【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。

梅川いろは

奇跡と奇跡の起こる家 4

 そんな出会いがあってから二週間と少し。あずみは早く新しい生活をスタートさせたくて、前職の引継ぎを文句の付け所のない(あくまであずみの主観だが、おそらくは)完ぺきなマニュアルを作成することで、早々に終わらせた。

 退職が決まった当初はとにかくきちんと引継ぎをしなければ、と肩に力が入っていたけれど、今ではわからないことがあれば電話やメールで聞いてくれたらいいと気楽に考えている。

 そもそも先輩や上長がいるのだし、入社して10年も経っていないような平社員がそこまで気負うのがむしろおこがましかった気がしていた。

 あずみは背筋を伸ばし、「和玖わく」の表札の下にあるカメラ付きのインターフォンを、やや緊張しながら押す。機械の中で電子音が小さく響いた。

『はい』

 男の人だ。

 内心動揺したけれど、そこはあずみも社会人なので、定型どおりの言葉が自然と口から出た。

「あの、今日からお世話になる篠原です」

『…開いてますから、お入りください』

「はい。失礼します…」

(緊張する…!)

 あずみは心臓をバクバクさせながらキャリーケースを持ち上げ、玄関の扉を開けた。小さな石の埋め込まれた立派な三和土たたきに傷がついては申し訳ないので、転がすのはやめておこうと思ったのだ。

 玄関に入った瞬間奥から涼しい風が吹いて、あずみはため息をついた。

「ごめんください」

 奥に声をかけると、静かな足音がこちらに向かってきた。

 姿を現したのは、あずみとそう歳が変わらないように見える背の高い男の人だった。おばあさんの知り合いだろうか。親戚の人とか?

 顔が判別出来る距離まで彼が近づいて目が合った時、あずみは息をのんだ。

 するどい閃光のように脳裏を走った感覚としか、言いようのないもの。

 もちろん、姿はあの時のままではない。でも、私はこの人を知っている。忘れてしまったと無理やり自分に思い込ませていた。

 切れ長の瞳から目が離せない。少しの間見つめ合って、先に目をらしたのは彼の方だった。

 この視線の外し方も、知っている。間違いなく彼は、中学時代にあずみと付き合っていた和玖創太郎だった。

 なにかを言いたかったのに、口をついて出たのは、あずみの感情とは関係のない言葉だった。

「…篠原と申します。今日からこちらにお世話になるんですが、あの、おばあ様はどちらにいらっしゃいますか」

                                       
 ふたたび、目が合う。感情の読めない顔で、彼が答えた。

「…祖母はいません。街中の高齢者住宅に入ることが決まりまして」

「…え?あ、そうなんですか…?」

「はい」

 あずみは困惑した。体調を崩して、などではなくて良かったと思うけれど、この状況でおばあさんがいなかったら自分はどうしたらいいのだろう。

 どういう偶然なのか、10年ぶりに再会した彼を前にして、咄嗟とっさに事務的な態度を取ってしまい、この後どうしたら良いのか皆目見当かいもくけんとうもつかなかった。

 祖母ということは、彼はあの品の良いおばあさんの孫だということになる。

(同居の孫って、女の人じゃなくて、よりにもよって和玖君なの?そんな偶然、ある??)

 ありえない状況に直面して、脳の処理能力が低下している。

「あの、今日からお世話になります。よろしくお願いします」

(あああ。また事務的なことを言ってしまった…お世話になりますって、言うのこれで三回目だし。ていうか、本当に一緒に住むの?)

 すさまじい後悔と、困惑の入り混じった感情があずみの胸に押し寄せた。彼との間に遺恨いこんがないと言えば嘘になるけれど、せっかくご縁があって再会を果たしたのだから、『久しぶりだね、元気だった?』と声をかけるのがおそらくは常識的な反応なのに。

 過去に口を聞いてもらえなくなって別れたという気まずさを、まだ自分は引きずっているのかもしれない。

 それでも、もう改めて部屋を探す時間はなかった。なにしろ明後日が入社日なのだ。何も考えずにここに住まわせてもらうしかないのだろうか。

「これ、お土産です。すみません、生ものなので冷蔵庫に入れていただけたら」

 戸惑いと困惑ばかりの心の内とは裏腹に、あずみは仕事用の笑顔をつくり、買ってきたチョコレートケーキを彼に手渡した。

 創太郎はハッとした顔になって手みやげを受け取ると、口を開いた。

「…玄関で長く待たせてしまって申し訳ありません、どうぞ上がってください」

 ほんの少しだけ焦った様子で言う彼を少しの間見つめた後、あずみはサンダルを脱いでそろえた。緊張しながらバッグから取り出した薄手の靴下をはいてスリッパを借り、彼の後を追った。





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