしを強く求めていることに疑問を感じているところもあるみたいだけど……

「実はね。マスコミから見捨てられた悲劇のピアニストが喜一さんの後妻になったっていうから、どんな性悪女かと思ったんだ。アキフミまで彼の死の翌日からこの屋敷に住みついているし」
「……性悪女って」
「ごめんごめん。訂正するよ。実際の君はとても慎ましやかで素敵な女性だ」
「褒めても結婚しませんよ」
「レイヴンくんがこの場にいたら喜びそうなことを言うね」
「そうですか?」

 別にアキフミと結婚すると言ったわけでもないのに、なぜ紡は嬉しそうな顔をしているのだろう。わたしが首を傾げると、彼はふいに表情を曇らせて、淋しそうに呟く。

「レイヴンくんが君にご執心なのは痛いほどわかったんだけど、ネメちゃんは何を恐れているの? この先結婚しないで亡き夫の土地とピアノを守るのに余生を過ごすの? たったひとりで?」
「……それは」
「別荘管理の仕事を添田たちと喜一さんがいた頃のように行うことは可能だろうよ。だけどそんなの淋しすぎるよ。俺、もっとネメちゃんのピアノ聴きたいもの。きっとレイヴンくんも」
「言わないで」
「心の整理がついてない? それでも遺言書を探し出さないと、君は喜一さんの隠している真相に気づけないままだよ」
「真相って……紡さんは、遺言書に何が書かれているのか、ご存知なのですか?」
「知らないよ。だけど想像はつく……むしろ君とふたりではなしができて良かったと思う」
「どういうこと?」
「レイヴンくんには、しばらく隠しておいた方がいい。いまの時点では可能性にすぎないから。けれど、この仮説が事実なら、君が悲観する必要はないんだよ」
「え」

 紡はきょとんとするわたしに、心配しないで、と笑いかける。

「まずは被相続人の戸籍だけでなく相続人の戸籍も調べたほうがいい」
「戸籍?」
「君の本名はほんとうに須磨寺音鳴なのかな?」
「――それって……!?」

 すべてを失ったわたしを軽井沢に匿い、自分が死ぬまで傍に置いていてくれたひと。
 やさしくはしてくれたけれど、最後まで愛しているとは言ってくれなかったひと。
 教会でウェディングドレス姿の写真を撮影したけれど、式は執り行わなかったこと。
 婚姻届にサインを求められて署名したのに、死の直前に「どうして拒まなかった」と呆れられたこと。
 祖父と孫ほどの年齢差がある白い結婚をしたわたしたちの関係は、一部の人間を除いて最後まで秘密にされていたこと。

 ……紡はわたしのはなしを総括して、ひとつの可能性を口にした。


「たぶん君は、バツイチじゃない」

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