Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

prologue シューベルトの妻《6》



 埃を吸った電子ピアノの蓋を開く。

「どうして学校やめるのか、ってきかないんだな」

 ジィンに手渡されたのは地下のスタジオに続く鍵。扉を開くとそこには誰かを待っているかのようにぽつねんと佇む電子ピアノ。
 わたしが鍵盤に指を乗せるのをぼんやり眺めながら、柊が口を開く。

「お金がないから、でしょ」

 ジィンが教えてくれた。彼の母親が体調を崩して毎日仕事に出られなくなったから、彼が代わりに働くことになったって。歳の離れた弟たちのために。家計を削ってまでピアノを学ばせてくれた母親のために……ピアノを弾くことが義務になってしまったわたしとは大違い。最初の頃は、パパと一緒にピアノを弾くのが楽しくてたまらなかったのに……そのことに気づいたわたしは、首を傾げる。
 どうして柊がやめなきゃいけないんだろう。お金がないから学べない、なんておかしい。だけど、それが現実。
 柊はわたしの隣に座り、鍵盤で応える。
 芸術家はお金がないんだ、って言っていた柊。あれは、シューベルトじゃなくて、自分自身のことを言っていたのかもしれない。
 初恋の少女はお金のないシューベルトを選ばず、パン職人の妻になった。お金がないから、恋が実らない、なんておかしい。

 ――じゃあ、わたしだったらどうする?

 わたしも柊が奏でる旋律に合わせて、音を鳴らす。自分の想いを、音にする。
 たとえお金がなくても。好きな人の傍にいたい。そんな現実を選ぶことは、できる?
 まるでそんなわたしの心境を理解したかのように、柊がパートを委ねてくる。
 最初は適当だった音階が、統一されて、やがて偉大なる二重奏へ。それは、わたしと柊じゃなきゃ弾けない、二人でしか鳴らせない音だった。
 無我夢中になって、鍵盤を叩きつけたり撫でたりして奏でた。フィナーレ。ぴたり、呼吸が合わさる。気持ちいい!
 確かな手ごたえを胸に、わたしは聞く。

「腐ってない?」

 柊が、わたしの瞳を見て、誉めた。

「やっと、自分だけの生きた音、鳴らせたな」

 そして、空気に溶けたわたしへの呼びかけ。


「ネメ」


 柊が、笑いかける。

「俺の夢を託しても、いいか?」

 いいよ、なんて言わなくてもきっと、彼はわたしに背負わせる。わたしに断る気がさらさらないことを知っているから。
 それがたとえ。

「お前の鳴らす音で、世界を驚かせろ」

 わたしが考えもしていなかったことでも。

「鏑木壮太の娘だからじゃない。鏑木音鳴だからできることをしろ」

 柊ができると言ってくれただけで、勇気を持てる現金なわたしなら。

「俺の分も、いっぱい弾け。楽しめ。そうやって選べ。自分がやりたいことを」

 そうやって生きていける。柊が叶えられない夢を糧に。わたしが彼の夢を継ぐ。

「……なんて、カッコつけすぎか?」
「そんなこと、ない」

 わたしの声は、少し震えているみたいだ。だけど、彼の言うことはカッコ悪いことじゃないから。

「そんなことないよ!」

 精一杯、頷いて応える。

「だって」

 さっき、連弾したときに決めたんだから。

「柊あのね……わたしが、シューベルトと恋に落ちた女の子だったら」

 お金がないから結ばれないなんて許さない。時代背景なんか無視して、駆落ちでもすればよかったのに……なんて、身勝手な考えかもしれない。だけどわたしはきっと。

「シューベルトの妻になる……だから、アキフミ、わたしに託してくれる?」

 自分から、動けばいい。鳴らせばいい。
 鍵盤の上で今か今かと待機していた指を、再び滑らせる。柊も、それに続く。

「いいと思うぜ。シューベルトの妻」

 観客のいない舞台の上で、わたしと柊は奏で続けた。
 未来へと繋がるグラン・デュオ、を。


   * * *


 若かったふたりはこの先どんな困難があっても、大丈夫だと思っていたんだ。
 アキフミはそう遠くない将来、ピアニストになったわたしに逢いにいくよと誓ってくれた。
 初恋は実らない、なんて言うけれど、そんなことはけっしてないと、わたしが世界で活躍するピアニストになったらそのときまでに、自分と一緒に並んで人生を歩めるようにたくさん働いて、お金を貯めて、ネメにふさわしい男になるって。

 彼を信じていたかった。
 だけどわたしはその日が来る前に、夢を壊してしまった。

「ねね子さん……いや、ネメだろ?」

 なのにどうして。
 あのとき見たのは他人の空似だと、そう思ってやり過ごしたのに。
 あれから九年が経過しているのに、いま、目の前に初恋の彼がいるなんて……

「――やっぱり。まさか結婚していたなんて……」
「あのときの、調律師さん? どうして?」
「しらばっくれるな。アキフミだよ。あのときみたいにそう、呼んでくれよ」

 喪服姿で項垂れていたわたしに近づいてきた漆黒のスーツ姿の男――かつて柊礼文という名でわたしと同じ学校に通っていた男はいま、紫葉しば礼文と名を改め、未亡人となったばかりのわたし、須磨寺すまでら音鳴の前に跪く。
 紫葉という名の調律師がピアノをみてくれたのはほんの一ヶ月前。あのときは初恋の彼が成長したらこんな風になるのかな、と思っただけだった。けれど、いま目の前にいる彼は……

「覚えてるだろう? シューベルトの妻」

 調律師の紫葉は、紫葉不動産紫葉リゾート代表取締役という名刺を持っていた。
 手渡された名刺を見て挙動不審に陥るわたしに、アキフミは告げる。

「さっき、即金で解決しておいた。お前が管理している別荘地“星月夜のまほろば”は、今日から俺のモノだ」
「……え」
「安心しろ。お前には引き続き、この別荘地の管理を任せてやる。もう、身内のごたごたに巻き込まれることもない……ただ」

 獲物を見て舌なめずりをするように、アキフミはわたしを見て、淋しそうに嗤う。


「――もう二度と、お前を他の男のモノになんかさせないからな」

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