【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。
奇跡と奇跡の起こる家 8
目が覚めると、窓からの日の入り方でもう夕刻に差しかかる時間になっているのがわかった。
 (体、いたい…)
下にしていた左半身が鈍く痛む。あずみはのろのろと体を起こしてスマホで時間を確認し、立ち上がった。
もうすぐ晩ごはんの時間だけれど、どうしたら良いのだろう。彼の分も自分が作って大丈夫だろうか。
『部屋着、ルームウェア』と書かれた段ボールからジーンズを取り出して足を通し、案の定しわになってしまったスカートを吊るす。
キッチンへ行こうと襖を開けると、そこは廊下ではなく書斎だった。寝起きの頭で開けるところを間違えてしまったようだ。
通り過ぎて廊下に行こうとして、立ち止まる。どんな本があるのか見ておきたいとふいに思った。
壁の本棚には、郷土史や民俗学、地質学などの本が並べられている。
どれもあずみがこれまでに接してこなかった分野のもので、背表紙の渋い箔押しのデザインが本好きの心にぐっと刺さるような、興味をそそる本ばかりだった。そのうち余裕が出来たら借りて読んでみたい。
中には貴重な本もあるかもしれないから、彼に聞いてからの方が良いだろうな、と考えつつ他の棚も見ていると、一般文芸の本が並べられた一角があって、見覚えのあるタイトルが目に入る。
彼と仲良くなるきっかけになった、SF小説だった。懐かしさがこみあげて、思わず手に取ってしまう。
禍々しい食肉植物を想起させる表紙を見ると、記憶の底に沈めていた彼との思い出が、堰をきったように溢れた。
初めて一緒に帰ったとき、秋の冷えた空気の中に金木犀の香りがしたこと。
寒波で雪が降ってすごく寒くなった冬の日の朝に、初めてキスをしたこと。
(なんか…いろいろ思い出しちゃった)
自分は彼のことがまだ好きなのだろうか。よくわからない、とあずみは思った。顔を合わせて気づきはしたものの、「和玖くん」と彼では容姿もそれなりに違うし、10年という短くはない月日が経って、彼がどんな人間になっているのかも自分は知らない。
あずみはため息をついた。寝ていたせいか、ひどく喉が渇いている。磨き抜かれた縁側を歩いてキッチンへ向かった。人の気配はない。彼は自分の部屋にいるのだろうか。
夕方になりかけの、薄黄色の光が窓から差し込んでいる。この時間になっても元気な蝉の声が聞こえた。窓の外にはやや雑草の多い畑があって、その周りをモンシロチョウらしい蝶が二匹、じゃれ合うようにひらひら飛んでいるのが見えた。
あずみは少しの間その光景に見とれた後、ひどく心細い気持ちになった。まるで出口のない夢の中にいるみたいな。
あわてて、部屋の中を見渡した。何も置かれていない、四人掛けのダイニングテーブル。作り付けの食器棚。タイル張りのキッチン。吊り棚に置かれた、白地に椿の花が描かれたホーロー鍋。壁際に吊るされた鉄のフライパン。
さっき彼が見せてくれたものたち。
頭の中で彼の声を思い出すと、妙に安心した。ここは現実の世界だ。私は夢の中に迷い込んでなどいない。
もしかして自分は熱中症になりかけているのではないかという気持ちになった。飲み物をもらおうと考え、入っているものも含めて自由に使って欲しいと言われた冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの麦茶を取り出し、水切りかごにあったグラスに注ぐと、一気に飲み干した。頭がシャキッとする。
 (何か作るにしても、食材とかどうしたらいいのかな)
真新しいフレンチドアの冷蔵庫は、おばあさんがいなくなってから一度整理されたのかほとんど中身が入っていなかった。麦茶、ミネラルウォーター、白いホーローの容器に入った味噌らしきもの、未開封のバター、あずみの買ってきた手みやげしかない。
毎日の食事はどうしているんだろう。
近くに商店があったはずなので、そこで買い出しして、今日は豪勢なメニューにしようとあずみは考えた。
財布とスマホをエコバッグに突っ込み、「靴、ブーツ」と書いてある箱から少しくたびれてきたスタンスミスの白いスニーカーを持って玄関に向かう。
三和土にあるのは、東京から履いてきた自分のサンダルだけだった。
スニーカーを履いて玄関の引き戸に手をかけると、いきなりすりガラスの向こうに背の高い人影が映って、勢いよく戸が開けられた。
入ってきた彼と、鉢合わせた格好になる。思いのほか近い距離に体があって、柔軟剤と汗の混ざった香りがした。
胸がきゅうっとする。体が覚えていた、昔と同じ「和玖君のにおい」だった。
やっぱり私は10年という月日が経っても、今でも、彼のことが好きだ。
泣きそうな気持ちになって見上げると、彼もあずみのことを見ていた。
視線が絡み合う。
 (体、いたい…)
下にしていた左半身が鈍く痛む。あずみはのろのろと体を起こしてスマホで時間を確認し、立ち上がった。
もうすぐ晩ごはんの時間だけれど、どうしたら良いのだろう。彼の分も自分が作って大丈夫だろうか。
『部屋着、ルームウェア』と書かれた段ボールからジーンズを取り出して足を通し、案の定しわになってしまったスカートを吊るす。
キッチンへ行こうと襖を開けると、そこは廊下ではなく書斎だった。寝起きの頭で開けるところを間違えてしまったようだ。
通り過ぎて廊下に行こうとして、立ち止まる。どんな本があるのか見ておきたいとふいに思った。
壁の本棚には、郷土史や民俗学、地質学などの本が並べられている。
どれもあずみがこれまでに接してこなかった分野のもので、背表紙の渋い箔押しのデザインが本好きの心にぐっと刺さるような、興味をそそる本ばかりだった。そのうち余裕が出来たら借りて読んでみたい。
中には貴重な本もあるかもしれないから、彼に聞いてからの方が良いだろうな、と考えつつ他の棚も見ていると、一般文芸の本が並べられた一角があって、見覚えのあるタイトルが目に入る。
彼と仲良くなるきっかけになった、SF小説だった。懐かしさがこみあげて、思わず手に取ってしまう。
禍々しい食肉植物を想起させる表紙を見ると、記憶の底に沈めていた彼との思い出が、堰をきったように溢れた。
初めて一緒に帰ったとき、秋の冷えた空気の中に金木犀の香りがしたこと。
寒波で雪が降ってすごく寒くなった冬の日の朝に、初めてキスをしたこと。
(なんか…いろいろ思い出しちゃった)
自分は彼のことがまだ好きなのだろうか。よくわからない、とあずみは思った。顔を合わせて気づきはしたものの、「和玖くん」と彼では容姿もそれなりに違うし、10年という短くはない月日が経って、彼がどんな人間になっているのかも自分は知らない。
あずみはため息をついた。寝ていたせいか、ひどく喉が渇いている。磨き抜かれた縁側を歩いてキッチンへ向かった。人の気配はない。彼は自分の部屋にいるのだろうか。
夕方になりかけの、薄黄色の光が窓から差し込んでいる。この時間になっても元気な蝉の声が聞こえた。窓の外にはやや雑草の多い畑があって、その周りをモンシロチョウらしい蝶が二匹、じゃれ合うようにひらひら飛んでいるのが見えた。
あずみは少しの間その光景に見とれた後、ひどく心細い気持ちになった。まるで出口のない夢の中にいるみたいな。
あわてて、部屋の中を見渡した。何も置かれていない、四人掛けのダイニングテーブル。作り付けの食器棚。タイル張りのキッチン。吊り棚に置かれた、白地に椿の花が描かれたホーロー鍋。壁際に吊るされた鉄のフライパン。
さっき彼が見せてくれたものたち。
頭の中で彼の声を思い出すと、妙に安心した。ここは現実の世界だ。私は夢の中に迷い込んでなどいない。
もしかして自分は熱中症になりかけているのではないかという気持ちになった。飲み物をもらおうと考え、入っているものも含めて自由に使って欲しいと言われた冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの麦茶を取り出し、水切りかごにあったグラスに注ぐと、一気に飲み干した。頭がシャキッとする。
 (何か作るにしても、食材とかどうしたらいいのかな)
真新しいフレンチドアの冷蔵庫は、おばあさんがいなくなってから一度整理されたのかほとんど中身が入っていなかった。麦茶、ミネラルウォーター、白いホーローの容器に入った味噌らしきもの、未開封のバター、あずみの買ってきた手みやげしかない。
毎日の食事はどうしているんだろう。
近くに商店があったはずなので、そこで買い出しして、今日は豪勢なメニューにしようとあずみは考えた。
財布とスマホをエコバッグに突っ込み、「靴、ブーツ」と書いてある箱から少しくたびれてきたスタンスミスの白いスニーカーを持って玄関に向かう。
三和土にあるのは、東京から履いてきた自分のサンダルだけだった。
スニーカーを履いて玄関の引き戸に手をかけると、いきなりすりガラスの向こうに背の高い人影が映って、勢いよく戸が開けられた。
入ってきた彼と、鉢合わせた格好になる。思いのほか近い距離に体があって、柔軟剤と汗の混ざった香りがした。
胸がきゅうっとする。体が覚えていた、昔と同じ「和玖君のにおい」だった。
やっぱり私は10年という月日が経っても、今でも、彼のことが好きだ。
泣きそうな気持ちになって見上げると、彼もあずみのことを見ていた。
視線が絡み合う。
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