【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。

梅川いろは

3章 奇跡と奇跡の起こる家 1 

 6月初旬。

 不動産会社の営業マンが運転する車に揺られて、あずみは窓の外を通り過ぎるのどかな景色をぼうっと眺めた。

 中学からの友人に「それ、なかなかのブラック企業だよね。大手なのに」と言われる会社で、課長代理のご機嫌をうかがいつつタイミングをはかりつつ、同僚に根回しに根回しを重ねてスケジュールをこじ開け、有給をもぎとって、今日は引っ越し先を探しに来たのだ。

 賃貸契約の書類のやり取りや、引っ越しの準備期間などを考えると、なんとしても今日一日で家を決めなければならない。

 東京から新幹線と電車を乗り継いで2時間くらい。この県の中核市に本社を置くとある会社に、オンライン面接を経て転職が決まったのは先月のことだ。

 それなのに。

「うーん、やっぱりタイミングがねぇ、悪かったかもですね」

 高橋と名乗る、60代半ばくらいの人の好さそうな営業マンが、いかにも弱り切った声でぼやいた。

「今向かってるのはさっき資料をお渡しした、家賃2万管理費込みで築55年、風呂トイレ共同のコーポ日暮ひぐらしっていうところですけど、お客さんみたいな若いお嬢さんはあまり好きじゃないと思うんだよなぁ。いまどき水洗トイレじゃないみたいだし…駅とか繁華街に近くて便利っちゃ便利だけどねぇ」

「でもとりあえず見せていただければ…意外と気に入るかもしれないですし」

 口ではそう言いつつ、あずみは不安な気持ちしかなかった。

 この一帯は駅近くの商業地域を除けば、畑や水田、森林の多いかなりのんびりしたところだが、繁華街の近くはやはり治安が悪いイメージがある。

 それに、古い共同住宅の錠は旧式のものが多くピッキングが容易なため、お金を持ってそうな家よりもよほど空き巣に狙われやすいと聞いたこともある。

 近隣の住人の質についても気になるところだった。闇金融についてえがいたアングラ漫画の登場人物みたいな人が住んでいたら怖すぎる。

「他の駅のところも似たようなもんだしなぁ。あとは役所の近くから車で通うかだよね…でも今は良くても冬はしょっちゅう大雪で、電車も道路も止まるしねぇ」

「通勤が大変なのはちょっと…車もないですし」

「やっぱ車は必要かもね。車があるっていう前提ならまだ他にも案内出来たんだけども、まぁそんなことを言っても仕方ないよね」

 高橋氏が言い終えるのとほぼ同時に、携帯電話の着信を知らせる電子音が鳴り響いた。

「ちょっと停まって話してもいいかい?」

「あ、どうぞ。かまいません」

 高橋氏は路肩に車を停止させ、胸ポケットからガラケータイプの携帯を取り出して、元気いっぱいに通話を始めた。

「もしもし!あ~、お世話になってます!その節はどうも…いや~!こちらこそお礼を言わねばなんないでしょう!」

 相手は親しい人だったのか、わははは!とあまりにも豪快に笑うものだから、あずみももらい笑いをしてしまう。この年代の男性特有のデリカシーのなさはほんのりと感じるものの、高橋氏は見た目どおり情に厚そうな人だった。

 今から20分少し前、閑散とした駅前のロータリーで、今にも泣き出しそうな曇天どんてんの下、取り残されたような気持ちになっていたあずみを迎えに来たのが、この高橋氏だ。

 ドアを開けてもらってあずみが「よろしくお願いします」と後部座席に乗り込むと、彼は挨拶もそこそこに車を発車させ、開口一番に言い放ったのが『いや~、今このへん、全然部屋がないんです。参った!』だった。

 戸惑いつつ「あ、そうなんですか」と調子を合わせて聞いたところによると、市で一番大きい建設会社が東南アジアからの労働研修生を多数受け入れることになり、ただでさえ少ない駅近の物件の空室は、単身者向けのものからファミリー向けの借家までほぼすべて借り上げられてしまったらしい。

 本当に、なんというタイミングの悪さだろう。というより、通勤圏内であれば多少不便でものんびりしたところで暮らしたいなどと考えたこと自体が早計だったのだろうか。

 高橋氏が通話を終え、車が走り出す。

 小さくため息をつきながらフロントガラスに目を向けると、青々とした竹林沿いの歩道をおばあさんが歩いているのが見えた。

 散歩だろうか。なぜだかあずみはおばあさんから目が離せなかった。

「あっ、奥さん」

 不意に高橋氏が素っ頓狂な声を上げたので、びくりとする。

「え?」

「ああいや、ごめんね。ちょっと一人車に乗せても良いかな。知り合いなんだけど」

「は、はい。私は大丈夫です」

 混乱しながらあずみが承諾すると、高橋氏は車をバックさせて、おばあさんのいる歩道へ横付けし、助手席側に身を乗り出して窓を開けた。交通量の少ない道とはいえ、やることが大胆だ。

コメント

  • 梅川いろは

    ブクマしてくださった方、ありがとうございます!

    3
コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品