Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき

monologue,2 初恋を拗らせたシューベルト《3》




 長野支店へネメを連れて行って以来、俺はふたたび彼女を抱くようになっていた。心は前の夫のものだと理解していても、肌を重ねて互いにふれあっていくことで、すこしでも距離を縮めたかったから――…‥

 はじめての夜のように痛い痛いと泣き叫ぶこともなくなり、彼女の無垢な身体は俺の手によって淫らにうつくしく作り変えられていった。
 さながら、アンティークのピアノを調律するように。


   * * *


 四月のおわりに須磨寺が亡くなって間もなく一ヶ月が経とうとしている。
 別荘地“星月夜のまほろば”はゴールデンウィークからシーズンを開始したが、今年のゴールデンウィークは連休が短いため例年より利用者が少ないみたいだった。
 五月最後の週明けの月曜日。土日に一泊二日で利用があったコテージの掃除をするのだとネメは朝から張り切って屋敷から飛び出していく。彼女が仕事をする姿をなかなか拝めずにいたので、今日こそはと俺も彼女についていくことにした。

「アキフミまで来なくていいのに」
「現場を知ることは大切だろう? それにしても新鮮だな、ネメのエプロン姿」
「似合う?」
「ああ、俺以外の男に見せたくないくらいだ」
「それ、ほかの女の人にも言ってない?」
「言うわけないだろ……ったく」

 似合うとか可愛いとか言っても、彼女はなかなか信じてくれない。ピアニストとして舞台に立っているときは凛とした佇まいを見せていたが、きっと精一杯の強がりだったのだろう。
 人前でピアノを弾けなくなって自信喪失してしまった彼女は、三年経ったいまも、変わり果てた自分の姿を気にかけている。

「……わたしね、アキフミが抱いてくれないのは、ガリガリに痩せちゃったからだと思ったんだ」
「何を莫迦なことを」
「ピアニストとしてデビューした頃は、もうすこし肉があって、ふくよかで健康的だったから。胸がちいさくなったいまのわたしじゃ、アキフミを満足できなかったのかな、これじゃあ愛人失格だな、って思ったの」

 ――愛人以前に、俺はネメを花嫁にしたいのだが。

 彼女は俺に心を開いてくれてはいるものの、相変わらず愛人としての立場を強調している。バツのついた未亡人に現を抜かしてないで、飽きたらとっととふさわしい女性を探せと、遠回しに拒んでくる。
 紫葉グループ内で俺の花嫁探しが噂になっていると知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
 義父と母親にネメの存在を認めさせたい。けれどもいまの状況では、「わたしは愛人なのでどうぞご自由に」と逆に突き放されかねない気がする。身体だけ明け渡してくれても、俺は満足できないことを思い知ってしまった。永遠に繋ぎとめるためにも結婚という枷をつけなくては……けれど無理強いはもう、したくない。

「俺は、ネメに無理をさせたくなかったんだ……結局、我慢できなかったけど」
「そんなに心配しなくても……アキフミがひどいことしないのは、もうわかったから」
「こんなところで煽るな。欲しくなる」
 
 屋敷から道なりにつづく坂道をとことこと歩くネメの手をぎゅっと握れば、彼女の足がぴたりと止まる。そのまま顔を近づければ、反射的に瞳をとじて、俺の唇を受け入れてくれる。

「――アキ、フミ」
「ネメ」
「いけません……仕事中です」

 車が一台ぎりぎり通れるちいさな門をひらけば、ここから先は屋敷の人間以外も往来が可能な別荘地になる。どこにひとの目があるかわからないとネメは俺を窘めて、一棟目のログハウス風のコテージの鍵を片手に、木でできた階段をのぼっていく。
 利用者と直接顔を合わせることは殆どないというが、彼らが利用した後、こうしてコテージに入り、室内の点検をはじめ洗濯や掃除を行うのだという。別荘管理人の仕事をネメが慣れた手付きでせっせと行っていくのが、なんだか新鮮だった。

 レースのエプロンを着て作業する姿の彼女も可愛らしく、仕事でなければその場で抱きしめて真新しいシーツの上に押し倒して悪戯してしまいたくなるほど、俺の目に毒だった。
 いままではろくに家事もできずにいたというが、この三年間で別荘管理の仕事が板についたらしい。まるでハウスキーパーのように素早く寝台に新しいシーツをかけ、内風呂をピカピカに磨き上げ、室内の備品や消耗品のチェックまで半日足らずで終わらせていく。繁忙期だと五棟の別荘が同時に利用されるため、ネメだけでなく屋敷の家政婦たちも総動員で働くのだという。

「別途人を雇うことは考えなかったのか?」
「もともと屋敷に住み込みで働いている人間は別荘地の雑務も業務内容に含まれているのよ。シーズンがはじまると通いの家政婦を別荘管理のために雇うこともあるけど、今年は夫のことや土地の引き継ぎがどうなるかわからなかったから、募集をかけてなかったの」

 ネメはそう言って、てきぱきと掃除道具を片していく。俺はふうん、と頷いてリビングルームにあるソファから窓の景色を眺めていた。ガラス張りの窓の向こうは瑞々しい緑で満ち溢れている。
 新緑が一斉に萌えだす五月から六月にかけては、一時的に観光客の数が少なくなるものの、いちばんこの軽井沢がうつくしい季節だといわれている。空の青に残雪をいただいた浅間山の眺めをはじめ、雪柳の白い小花や山吹の鮮やかな黄色、遅咲きの山桜の淡い紅……まるでキャンバスに絵の具を散らしたような光景を眺めているだけで不思議と落ち着いた気持ちになっていく。
 ネメは「まだ終わりじゃないんですよ」と鍵の束をちゃりんちゃりん鳴らしながら外に出ていく。俺は彼女の背中を慌てて追いかけながら、ため息をつく。

 ――次の週末は教会か。

 屋敷の応接間に、須磨寺の骨壷は置かれたままだ。昇天記念日に合わせて納骨の儀式を教会墓地で行う手はずになっているが、ネメはここ数日応接間にある峰子のピアノでショパンばかり弾いていた。夫に聴かせているのだと淋しそうに笑った彼女を見たら、俺の醜い嫉妬の感情は溶けて消えてしまった。臨終の際にもショパンの「別れの曲」を弾いたのだという。ネメが奏でた切ない旋律を前に、俺はなんともいえない気持ちに陥った。「妻」になることを彼女自身が受け入れた男に勝つには、どうすればいいのだろう。

「アキフミ?」
「まだまだ前途多難だな……お前を俺の花嫁にするのは」

 俺が呟いた弱音は、彼女の耳元まで届かなかった。
 届いていたら顔を真っ赤にして「愛人でいいんです」と即座に言い返しただろうから……

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