Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
monologue,1 調律師になったシューベルト《4》
須磨寺の屋敷での三度目の調律の前に、俺は紫葉リゾートの社長の椅子を義姉から譲ってもらった。須磨寺の妻がネメであろうがそうでなかろうが、俺が別荘地の売買に直接口を出せる立場になれば、あの土地も三台のピアノも守ることが可能になるからだ。
初恋の想い出を拗らせた俺の無謀な行動に、双子の弟たちは愕然としていたが、義姉の秘書になぜか共感され、晴れて俺は自分の思い通りに事業を進めるだけのちからを手に入れたわけだ。
一族が経営している会社組織の下剋上に、関連企業はざわめき立ったが、もともと過労気味の義姉に代わって再婚先の連れ子が業務を引き継いだだけだと知ると、やがて何事もなかったかのように騒ぎは落ち着いた。
軽井沢、嬬恋エリアのリゾート開発にちからを入れていた義姉が目につけていた“星月夜のまほろば”についての詳細な資料を入手したことで、疑いは確信へと変わりつつあった。
須磨寺喜一のプロフィールに、音大非常勤講師以前の職として世界的ピアニスト鏑木壮太などを排出した指導者だった旨が記されていたのだ。父親の師である須磨寺が、窮地に陥ったネメをこの地で保護し、後妻にしたと考えれば辻褄が合う。祖父と孫のような年齢差の夫婦は親族から見れば遺産目当ての結婚と思われかねない、だから添田は内密にしろと俺に口止めを要求したのだ。
三度目の調律で、ようやく彼女と顔を合わせることが叶った。添田の「奥様」という声で、彼女が須磨寺の妻である現実を痛いほど思い知ってしまった。
彼女もまた、俺の顔を見て何か感じたらしい。
けれどもそのときの俺はカラコンで瞳の色をわざと変えていたし、髪型だって高校時代よりおとなしくなっている。誰かに似てるな、とは思われただろうが、俺が柊礼文本人だとは思わなかったようだ。
いまはそれでいい。
俺を思い出すのは、須磨寺が死んでからの方が、都合がいい。
「――奥様、リクエストは?」
奥様、と呼ぶのは抵抗があったが、須磨寺や添田が見ている前で感情をむき出しにするのは好ましい状況ではない。俺は調律を終えたピアノの前で、彼女に問いかける。
すると、彼女もまた、俺を試すようなリクエストを返してきた。
「もういちど、シューベルトのセレナーデを、お願いできますか……調律師さん」
そして俺は確信する。
彼女はアキフミのことを忘れたわけではないことを。
年老いてもうじき死ぬ夫の傍で、俺が彼女のために弾いたセレナーデは、たいそう情熱的だったらしい。瞳を潤ませて顔を背ける彼女は、二度と俺の顔を見ようとしなかった。
帰りに屋敷から車を出してくれた添田は俺が紫葉リゾートの社長の椅子を義姉から奪ったことを知って理解したのだろう。主が死んだら、土地とピアノもろとも俺の会社に売っても構わないと言い出した。その際、ひとりぼっちになる彼女のこともお願いしたい、と。
「奥様は軽井沢に来て、ふたたびピアノを弾けるようになったとおっしゃっております。主人を看取った後は自由だと言われておりますが、彼女はこの土地の別荘管理人として隠居し続けたいと」
「なんてことだ」
俺よりも素晴らしい演奏ができる彼女が、ピアニストの道を諦めて、隠居しつづけるなんて。
世界を驚かせる音を鳴らしつづけるのではなかったのか。
軽井沢の山奥にこもって、須磨寺のためだけにピアノを弾いていた彼女に苛立ちを覚える。
正直、裏切られたと思った。
調律師仲間たちが噂した「どこかのパトロンになって」という言葉が脳裏をよぎる。
パトロンは愛人、愛人は花嫁、新郎のいない花嫁ひとりだけの写真……
「あの写真は」
「奥様でございます。口うるさい親戚を黙らせるため、主人が用意させました」
やはりあのとき須磨寺の屋敷で見た花嫁の写真は、ネメだったのか……
けれどもその理由が、口うるさい彼女の親戚を黙らせるためのものだったとは。
「彼女は両親を失い、実家を親戚に明け渡し、ピアノだけを死守して軽井沢へやって来ました。主は彼女を守るために結婚という契約を持ちかけ」
「……悔しいな」
なぜ、俺ではなかったのだろう。
悔いたところで仕方のないことなのだが、俺はつい零していた。
「ただ、主は彼女を前妻の身代わりのように扱っております。若い頃の峰子さまにそっくりだからだと」
「! それで彼女は、満足しているのか」
「存じません。ふたりの間に肉体関係はないようですので」
さらりと爆弾発言をする添田に、俺は絶句する。
たしかに祖父と孫の年齢差ほどあるふたりのあいだに、肉体関係など……考えたくもない。
だが、その言葉に救われたのも事実だ。
「ならば――別の意味で、満足させればいいのか」
須磨寺亡き後、俺が土地とピアノもろとも買い取れば、ネメの処遇も俺に委ねられる。
彼女に行く宛はない。もし軽井沢から出ていくというのなら、父親の形見だというピアノを人質にして引き留めよう。
そして別荘管理人として引き続きこの土地に残し、彼女を俺なしではいられないように、身体で繋ぎ止めて、調教してしまえばいい。
「……それは、わかりかねます」
俺の物騒な発言を無視して、添田はため息をつく。
若いふたりのまどろっこしい現状は、はたから見るとたいそう滑稽なのだろう。高校時代にいっときだけ恋人同士だったふたりが、お互いに隣合える未来を思い描きながら実際に九年後に再会したら、彼女はすでに他の男のものだった……けれどもその結婚は不本意な、契約的なもので、男女の愛情は存在していない。彼女を一途に求める俺に、添田は諦める必要はないと言ってくれた。どうせあとすこしで主人は死んでしまうのだからと。
須磨寺も俺がネメを求めていることに気づいているきらいがある。自分が死んだら若い男に譲ってやるとでも考えているのだろうか……彼女はものではない、けれど。
そうだとしたら、俺は添田に躍らされているのかもしれない。彼女を手に入れるためだけに義姉から社長の椅子を貰い受けたのは、紛れもない事実だ。社長になれば、彼女をパトロンにして傍に置くことも容易いと考えていたから。
須磨寺のためにピアノを弾いていた彼女が、もし俺との結婚を拒むのなら、いっそのことパトロンにして縛りつけてしまえばいいのだ。
次回の調律は一年後にまた連絡しますと言っていたが、その頃には須磨寺の寿命が訪れているだろう。添田もわかっているのか、それ以上は何も口にしなかった。
俺は須磨寺の別荘地と、そこを今後管理していくであろう彼女との未来に想いを馳せ、昏い笑みを浮かべるのだった。
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