Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき

chapter,2 シューベルトと初夏の愛人《6》




 紫葉リゾート長野支店の店頭にはゴールデンウィークを前に軽井沢や上高地のハイキングなどをうたった青々とした緑色の写真が目立つツアーパンフレットが飾られている。大手旅行会社と異なり、店舗では自分たちが建設、開発した紫葉不動産グループ内の高級ホテルや宿泊施設を紹介しているためどこよりもお得な価格でプレミアムな旅行を楽しめますとうたわれていた。
 わたしはきょろきょろしながらアキフミの後ろにつづく。彼はひとりで店長室に入っていく。添田とふたりでその並びの別室に待機するよう指示されて、落ち着かない気持ちでソファに座る。

「添田さん」
「なんでしょう、奥様」
「わたしはもう、主の奥様じゃないわ」
「紫葉さまは、貴女さまのことを妻だと、そうおっしゃっておりますが」
「……誤解よ。わたしは土地とピアノを守るために彼の愛人に成り下がっただけ。夫のときと変わらないわ」
「左様ですか」

 気まずい沈黙のなか、平然と差し出された緑茶を啜る添田を前に、何も言えなくなる。店長がわたしたちに煎れてくれた緑茶は、熱々で、猫舌のわたしは口をつけることすらできない。それを添田は黙々と飲んでいる。

 死別後の再婚……考えたこともなかった。もし、あのとき婚姻届を差し出されていたら、わたしはアキフミの名前の隣に自分の名前を記しただろうか。

「あの」
「奥様は、喜一さまの遺言書をご存知でしょうか」
「遺言書……?」
「ええ。いつか死ぬ死ぬといいながら、三年近く貴女さまを煩わせていた旦那様です。貴女宛にも遺言書をしたためたとおっしゃっておりましたが」
「それ、初耳よ?」

 遺言書があるなんて、知らなかった。死んだら添田がどうにかしてくれるとだけ言っていた夫が、わざわざわたしに遺す何かがあるなんて。

「旦那様は奥様に宝探しをしていただきたいのでしょう。屋敷ではないところに隠したとのことです。心当たりは?」
「あるわけないでしょう? どうして今まで黙っていたのよ!」
「旦那様の納骨が終わってから、ゆっくりお話しようと考えていたのですが、紫葉さまが」
「アキフミが、何?」

 遺言書にもアキフミが関わっているの? 思わず身を乗り出して机の上の湯呑を倒してしまったわたしは「熱ッ」と悲鳴をあげる。右手を火傷したかもしれないと、添田に洗面所で応急処置するよう促され、慌てて部屋の扉を開ければ。
 そこには用事を終えたアキフミがいた。

「ネメ? 火傷したのか? ワンピースにもかかってるじゃないか。洗面台……いや、こっちに来い」
「え」

 店長から渡された鍵を手に、表情を曇らせたアキフミがわたしを連れて行った先は。
 まさかのシャワー室だった。


   * * *


 熱い緑茶をすこし身体にこぼしただけだというのに、アキフミはわたしが着ていたワンピースを脱がせ、肌に火傷の痕ができていないか確認して、冷たいシャワーを浴びさせる。指先だけちょちょいと冷やせば問題ないと言い張るわたしを無視して、彼は「お前が心配なんだよ」と囁きながら下着まで外してしまう。こんな場所で裸にされると思わなかったわたしは羞恥で顔を真っ赤にしてアキフミを睨みつける。彼はスーツが濡れるのも気にしないでわたしの身体を確認している。

「大丈夫だって言ってるのに……もう」
「赤いのは右手の薬指か。ピアノをやってる人間が痛めてどうする。適切な処置をしないと」
「指をちょっと火傷しただけだよ? スカートにもかかっちゃったのは事実だけど」

 脱がせてまで処置する必要はなかったのにと反発しても、彼に「念には念を入れる必要があるだろ」とスカートのシミができた場所をじっと凝視する。一度だけ身体をつなげた下半身の付け根の部分を見つめられて、ふれられたわけでもないのに身体が疼いてしまう。

「……痕にはなってなさそうだな」
「ね、もういいでしょ?」
「待て。添田に俺たちの新しい服を用意させているから、もうすこし俺にそのうつくしい肌を見せてくれ」
「えっ」

 そんな、新しい服を買ってこさせるなんて、しなくてもいいのに。
 それよりアキフミの前で肌を晒しつづけているいまの状況の方が心臓に悪い。早くタオルを手渡してくれればいいのに。
 会社の支店内で彼がいかがわしい行為をするとは思えないが、濡れた漆黒の瞳で熱心に見つめられていると、自分が淫らな女になってしまったみたいで、いたたまれなくなってくる。

「だが、風邪を引かれても困るか……」
「きゃっ」

 シャワー室の狭い空間で、濡れたスーツを着たままのアキフミが裸のわたしを抱き寄せる。シャワーの音はまるで雨音のようで、彼に包まれているとこそばゆい気分になる。最初の夜のように身体中をまさぐられたわけでもないのに、いつまでも彼に密着しているこの状況に、わたしの身体は震えが止まらない。

「アキフミ」
「……キス、していいか」
「だめ……だって、ぁ……」
「もう遅いよ」

 顎を手でくいっと持ち上げられ、口づけられる。
 挨拶のキスとはぜんぜん違う、情熱的な彼のキスに、わたしは翻弄されてしまう。
 シャワーの音が、わたしとアキフミの淫らな接吻をかき消してくれるから、彼は調子に乗って、わたしの身体の線をなぞりながら、キスを深くしていく。

「アキ、フミっ」
「ネメ。俺の手で啼いて」
「もぉっ、知らないっ……!」

 いままで知らなかった気持ちいいことを、教えられて、身体が作り変えられていく。
 彼の手で奏でられるわたしの甘い啼き声も、シャワーの音にかき消されていた。
 考えなくてはいけないことがたくさんあるはずなのに、彼に身を委ねているうちに、すべてがどうでもよくなってしまって……



 結局、この後のデートの予定は後日に持ち越されることになるのだった。

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