Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
prologue シューベルトの妻《5》
優しい音色ね、と。
その夜、ママが誉めてくれた。
わだかまっていた氷柱が、音を立てて崩れたような気が、する。
音鳴だからできる音だと、ママが鈴を鳴らすように笑う。何があったのかしら、って悪戯っぽく。
わざと譜面に目を走らせて、知らないフリをする。だけど。
恋をしたからだよ、って。
心の中でママの背中に向けてこっそり告げる。
やっと、自分だけの音を見つけたような、そんな気が、したから。
* * *
すきともきらいとも、何も言わなかった。
それでも確かに、あの時のわたしたちは、心が通じ合っていたような気がした。
そう思っていたのはわたしだけだったのかもしれない。彼の気持ちを確かめることを、しなかった浅はかなわたしに、嫌気が差す。
なぜなら。柊が学校を休むようになった。わたしと一緒にグラン・デュオを完璧にした翌日から。
もう、練習する必要がないからだろうか。お互いのパートをこれ以上ない最高の形に仕上げ、あとは課題曲発表日を待つばかり、の状態になったから? でも、最高の形を保つための練習だって必要なのに……
休み時間に悶々と楽譜を眺めていたわたしを驚かせたのは、ヴィオラ専攻の星野くんの一言だった。
「柊の奴……退学するらしいぜ!」
瞬間、悟った。だから彼は「楽しかった」と言ったんだ、と。
* * *
目の前が真っ暗になる。職員室にたどり着いたとき、既に柊は退学届を提出して学校から立ち去っていた。
「先生……柊くんは」
「もう帰ったわよ。残念ね、彼のピアノが聴けなくなるなんて」
「じゃあ、グラン・デュオは……課題曲は」
わたしの不安そうな表情を見て、教師は心配しないでと声をかける。他の人に頼むから、と。
無言で職員室を後にする。
……嫌だ。彼と弾きたい。
無理だということはわかっている。だけどだけどだけど……!
「ネメ、次の授業」
「ごめんわたし帰るっ!」
じっとしていられなかった。ここで諦めたらわたしはまた、以前のように音楽をなめてしまう。柊がいてくれたから、柊が教えてくれたからわたしは、音を楽しめるようになった。
彼に会わなきゃ。
鞄に楽譜を押し込んで、教室を飛び出す。
向かう先は……クワトロダウンステアーズ。
* * *
クローズド、という看板がかけられた入り口。途方に暮れたわたしは石段の上に腰掛け、ぼんやりビルの合間を流れる白雲を見つめる。
「あれ、ネメちゃん」
「あ」
ジィンだ。スタッフジャンパーを着ている。どうやらここの関係者だったらしい。
「どうしたの? 学校は? アキフミは?」
「柊が……退学届出して帰っちゃったって聞いたから……ここにいると思ったんだけど」
「来てないよ」
「そっか」
退学届を出して、どこに行ったんだろう。家に帰ったとは思えない。だから、真っ先にここに向かったのに……いないんだ。
ジィンはわたしの隣に腰掛けて、わたしの知らない柊の話を始める。彼の家庭環境……離婚して云々とか、学校をやめる理由……要するにお金がないとか、音楽を始めた経緯……玩具のピアノを母親にもらって独学でここまで上達した……とか。
わたしも、ジィンに色々な話をしていた。柊とグラン・デュオのパートナーになったこと、自分が鏑木壮太の娘であること、練習を通じて柊のことが好きになっていたこと、全部。
彼は驚かなかった。知ってるよ、アキフミが教えてくれたから、って微笑み浮かべた。
「あの。ジィンさんと柊ってどういう関係なんですか?」
柊のことに詳しいジィンを見ていると、なんだか出来の悪い弟を思っている兄のように見えてくる。
「ん、生き別れの兄と弟」
ジィンは悪びれもせずに応える。思わずそれを信じてしまいそうになるわたし。そして。
「仁! 勝手に俺たちのこと脚色するな」
割り込んできたのは、柊。
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