Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

chapter,1 シューベルトと春の再会《3》




 夫との出逢いは県立芸術高校を卒業し、現役で入学した東京の音楽大学で本格的にピアニストとしての活動をはじめた頃に遡る。当時は両親も健在で、わたしは世界的ピアニスト鏑木壮太の娘という肩書を利用して、天才女子大生ピアニストとして日本のクラシック界に華々しく登場したのだ。
 親の七光りだと言われようが気にすることがなくなったのはきっと、高校で過ごした三年間がとても充実していたからだ。母親の言いなりになって私立の音大附属高校に入っていたらきっと、恋を知ることもできないままピアノ漬けで、あたまがおかしくなっていただろう。
 大学生になって、わたしはパパとママと呼ぶことをやめた。ようやく、反抗期が終わったのだ。

 ――壮太の娘にしては、いい音を出しますな。

 あれは音大主催のコンサートの前座でシューベルトのセレナーデを弾いたときのことだ。
 拍手をしながらわたしに近づいてきた初老の男性は非常勤講師の須磨寺喜一と名乗り、はるか昔に自分の父にピアノを教えたことがあるのだと悪戯っぽく話してくれた。
 海外から戻ってきた父はそのことを知ってあたまを抱えていたけど、娘が褒められたと知るや否や、嬉しそうに破顔した。
 世界を飛び回る父親は日に日に存在感を増すわたしの成長を目の当たりにして誇らしげにしてくれたし、母親も小中学生の頃よりも干渉することがなくなり、わたしは大学在学中、思う存分自分の音と向き合い、技術を高めることができた。卒業後は株式会社グッディクラシカルミュージックと専属契約をすることも叶い、ソロでのCDデビューも目前だった。
 それもこれも、初恋の想い出があったから。世界で羽ばたけるピアニストになって、いつか彼と再会するのだと、心の底から願っていたのだ……二十三歳になる、その日まで。


   * * *


 順風満帆だったわたしのピアノ人生が壊れたのは、誰のせいでもない。わたしが弱かったからだ。
 スタジオでの収録中にその一報はもたらされた。

『オーストラリア航空、ウィーン発東京行きのボーイング型機がロシア上空にて炎上、緊急着陸を試みるも海へ墜落、乗員乗客およそ180名の安否不明……』

 その日はわたしの二十三歳の誕生日の前日だった。一緒に誕生日を祝おうと、両親がその日のために帰国すると決めてくれたのが嬉しかったのをよく覚えている。

 乗客名簿のなかに、両親の名前が含まれていた。
 テレビの画面越しに見た、黒焦げになった機体の惨状から、誕生日を祝ってもらう約束は叶わないのだなと、悟ってしまった。

 ――そのときから、自分の心にちいさな空洞が生まれたような気がする。

 骨も遺品もないなかで行われたささやかな葬儀。嘘っぽくて、涙も出てこなかった。まだ、ふたりが海外で演奏旅行をしているような気がして。そんなわたしをマスコミは面白おかしく取り上げた。悲劇の天才女子大生ピアニスト、なんて。
 一部のファンのために鏑木壮太お別れ会を開催しようというはなしも持ち上がったが、結局献花台をコンサートホールに設置するだけで、自分は何もできなかった。
 そしてふたりが遺した県屈指の豪邸と言われた土地と建物は、がめつい伯父夫婦のものになった。たったひとつ、アップライトピアノだけは商売道具だからと言い張って、わたしは都内の防音設備完備の賃貸マンションへ逃げ込んだ。泣くことができなかったわたしはピアノを弾いて、感情を逃していた。食べることもままならなくなり、体重ががくっと落ちた。
 仕事に逃げていたと思われても仕方がないが、がむしゃらに奏でられて、ピアノもたまったもんじゃなかっただろう。
 はじめのうちは同情もあって多くの客がコンサートに訪れたが、いつしかコンサートを開催するだけのちからも失われ、赤字を垂れ流すようになっていた。生気を失ったガリガリのピアニストのデビューCDの企画は頓挫し会社からは一年で契約を打ち切られ、もはやピアノを人前で弾く勇気もなくなってしまった。
 煌びやかなドレスを着て嫣然と微笑み、優雅にピアノを奏でていたわたしはもう、幻になってしまった。ピアノの弾けない見栄えのしないピアニストなんか、死んだ方がマシだ。そんなことを思いながら、残されたピアノをそのままにするのは忍びないなと冷静になって、どこかに寄付しようと無気力のまま母校に行って――……

「壮太の娘か。ずいぶんとやつれたな」

 須磨寺喜一と再会したのだ。
 七十歳を迎えた彼は、音大の非常勤講師の職を辞したところだった。
 わたしを案じた彼は、そのまま居酒屋に連れて行って、はなしを聞いてくれた。
 酔った勢いもあったのだろう。わたしはピアノの弾けないピアニストなど、無価値だと声を荒げてジョッキを仰いでいた。彼はアルコールを一滴も摂取することなく、失意のどん底にいるわたしのはなしをうん、うんと頷きながら、もくもくと唐揚げを食べていた。こんな風に、誰かにはなしを聞いてもらいながら食事をするって、久しぶりすぎて、なんだか泣けてきた。食事もろくに食べられなくて死んでもいいと思っていたくせに、不思議と彼の前では美味しいご飯とお酒を口にすることができたのだ。
「ピアノなんか」と言いながら、それでもピアノがすきで、両親がわたしに伝えてくれたピアノへの熱い想いがふいに蘇って……いつしかわたしは泣いていた。両親の葬式でも泣けなかったのに、居酒屋のテーブルで、ぼろぼろぼろぼろ泣いていた。
 見えない将来に足がすくんで動けないわたしを一瞥した彼は、やれやれと嘆息しながら提案する。絶望の淵に立っていたわたしを、掬いあげるため。

「泣くほどピアノがすきなのに、手放そうとしたのか?」
「だって、だって……」
「壮太が遺したアップライトか……わしが引き取ってもいいか? 貴女がピアノを弾きたいと、また弾けるようになるそのときまで、預かってやろうか?」
「ほんとうですか!?」
「ただし、ひとつだけ条件がある」

 それだから、彼のとんでもない提案に、乗ってしまったのかもしれない。

「わしと一緒に、軽井沢に隠居するんだ。ピアノの弾けない貴女に別荘管理の仕事を教える。そうすれば、ピアノが弾けなくても生きていくことはできるだろう?」
「軽井沢……」
「須磨寺の一族が所有する別荘地がある。そこにはわしのグランドピアノもあるぞ。人前で弾くのがこわくても、弾きたくなるだろう?」
「グランドピアノ!? ……で、でも」

 どうしてわたしにそんなことを言うのだろう。仕事と住む場所まで用意するなんて。父親の師だったからだろうか? 首をかしげるわたしに、彼は苦笑する。

「なぁに。わしはあと数年で死ぬ。どうせならわしを看取ってから死ぬことを考えろって、そう言いたいのさ」

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