Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき

prologue シューベルトの妻《4》



 重たい。
 鍵盤に乗せた指は弾きたくないと喘ぎながら渋々動き出す。
 自分が卑屈になっているのはわかる。父親が偉大なピアニストであるのは事実だから、それを認めて誇ればいいのに、わたしはそれをできずにいる。要するにまだ、反抗期は続いているんだろう。

 昨日の夜、いつもより少しだけ遅く帰ってきたわたしだが、ママは何も言わなかった。レッスンを仮病で休んだなんて、言う必要もない。
 寝る前に鍵盤に向かった。今日聴いた音を、自分が思ったように弾いてみた。
 クラシックとは異なる音の動き。柊の奏でた生きた音色。それはまるで、寄せては返す、波のよう。
 ふぅ、と息をつく。

 ……何、自棄になってるんだろう。

 明日、どんな顔して柊と会えばいいんだろう。どういう風にグラン・デュオを奏でればいいんだろう。
 せっかく、柊がわたしのために連れて行ってくれたのに。逃げるように帰ってしまった。
 飛び出した自分に非があることは事実。周囲から鏑木壮太の娘として期待されているのもまた事実。だけど。

 舞台で演奏していた柊の姿を見た時、わたしは確かに感じていた。嫉妬や羨望や悔しさよりも真っ先に感じていたじゃないか。

「すきになっていたんだ……だから」

 心の中でくすぶっていた不協和音の原因。それを認めるのは怖い。怖いけど、それがわたしの本当の気持ち。
 柊に、恋したわたしの気持ち。
 硬くなっていた蕾が、綻ぶようなそんな感覚。
 だから嫌だったんだ。彼に、自分のことを鏑木壮太の娘って呼ばれるのが。ママですら、わたしのことをピアニストの娘だからできて当然だと音楽を押し付けたのだから。だけど、柊は違うと思った……いや、思いたかった。
 柊にだけは、わたしのことをわたしとして見て欲しかった。だけど、裏切られたような言葉にわたしは傷ついてしまったんだ。
 おそるおそる黒鍵にふれる。
 凹凸部分をなぞりながら、紡ぎだす。リストの愛の夢第三番。柊のことを想いながら。

 ……一箇所も間違えなかった。皮肉だ。


   * * *


 恋心を自覚した女の子が、すきな人に接近すると、今まで自然にできたことができなくなるような気がする。
 練習室で柊と二人っきり。当たり前のシチュエーションに今更ながらどきどきするわたし。
 あれから柊は何も話さない。わたしも何も話さない。無言で椅子に腰掛けピアノに向かい、互いのパートをギブアンドテイク。

 二人の演奏は機械のようだ。オルゴール工場のオルゴールみたい。そんなことを考えたら少しだけ笑えてきた。だから、不審そうな顔をしている柊に声をかけた。二日ぶりに。

「知ってる? シューベルトって腸チフスで死んだって言われてるけど、実際は梅毒の治療に使われた水銀による中毒だって説があるんだ」

 柊は首を縦に振る。そして逆に聞き返す。

「じゃあこれは知ってるか? シューベルトの初恋の女性はパン職人と結婚したんだ」
「どうして?」
「芸術家は金がないからさ」

 自嘲するように言って、彼はピアノに向かう。先日ライブハウスで弾いた曲の低音部。
 わたしはそのときの状況を思い出して、指を滑らせる。わからないところはアドリブで。彼の音楽に、自分が合わせる。
 いつの間にか無言で指を動かしていた。お互いに張り合うようにパートを交換しながら、同じ曲を何度も何度も繰り返す。繰り返しているうちに曲の調子が変化していく。アレンジされた新しい曲。それは化学実験を繰り返して生まれた新種の鉱物みたい。

 どちらからともなく、笑い声が零れる。わたしたちが奏でたのは、シューベルトが作曲した偉大なる二重奏グラン・デュオではない。自分たちで作ってしまったグラン・デュオ。

「そういう顔もできるんだ」

 弾き終えて、くすくす笑いつづけるわたしの耳元で柊が囁く。耳朶を優しく揺する低い彼の声は、わたしの頬を赤らめるには充分すぎる。

「何」
「楽しかったよ」

 そのときは、彼が口にした一言の重さに気づけなかった。弾き終えた達成感が、わたしの感覚を麻痺させる。だから深く考えなかった。
 繊細な彼の指が、わたしの顎骨にふれる。甘い疼き。彼の指が、震えている。
 柊の双眸を見つめながら、首を縦に振る。

「わたしも」

 そして、どちらからともなく、片方の手を握り、指を絡める。彼の顔が近づくのを見ながら、瞳を閉じる。


 共にした感覚は、一瞬。

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