どうにもならない社長の秘密

白亜凛

第三章 そんな偶然ならいらない 9

 その後は心を無にすることに努め、席を立った。

「じゃ、課長。私は帰りますね」
「そうか。じゃあ明日な」
「はい」

 今日は、とりあえず面接だけで、正式には明日からということになっている。
 副社長のはからいで、既に用意してあるという席に案内してもらっただけだった。


「――はぁ」

 まだ明るい外に出ると、紫織は五階の社長室を見上げてキッと睨む。

 窓にはブラインドが下りている。
 なので彼の姿が見えるわけではないが、それでも腹の虫が収まらず、思い切りアッカンベーと舌をだした。更には花壇をガッと蹴ると、逆にジンジンと足が痛みだした。
「痛っ」

 悔しさのあまり涙が出そうになって、また社長室を見上げたが、その怒りの気持ちさえブラインドに弾かれているような気がして、紫織は唇を噛んだ。

 これでは負け犬の遠吠えではないか……。


 ――どうしてあんなにヒドイことが言えるのだろう?

 あの頃。自分の心にあったものは、宗一郎への愛情だけだった。
 彼が隣にいてくれればそれだけで幸せで、彼との未来しか見えなかったし、他の未来なんて考えたこともなかった。

 世間知らずで、何も知らない紫織にとって、彼は世界そのものだった。
 大学を卒業して小さなIT企業に就職した彼がプロポーズしてくれてうれしくて、両親に報告して。

 ――それで。

『私、お金のない人とは結婚できないの。わかるでしょ? 百年続く呉服屋の一人娘なのよ、私は』

 あんな風に宗一郎を変えてしまったのは……。私なんだ。

私が。

 ――私が悪いんだ。

 彼を責める権利なんて、私にはない。


『紫織? 本気で言ってるのか? 俺じゃダメだって、お前は本気で……』

 本心を見抜かれたくなくて、目を逸らした。

 それでも涙は流さなかった。

 わかったよと席を立った彼の後ろ姿を見ることも出来ず、あの日もこんなふうに、空っぽになった心を抱えて、人形のように歩いた。

 止まった時間の中を、ただ歩いて……。

 ポツリと顔が濡れ、空を見上げると、いつの間にか厚い雲が覆っている。

 ――そういえば、あの時も。
 こんなふうに雨が降り出したっけ。

 どんな風に歩いて、どうやって着いたのかもわからない。
 追い打ちをかけるように降り出した雨が、追いかけるように絶望を呼んだんだ。

 この雨と一緒に、そのまま溶けて流てしまえたら。

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