白昼夢さんはそばに居たい

Raito

第七話:友達として

 ピピッと、体温計の音が鳴る。
 琴音が風邪をひいた。
 恐らく軽いものだろうが、引きこもっててもひくものなんだな。


「三十七度五分か。微熱だね、安静にしてればいいと思うよ」


「うぅ…、お兄ちゃん、頭がくらくらします…」


「大丈夫大丈夫。きっとすぐに良くなるよ」


 僕が琴音の頭を摩ると、安心したように目を瞑った。
 さて、色々準備しないとな。
 鍋と冷えピタ、冷却枕…。


「まだ起きてる?」


「はい、なんですか?」


「冷えピタ、貼っとかないと」


「あ、確かに」


 僕は琴音の額と脇に冷えピタを貼り、冷却枕を敷く。
 脇に貼ることで、結構効果的に熱を覚ますことが出来る…らしい。


「ひんやり気持ちいいです…」


「そっか、なら良かった。とりあえず今は寝てて」


「はい」


 すっと目を再び閉じて、琴音は眠りにつく。
 今日はバイトはなかったのが不幸中の幸いだな。
 すると、インターホンが押される。
 琴音は起きてはいないようだ。
 音でビックリして起こしてしまったら本人に悪い。
 なんて言っても、来客からしたら礼儀に習っただけなんだけどな。
 逆に、インターホンを押さずに入ってきたらそれこそ異常だ。


「はい、奏多です」


『私よ』


「えー、ワタシさんという方でよろしいでしょうか」


『違うわよ、白昼夢!』


 毎回のことながら、白昼さんを軽くからかう。
 普段のお返しだ。


「ちょっと、さっきの何?」


「あ、えーっと、ごめん、ちょっとからかってた」


「素直でよろしい!」


「痛い痛い!こっちがよろしくない!」


 そして、耳を軽くつねられる。
 これは白昼さんの癖だろうか。
 怒った時に頬や耳をつねる。


「で、何しに来たのさ」


「んー、暇つぶしを兼ねて、夏休みの宿題を教えに来た」


 それに加えて、白昼さんは「ついでに琴音ちゃんにも少しばかし勉強を教えに来た」と完全に家庭教師面をしていた。


「自分のはいいの?」


「別に?私頭はそこまで悪くないし」


「自分でそう言うの、結構感じ悪いよ」


「そう?なら自分のことを頭いいと思ってるし、成績もいいのに、『私なんて全然頭悪いよー』なんて言ってくる女子は好きかしら?」


「…正直嫌い」


 だって、その人よりももっと成績が悪い者が居るのだから。
 その人が自分の成績を低くつけることによって、それ以下の者は必然的にもっと評価が低くなる。
 本人にはその気はなくとも、知らず知らずのうちに他者を下に見て、小馬鹿にしているのだ。


「てなワケで、私が教えてあげるわよ」


「あー、前者はともかく、後者は難しいかも」


「なんで?」


「今、琴音は熱を出してるんだよ」


 ピクリと、白昼さんの表情が険しくなる。
 まるで、トラウマを思い出したかのように。


「大丈夫なの!?あの子、おたふく風邪もまだだし!もしかして、今になって…!」


「落ち着いて、白昼さん!ただの微熱だよ」


「そ、そうなの?」


 ほっと胸を撫で下ろし、「よかった…」と口にする。
 僕は、少し引っかかるところがあった。
 が、それはまだ分からない。


 そう、まるで小さな棘が指に刺さって取れないような、そんなもどかしさが、僕の頭を飽和していた。


「なんでそこまで琴音を心配するの?」


「友達が風邪なのよ。心配するわ」


 それは当たり前だろう。
 僕だって、魚住さんや豊岡さん、白澤さんや白昼さんが熱を出したら、心配する。
 でも、彼女のそれは異常だった。
 心配性なだけだといいんだけど。


「とにかく、そんなわけだから。僕だけだね、教えられるとしたら」


「そうね、そうしましょうか。あ、そう言えば…」


 何かを思い出したような仕草をした白昼さん。
 それと同時に、またインターホンが鳴る。


「はい、奏多です」


『と、豊岡ですけど、礼音くんいらっしゃりますか?』


「はい、こちら礼音くんですが」


 少しの沈黙。
 かき消したのはもうひとつの声だった。


『奏多先輩、居るんでしょ?早く開けてよ、暑いよー』


 受話器越しにも、遠くに蝉の声が聞こえてくる。
 一度出たけどかなり暑かった。最高気温更新なんてざらだ。
 七月終盤でこれって、夏本番だとどうなるんだろうな。


 ガチャりとドアを開くと、豊岡さんが何やら赤い顔で地面を見つめていた。
 ちょいちょいと手招きする魚住さん。何だろうか。


「実はね、さっきのでかなりメンタルにきたらしいよ。普段マネージャーとかにしか使わない敬語使って、その相手がまさかの同級生の先輩で」


「そっか」


「聞こえてるわよ!早く入りましょ、魚住さん!冷気が逃げちゃうわよ!」


 辛抱たまらない様子で、豊岡さんが家に入る。その目線は、常に下を向いていた。
 ゴロゴロと喉を鳴らし寄ってきた明石を抱き上げ、ぼふっと顔を埋める。
 こりゃ、かなり恥ずかしかったらしい。


「それより、なんで今日はここに?」


「実はね。二人で白昼さんに勉強を教えて貰いに来たの。奏多先輩と琴音ちゃんも参加するんだよね?白昼さんが直々に誘いに行くって言ってたよ?」


「今日の朝言われた」


「忘れてたんだ…」


「みたいだね」


 はぁ、有難いんだけどさ。
 問題があるとすれば、琴音か。


「実は、琴音が熱になったんだよ。だから、琴音に勉強してもらう訳には…」


「へ…?」


 魚住さんがぽかーんと口を開ける。
 すると、何やら後ろから肩を掴まれ、さらに体を百八十度反転させられた。


「ねぇ!あんた何言ってんの!?琴音ちゃんが熱!?四十度くらいあるの!?あるのよね!?」


「微熱だよ…うぇ…!」


 ブンブンと肩を揺さぶる豊岡さん。
 やばいやばい、ホントに吐きそうだ…。


「ストップ、ストーップ!奏多先輩が吐きそうだよー!」


「うぷ…」


「は、吐くなら他所でやりなさい!」


 豊岡さんが僕を突き飛ばす。
 自分が元凶だと言うのに、この子は…。


 擦り寄ってきたり突き飛ばされたり、本当にこの子は僕にどんな感情を抱いているのだろうか。


「とにかく、白昼さんはもう来てるから、リビング使ってよ。なるべく静かにね」


「うん、分かったよ。奏多先輩」


「しょうがないわね」


 しょうがない…か。
 そうなんだ、しょうがない。
 病人が寝てるんだ。起こす訳にはいかないから。
 きっと、二人は一緒に居たいんだろう。


 図々しいとか、鬱陶しいとか言われないことは分かってるんだ。
 分かってるんだろうけど…。
 溜め込んでしまうから、琴音みたいな性格だと。


 現に自分を常に攻め続けている。
 あの時の、あの出来事の責任を、全て責任転嫁している。
 僕が琴音のそばに居たなら…。


 いつの間にか、僕も自分を攻めていた。
 琴音のそばに居てやりたかった。
 それが、無念で、僕にとっての後悔だった。


「おーい、奏多くん?」


「あ、何?」


「上の空だと、教えないわよ?」


「ごめん…」


 白昼さんは「まぁいいけど…」とすました顔で呟いた。
 まぁいいなら、教えないなんて冗談言わないで欲しい。


「にしても、酷いわね、数B」


「ほっといてよ、ベクトルと数列は難しいんだよ…」


「じゃ、私が教えてあげる。まずはここからね」


 白昼さんが大問を指さす。
『三角形oabについて、oaを2:1、obを3:2に内分する点をそれぞれ…』
 うへぇ、頭クラクラしてきた…。


「あー、喉渇かない?ちょっとお茶入れてくる…」


「逃げないの。このまんまだと一生わからないわよ?悪い癖なんだから」


「ご、ごめん…」


 ピシャリと白昼さんが言い放つ。
 他のふたりは白昼さんに教えて貰った方法で各々苦手教科克服に励んでいるようだ。
 課題を通してだけれども。


「ここは簡単よ。点cはoaを2:1に内分する点だから…あとは分かるわよね?」


「3分の2ベクトルoaってわけか…」


「そう。ならodも求められるわよね?」


 驚くほど、解はすんなり出た。
 凄いな、こんなに簡単だったのか。


「うん。でも問題はここからだよ…」


「そうね、ここから難易度は上がるわよ。着いてきなさい」


「が、頑張るよ…」


「ここは公式を使うのよ。よく覚えてなさい。(1-x)ベクトルoa+ベクトルobよ。メモなりなんなりしておくといいわよ」


(1-x)ベクトルoa+ベクトルob…か。
 頭が痛くなりそうだ。
 でも、覚えないと解けるはずがない。
 何とかして解けるようにしないと!


「このoa、obの部分はもう出したわよね?」


「えーっと、どこ?」


「この場合のoa、obは前の問で出したoc、odのこと」


「…なんで?」


「なんでって、それはね?」


 それから結構な時間が経った。
 僕は、白昼さんに数Bのいろはを叩き込まれた。
 もちろん、他二人も教えて貰っていたけれど、一番僕が教えられていた気がする。
 そこまで酷かったのかな?いや、自分でも気がついてたけど…。


「さて、そろそろ昼食だね。みんなはここで食べる?それとも家で食べる?」


「ご馳走になってもいいかな?先輩。私の家遠いし…」


「私はいちいち金使うの嫌だからここで食べるわよ」


「私はまぁ、何となく今日はここで食べたい気分だからここで食べるわ」


 うん、後者二人はまったく理にかなってないけど、まぁいいか。


「夏カレーでいい?嫌なら他のも作れるけど」


「あ、それでいいよ。こっちはご馳走してもらう身なんだし」


「しょうがないわね、私もそれでいいわ」


「お手並み拝見といこうじゃないの」


 何故後者二人は上から目線なのか。
 そんなことも気にせず、僕は料理を始めた。
 後で粥も作らないとな、琴音の分。


 にゃーんと、甘えた声を上げる明石。
 ご飯が欲しいらしい。お前、勉強してる間は大人しくしてて偉いな。
 わしゃわしゃと撫でてやると、目を細めて、とても気持ち良さそうな顔をした。


 すると、冷蔵庫の開く音がした。
 振り返ると、そこにはお茶を持つ白昼さんの姿が。


「喉が渇いちゃって」


「そっか。ご自由にどうぞ」


「ありがと」


 とくとくと、お茶が注がれる音と、野菜を切る音が混ざり合う。
 そのせいか、僕はもうひとつの音に気が付かなかった。


 数分後、カレーを持っていくと一人、席にいないことに気がついた。


「あれ?魚住さんは?」


「あぁ、御手洗に行ったわよ…?」


 何やら目を逸らして答える豊岡さん。
 怪しい、すごく怪しい。
 何か、この子から嘘の匂いがプンプンする。


「白昼さん、ほんとに?」


「そんなことより、ほら!昨日のドラマ見た!?」


 やけにハイテンションで話題をすり替えてくる白昼さん。
 この二人、嘘つくの下手くそだな。
 まぁ、一応トイレに行ってみるか。


 僕は、一瞬でこの場に魚住さんが居ないことを悟った。
 何せ、電気がついてないんだから。


 コンコンとノックしても返事がない。
 分かってたけどさ。
 でも、なら一体どこに…?


「まさか…ね」


 分かってしまったかもしれない。
 いや、もう分かった。
 そもそも、僕の部屋のドアは開けていて、誰もいないことはもう確認済みだ。
 靴もまだある。
 となれば…。


 ガチャりと琴音の部屋のドアを開く。
 そこには、やはりというかなんというか、魚住さんが座っていた。


「何やってんの、風邪が移ったらまずいでしょ」


「奏多先輩…!?これは…」


「確かに、心配なのは分かるけどさ」


 魚住さんはあたふたして、「いや、あの、その…」としどろもどろに口に出していた。
 その後ろから、琴音が顔を覗かせる。


「お兄ちゃん、魚住さんを叱らないであげてください。私の冷えピタ、貼り替えてくれたんです」


「だって、先輩、一回も琴音ちゃんの部屋にいかなかったんだもん、私の前で。だから、きっともうぬるくなってるだろうなって…、ほら、熱が出たら冷えピタって、相場が決まってるでしょ?」


「それもそうか…。ごめん、琴音。気が回らなくって」


 琴音は、「謝らなくてもいいですよ」と言って笑った。
 それを見て、魚住さんも笑う。


「魚住さん、もうカレー出来てるから、食べてていいよ」


「あ、うん。分かった。じゃあね、琴音ちゃん」


「はい!」


 魚住さんは手を振り、この場を去っていく。
 僕は、机にあった体温計を手に取り、琴音の冷えピタをしていない脇に挟んだ。
 熱を測れるように、片方は貼っていないのだ。


「三十六度八分…なかなか下がってきたね」


「明日には、元気になれるでしょうか?」


「きっとね。その為にも、ゆっくり休んでなよ」


「分かりました!」


 うん、すっかり元気は取り戻したようだ。
 でも、安心はできない。ぶり返すこともあるからな。


 僕は、部屋を出て、ご飯をかき込んだあと、お粥を作り始めた。
 米の倍ほどの水を入れて、沸騰させる。
 あとは簡単。弱火にしてかき混ぜた後、待つだけだ。
 だいたい四十分くらいか。


「お粥には、ネギを入れたらいいわよ」


「そうなの?」


「色々良くなるんだって。疲労回復にもなるってさ」


 豊岡さんがスマホの画面をこちらにむける。
 うん、確かにそんな記事が映し出されていた。


「分かった、ありがとう。教えてくれて」


「お易い御用よ」


 豊岡さんは「早く元気になってもらいたいし」と付け足した。
 この子は、本当に琴音のことが好きなんだな。


 十分ほど経ったお粥に、ネギを切って投入する。
 これで、元気になるといいけど…。


「琴音、入るよ?」


「はい、どうぞー」


 ドアを開くと、琴音がふにゃっと笑って出迎えた。
 まるで、五歳くらいの女の子が笑ったような、幼い笑顔で。


「これ、食べれる?」


「はい、食べれます!」


 琴音は自分で体を起こして、お粥を口に運んだ。
 なんとも美味しそうな顔をした後、ぱくぱくと次々に潰された米を食べていく。


「美味しーです!」


「そっか、良かった」


 すると、後ろからドアが開かれる音がした。
 そこには、三人がやって来ていた。


「大丈夫なの?琴音ちゃん」


「あぁ、皆さん!大丈夫ですよ」


「夏バテかしらね?ちゃんと安静にしておきなさいよ?」


「はい!ゆっくり寝てます!」


「そう、ならいいんだけど…」


 三人が心配そうに琴音を見つめる。
 ん?何やら、豊岡さんと白昼さんがリュックサックを背負っている。


「もう帰るの?」


「うん、レッスンが夕方からあるの。暇なあんたとは違うのよ」


「私は少し用事がね」


 暇って…。
 僕だってバイトとかやってるんだけどな。
 でもまぁ、今をときめく人気アイドルに比べたら、暇かもだけどさ。


「そっか、じゃあね、二人とも」


「えぇ、またね、琴音ちゃん」


「元気になったら、また勉強教えてあげるわよ」


「はい、さようなら!」


 ニコッと笑って、琴音が手を振る。
 さて、残ったのは魚住さん…か。


「じゃ、ごゆっくりね」


「はい、くつろぎます」


 お粥の入っていた器を置いて、コテっと横になる。
 明石は琴音の体の上に乗っかり、丸まる。
 風邪をひく…ことは無いか。


 リビングに掛けてある時計を見る。
 ちょうど、三時半を指していた。
 結構時間たったな。恐るべし、白昼教室。


「先輩、ちょっと話していい?」


「うん、なに?」


「少し、家庭のこと」


「僕はカウンセラーでもなんでもないよ」


「そんな奏多先輩だから、相談しようって思ったの」


 その理論がまずわからない。
 だが、魚住さんの目は真剣だ。
 真っ直ぐに、揺るぎない瞳で、こちらを見つめる。
 その目に僕は、吸い込まれるように見入ってしまった。


「実はさ、私、兄妹がいるんだ。兄と妹が、一人ずつ」


「三人兄妹の真ん中の子は辛いってやつ?」


「そう、まさにそれ!」


 確かにそうだろうな。
 長男は一人っ子である時に愛を注がれ、末っ子は現在進行形で可愛がられる。
 でも、真ん中の子は末っ子が産まれるまでの間しか甘やかされない…。
 なんてことはよくある事なんだろう。よく分からないけれど。


「兄は名門大学に入学したの。妹は学年トップの成績。でも、私は…」


「別に悪くないと思うけどね」


 前に、「全教科七十点以上」と言っていた気がする。


「お母さんは、『お兄ちゃんならもっと高い点をとる!』って、毎回言うんだ。どんなに高い点をとっても、どんなに頑張っても、褒めてくれたためしなんて…一度もない」


 その時魚住さんは、歯を噛み締めたりも、眉を寄せたりもしなかった。
 ただ、俯いて、物悲しげな目をしていたんだ。


 この子の願いはひとつなんだろう。
 ただ…。


「だからさ、私、一度でもいい。お母さんに褒めてもらいたい」


「勉強会に参加したのも…」


「少しでも、学力をあげるため」


 前に聞いた。この子は塾には通っていない。
 きっと、親に受講料を払ってもらうのが申し訳ないと思ってるんだろう。
 その心がけはいい。いいんだけれど…。
 魚住さんが、死ぬほど頑張ったとて、多分その望みが実ることは無いんだと思う。


 だって、魚住さんの兄さんと魚住さんじゃ、学校の偏差値も違うだろう。
 受けたテストも違うんだから。
 学力調査テストだって、毎年同じ問題が出るとは限らない。


 そもそも、ハードルが高すぎるんだ。
 きっと、魚住さんのお母さんは「長男が基準」としか考えてないんだろう。
 多方、その人もいい学校の出なんだろうな。
 床屋でいい大学…か。
 多芸なことだな、ほんと。


 それが、自分の娘を傷つけているとも知らずに。


「魚住さんさ…、なんでそんなに母さんに褒めてもらいたいの?」


「お父さんは褒めて貰えるような性格じゃないし、お兄ちゃんは東京。妹に褒められてもなんか釈然としないし…」


「それで消去法でお母さん…か。友達とか、先生とかは?」


「悪くない…としか先生は言わないし、白澤さんは私より断然頭いいし…」


 ここで友達が少ないのが仇となったか。
 僕の言えたことじゃないけど。


「だから、琴音ちゃんの髪型見て、『似合ってる』って、言って貰ってたところ見て、嬉しかった。それと同時に…」


 魚住さんは、物悲しげな目をしたまま、口角だけを無理やり上げたように、ぎこちなく笑った。


「羨ましかったんだ…褒めてもらってる、琴音ちゃんが」


 僕は言葉を失った。
 なんと声をかければいいか、分からない。
 慰めの言葉?それとも…。
 頭をグルグルと文字の羅列が回転する。


「あのさ…」


「なに?」


「僕にもなんて言えばいいか分からない。でもさ、僕は、少なくとも君のいいところを知ってる」


 少し驚いたように、「へ…?」と声を上げる。
 僕は、羅列から文字を抜き出して、再構成する。


「頭もいいし、友達思い。髪も切れるし、顔も整ってる。性格だって、とってもいい」


「先輩…?」


「誰も教えてくれないのなら、僕が教えてあげる。友達として、君のいいところ」


 そう、この子は…。
 誰でもよかったのかもしれない。
 ただ、褒めてもらいたかったんだ。
「頑張ったね」って、労いの言葉をかけてもらいたかった。
 それだけだったんだ。


「本当…?」


「うん、嘘なんかじゃない」


「私にも…いいところはあるの?」


「当たり前でしょ」


 何も言わず、すこし顔を俯けた魚住さん。
 必死に声を殺しているが、肩が微妙にヒクヒクと揺れている。
 もしかして、泣いてる…?


「ご、ごめん!知ったような口で、こんなこと言っちゃって!そうだよね、自分の家族に褒めてもらうのと僕とじゃまったく嬉しさが違うよね!」


「いいの…ただ…嬉しいんだよ…。一回も、褒められたこと無かったから…」


 すると、魚住さんがおもむろに椅子から立ち上がり、僕の方に駆け寄ってきた。
 その勢いで、僕の膝に頭を載せる。


「魚住さん…?」


「ちょっとこのままにしておいて…」


「わかった…」


 僕は、載せられた頭を見つめた。
 もふもふして、なんか明石みたいだ。
 普段、明石を撫でるように、魚住さんの頭を撫でてみる。
 すると、ぴくりと肩を震わせた。


「ごめん、やっぱり気に触った…?」


「別に…いい…」


 そう言った瞬間、涙がズボン越しにも分かるほどに流れ出てきた。
 辛抱たまらないように、目から次々と溢れ出てくる。
 まるで、栓を切られたダムのように。


「うぐぅ…ひぐっ…」


「大丈夫。誰も君を笑わない。泣きたいのなら泣けばいいよ。強がる必要は無いんだから」


「う、うわぁぁぁぁん!」


 周りの目も気にせず、魚住さんは大声でなきじゃくる。
 一回も褒められたことない…なんてことはないんだろうけれど、本人のためになったのなら、嬉しい限りだ。


「頑張ったの…私頑張ったんだよ…!なのに…なのに…」


「その頑張り、僕は知ってる。この勉強会に来たのだって、豊岡さんも白昼さんも、琴音も、もちろん僕だって知ってる。疲れたんだったら、休めばいい。ゆっくり、少しずつ、前に進もう。何も、君は兎になる必要は無いだろう?亀でもいい。その小さな努力が、実を結ぶ時だってきっとあるから」


「奏多先輩…」


 ムギュっと、僕のズボンを掴む魚住さん。
 その手は、とても暖かい。
 直に触れているようだ。


 何も言わず、そこから一分がたった。


「もう、大丈夫。吹っ切れた!」


「そう?」


「うん、ありがと、先輩。私、先輩のこと…」


 そう言うと、兎のように晴れた目で、こちらを見つめ、笑ってみせた。
 僕から離れた位置で、ドアノブに手をかける。
 そして、僕は次の瞬間、思いもよらない言葉を聞かされる。


「好きだよ!」


 バタンっとドアが閉まり、魚住さんが家から出ていく。
 ぽかーんとしたまま、僕はこの身に起きたことを受け入れられないでいた。
 数分後、部屋から琴音が出てくる。


「あのー、お兄ちゃん、どうしました?」


 子供ペンギンが、こちらを不思議そうに見つめる。
 さぞかし、僕は滑稽な顔をしているんだろう。
 でも、何故かこの表情から変えることが出来ない。


「あのさ、頬を抓ってくれない?」


「あ、はい」


 痛い…ってことは、夢じゃない!?
 つまり、つまりこれは…!


「告白…されたんだ、僕」


「えっ!?」


 琴音は、心底驚いたような顔をした。


「お、お返事は…?」


「まだ出来てない…」


「お相手は?」


「魚住さん…」


 ただただ淡々と質問に答える。
 いや、まずどうして僕が告白される?
 そこからだ。僕はただ、魚住さんのいい所を教えてあげただけなのに…。


「好きって、もしかしたら友達としてかも…」


「そうなんですか?確かに、お兄ちゃんがかっこよくて魅力的でとっても頼りになるのは分かりますけど…」


「そこまでできた兄じゃないよ」


「またまたー、ご謙遜をー」


 完全に「琴音フィルター」がかかってるな。
 いや、今はそれどころじゃない。


「また今度…聞いてみるか」


「んー、いっその事お兄ちゃんの方から告白してしまえばいいんじゃ?」


「そんな簡単にしていいものじゃないでしょ…」


 でも、恐らく魚住さんは僕に好印象を持っているんだろう。
 そんな相手から告白されたら…?


 望みはあるんじゃないか?


 何変な妄想してるんだ、僕!






 私は、墓地に来ていた。
 ここに眠っているのは、私が一番よく知っている人。
 そう断言出来る。


「いつから、こんなに暑くなったのかしらね、日本は」


 少なくとも、数年前まではこうじゃなかった。
 地球温暖化…かな。
 わしゃわしゃと蝉の声が、私の鼓膜をふるわせる。


 ここら一帯も変わっちゃったな。
 あの子達も…変わっちゃったけど。
 いつか、私の事なんて忘れちゃうんだろうな。


 それが、あの子達にとっての幸せなのかもしれない。
 そう思った瞬間、少し悲しい気分になった。


 誰にも言われたわけじゃないのに、自分で思っただけなのに、何故ここまで苦しくなるんだろう。
 胸の奥がキュっとなり、嗚咽を漏らす。


「分かってるでしょ、自分があの子達を傷つけているの」


 自分に言い聞かせながら、私は癪に水を救って、墓石にかけた。

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