Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
prologue シューベルトの妻《3》
クアトロダウンステアーズ。
何が言いたいのかよくわからない建造物の名前。柊が手にしているのはその単語が綴られた紙切れ。たぶんチケット。受付のお姉さんが柊の持っていた二枚の紙切れを切り離す。奥へ進む。分厚い扉の向こうにはミキサー、照明、暗幕……ここは。
「劇でも観るの?」
小劇場みたいな場所だった。でも違った。客席はないし大きなスピーカーが占拠してるし煙草くさい。なんか、ガラ悪そうなお兄さんがしゃがみ込んでる……なんだろう、これ。
不安そうなわたしを見て、柊が呆れたように口を開く。
「違ぇよ。お前、ライブハウス行ったことないのか」
「うん……ここライブハウスなの?」
「まぁ見てろ、すぐ始まるから」
柊が言い終わる前に、盛大な拍手が鳴り響く。始まりの合図。そして生まれる爆音。耳を塞ぎたくなるような大きさのノイズが、わたしを威圧する。ドラムの鼓動。ベースの振動。ギターの奏でるメロディ。高らかに愛の言葉を叫ぶシンガー……目の前の圧倒される光景から目がはなせない。横にいる柊が、いつの間にか姿を消していることにも気づかずに。
柊がいなくなったことに気づいたのは一つ目のバンドのパフォーマンスが終わって、休憩に入った時。
「一人?」
掴まれた手の先にいたのは見知らぬ男性。柊はどこに行ったんだろう。わたしに見せたかったものってなんなんだろう。もう見せ終わったから一人で帰ったのだろうか? 知らない場所に取り残されてしまったわたしは、心細くなって思わず彼の名前を呼ぶ。
「柊は?」
「なんだ、アキフミの彼女か。芸高の制服だからそうだろうなぁとは思ったけど」
目の前が真っ白になる。アキフミ。柊の下の名前……の、彼女。誰が? わたしがか?
きょとんとした表情のわたしを余所に、彼はジィンと名乗る。たぶん芸名みたいなものなんだろう。わたしもネメと素っ気無く告げる。
「ネメちゃん。次、アキフミ出てくるぜ。最高の演奏するからよぉく聴いておけ」
「柊が?」
もう何が起こっても驚くまいと思っていたのに、その決意は呆気なく翻りそうだ。
* * *
黒の皮ジャンに着替えてステージに立った柊の姿を認めたとき、なぜか心臓が高鳴った。
彼が手にしているのは片手で持ち歩きのできるタイプのキーボード。タンタンッとドラムの助走がはじまると共に、流れ出すメロディー。ドラムに追従するウッドベース。そしてキーボードの主旋律が重なる。嬰ハ長調。重なった瞬間、鳩尾を抉られるような感覚に陥る。官能的に動く柊の指先。ピアノとは異なる、彼の、生きた音色。
ロックともジャズとも形容しがたい独特な耳に残る音楽の世界。
レイヴンクロウ。というのが彼らのバンドの名前らしい。確か、ワタリガラスという意味があったような……だから全員黒い格好なのだろう。
三十分弱の演奏を終えて、彼らはステージから姿を消す。わたしの拍手は彼に聞こえただろうか。
「拍手してくれたんだ」
スタッフオンリーと書かれた扉から躊躇いなくでてきた柊を見て、思わず泣きたくなる。くしゃくしゃになりかけの顔を引き締めて、わたしは呟く。
「……礼文でレイヴンなんだ」
「そのとおり」
「見せたかったもの、ってコレ?」
無言で頷く柊。わたしはもう一度、ぱちぱちと彼にだけ拍手を贈る。
「元気でたか」
ぽふ、と彼の手のひらがわたしのあたまにふれる。なぜか、その仕草が色っぽくて、反応に困るわたし。嬉しいような恥ずかしいようなそんな気分。
「うん」
「ジャンルは違えど音楽は音楽だ。お前だってもっといい音出せるだろ。鏑木壮太の娘なんだから」
「……え」
高揚感が一気に薄れる。
鏑木壮太の娘。
確かに、わたしはピアニストの娘だ。だけど、だからってなんでここでそんなこと言うの?
高層ビルから突き落とされるような一言。柊にしてみれば特に意図して口にしたわけじゃないことくらいわかるけど……だけど。
「そんな風に、わたしのこと見てたの?」
柊は、鏑木音鳴としてわたしを見ていなかった……鏑木奏太の娘というレッテルだけ、必要としていた?
「鏑木?」
わたしの押し殺したような低い声に戸惑う柊。なぜ怒っているのか理解できないのだろう。
ステージの上では三番目のバンドが準備をはじめている。まだ夜は長い。
「わたしは」
自分の声すら聞こえなくなる。新しい活発な音楽に、かき消される。遠くなる。
柊が何か言ってる。聞きたくない。聞こえない。聞かない!
背中を向ける。分厚い防音扉を開く。わたしは逃げ出していた。きらきら輝く柊たちを見て、嫉妬していたのかもしれない。自分にはない何かを持っている彼らにしてみれば、わたしなんか単なるピアニストの娘で……考えることを放棄する。夜闇に照らされた商店街に飛び出す。両耳を塞ぐ。そしたらほら。
もう、何も聞こえないから。
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