恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~

安里紬@書籍発売中

主任がしでかしたこと

「お疲れさまでした!」

あちらこちらから、心地良い疲れの滲んだ声が聞こえてくる。

詩陽は撤収まで無事に終えたことに安堵し、壁に背を預けて、皆の様子を見ていた。

終わりが近づくにつれ、急激に体調が悪化していき、今では立っているのも辛いほど気分が悪い。

めまいと吐き気、強い倦怠感に酷い頭痛。体調不良のオンパレードは全く嬉しくない。

皆は開放感からか、詩陽の様子に気付くことなく、解散を待っている状態だった。

詩陽の言葉と伶弥の言葉で終わることができる。

そうわかっているのに、成功の余韻に浸っている雰囲気に甘えて、体調と闘うことに集中してしまっている。

「あぁ、でも、もう」

詩陽は自分が口にした言葉を認識することができず、遠のく意識を手繰り寄せようとした。

重力はこれほど強いものだったのか、と感心してしまう。

傾く体がぽっかりと口を開けた暗闇に飲まれていく。

必死に耐えていた詩陽だったが、遂に負けてしまった。

体に感じた冷たく硬い感触。

遠くに聞こえる声の数々。

内容まで認識はできず、雑音と変わらない。

「小鳥!」

そんな中、はっきりと聞こえた声は焦りを孕んでおり、聞こえてきた足音は慌ただしい。

伶弥らしい取り乱し方だ。でも、主任らしくはない。

「だいじょう……」

速く安心させて、落ち着かせないと。

混濁する意識の中で、それだけを必死に考えた。

それにも関わらず、最後まで言い切ることはできず、詩陽は完全に闇の中へと落ちていった。





手を動かそうとして、思っていた以上に重たいことに驚く。

指にはパリッと糊のきいた感触があり、馴染みのない匂いが鼻先を擽った。

詩陽は重たい瞼を押し上げ、はぁっと息を吐く。

「詩陽?」

すぐに聞こえた声に、顔を向けた。

詩陽は真っ白なシーツに覆われて、横になっており、伶弥は心配そうな顔でベッドサイドに座っていた。

ネクタイを緩め、いつもは軽く上げている前髪が乱れて落ちてきている。

上には点滴がぶら下がっており、辿ると掛布団の上に乗っていた手にぶつかった。

「ここは?」

「病院よ。体調が良くないことには気付いていたのに、結局、倒れさせちゃったわ……」
 
伶弥は肩を落とし、溜息を吐く。

「伶弥は悪くないでしょ? 私の自己管理が甘かったんだよ。せっかく大きな企画を任されたのに、最後が締まらなかったなぁ」

詩陽は言葉にして初めて、情けなくて泣きそうになった。

成功したことは間違いない。

それでも、最後まで責任者として立っていられなかったため、やり遂げたとは言えない。

「詩陽はよくかんばっていたわ」

「確かにがんばったけど、仕事はそれだけじゃないでしょ? 反省して、次に活かしたい」

詩陽がそう言うと、伶弥は眉尻を下げて微笑み、詩陽の頭を撫でた。

「過労だって言っていたから、この点滴が終われば帰れるわ」

「うん、ありがとう」

詩陽は口角を上げ、安心させようと試みた。

だが、その効果はなく、伶弥はまた溜息を吐いて、ベッドにぽすんと突っ伏す。

「伶弥、どうしたの?」

詩陽は手を伸ばして、伶弥の跳ねた髪を直した。

さらさらとした手触りは健在だ。

気持ち良くて、何度か撫でる。

その間、伶弥は大人しくされるがままになっていた。

「詩陽が倒れた時、心臓が止まるかと思った。何も考えられなくなるなんて、生まれて初めてよ」

伶弥は少し顔を上げ、へにゃりと笑う。

オネエの伶弥は賑やかで、詩陽にあしらわれてばかりだが、根は冷静沈着だ。

脳内では淡々と、的確に処理していることが多いだろうから、何も考えられなくなるということは、本当に経験がなかったかもしれない。

「……ごめん」
 
詩陽は仕事で迷惑をかけたことを反省していたが、伶弥に心配かけてしまったことに関しては反省が足りなかった。

これほど悲しそうにしている伶弥は久しぶりに見た。

自分がその顔をさせたのだと思うと、胸が痛む。

「大きな病気じゃなくてよかったけど、私にとっては過労だって同じくらい心配するのよ。でも、止めなかったのも私だし……」

「いろいろ考えてくれていたんだね」

バカなことばかり言って、詩陽に冷たくされている伶弥ばかり見ていたが、伶弥の考えは詩陽が思っている以上に深かったようだ。

「私は詩陽の一番の理解者でいたいし、一番近くで応援する人間でいたいの。だから、今回の仕事が詩陽にとって重要なことはわかっていたから、応援することを優先したのよ」

「うん。ありがとう」

これまでも、両親より伶弥の方が詩陽を理解してくれていると感じることは多かった。

それを当たり前だと思ってはいけない。不意にそんなことを思った。

伶弥は体を起こし、ようやく笑顔を見せた。

普段は冷たく見えがちな目元が緩み、僅かに目尻が下がる。

穏やかに弧を描く唇は黄みがかった淡い桃色で、色白の肌とのバランスがいい。

薄い桃色の唇をしている詩陽としては、程よい血色の唇が羨ましい。

伶弥の笑顔は詩陽にとって安心できるものであり、見ていると元気が出るものだ。

だが、それを言うのは恥ずかくて、一度も言葉にしたことはない。

「あ、点滴が終わったみたいね。看護師を呼びましょうか」

伶弥は嬉しそうに笑うと、点滴を確認してナースコールを押した。

お礼を言っただけで嬉しそうにしているのを見ると、罪悪感を抱いてしまう。

詩陽はこっそり息を吐く。

「私も伶弥の理解者でありたいと思っているよ」

立ち上がったばかりだった伶弥は勢いよく振り向き、大きく目を見開いた。

ああ、また髪が乱れたな、と暢気に思う。

「点滴が邪魔……!」

「何をしようとしたの!?」

不穏な空気を感じ、詩陽は掛布団の中に潜る。

確かに点滴のルートが邪魔である。

顔が熱くなっているのは、布団の中に潜ったせいだと思いたい。

早く看護師に来てもらわないと、間がもたない。

この場を二人きりでやり過ごす自信がない。

言ったことを後悔しそうになって、それは違うと思い直した。

言ったことは本心であるし、ほんの少しだけ素直になってみようとした結果なのだから。

もだもだと考え事をしていた詩陽は、突然、布団の上から何かが乗ってきて驚いた。

いや、乗っているというよりは拘束されている。

「え、ちょっと、何事なの!?」

詩陽はくぐもった声で叫ぶが、拘束が緩むどころか強くなった。

「詩陽」

布団を通しても近くに感じた声に、詩陽はごくりと息を飲む。

身じろぎを試みるつもりが、その声が思考も身体も麻痺させた。

「ありがとう」

伶弥の深い気持ちがこもった言葉に、詩陽は胸が熱くなるのを感じた。

伶弥は詩陽に比べて、様々な想いを口にしてくれる。

だから、感謝の言葉だって数えくれない程、聞いてきた。

それにも関わらず、今の一言がどうしてこんなに胸に刺さったのか、わからない。

「伶弥……」

「詩陽は私を振り回すのが、本当に上手いわ」

「いつ、私が伶弥を振り回したのよ!」

布団の上から捕らえられたまま会話をするのもどうかと思うが、伶弥は離す気がないらしい。

ぎゅうっと抱き締められていると、布団を通しても、徐々に温もりが伝わってくる。

「自覚がないのが、本当に恐ろしいわ……」

「何をしているんですか」

伶弥の言葉を聞き、詩陽は反論しようとしたが、それは遮られてしまった。

知らない女性の声が聞こえた瞬間、身動きが取れないはずなのに、自分の体が飛び上がった気がした。

「ちょっと愛を」

「バカでしょう! どきなさいよ!」

またふざけたことを言う伶弥を布団越しに殴ると、上から妙な声が聞こえ、拘束が緩んだ。

「本気なのに……」

詩陽が布団から顔を出すと、しゅんとした伶弥が腹を撫でており、その向こうには目を吊り上げた看護師が仁王立ちしていた。

詩陽が顔から火が出ている気がして、両手で覆った。熱も上がったに違いない。

それから、看護師の目を見られないまま、点滴の処置が終わり、帰宅を許された。

「抱っこしていく?」

「ありえない!」

伶弥は詩陽の代わりに会計を終え、待合の椅子から立ち上がろうとした詩陽の顔を覗き込んだ。

不意に目の前に来た顔を見て、詩陽の心臓は跳ね、続いた言葉に驚いて、伶弥の頬を抓った。

「……痛いわ」

頬を擦る伶弥を睨み、詩陽は一人で立ち上がった。

ベッドからここまで歩いてきたというのに、急に抱き上げようとするなんて、一体伶弥は何を考えているのだろうか。

詩陽ははぁっと溜息を吐き、ゆっくりと歩き始めた。

伶弥も隣に並び、困った様子で見下ろしてくるが、詩陽はまっすぐ前を向いたまま、決して伶弥を見ようとはしなかった。

伶弥の甘やかし方が変わってきた気がする。

れまでは、幼馴染としての距離は保ってきたし、男らしい素振りは見せなかった。

それなのに、キスしてきたり、抱き締めてきたり、挙句に抱き上げようとするなんて。

そして、それにいちいちドキドキしている自分の反応も馴染めなくて戸惑う。

何より困るのは、それを嫌だと思わないことだ。

不快感もないし、恐怖感も抱かない。

落ち着くというよりは落ち着かなくなるから、あまり触れないで欲しいとは思うが、それだけだ。

もう一度、大きな溜息を吐き、詩陽は伶弥とともにタクシーに乗り込んだ。




翌日は大事を取って休暇を取り、お蔭で完全に復活した。

詩陽は意気揚々と会社へ向かい、企画部のフロアへ足を踏み入れる。

「おはようございます……?」

笑顔で挨拶しようとしたが、フロア内の様子がおかしいことに疑問を抱き、詩陽は首を傾げた。

「ことりさん……」

いつになく視線を感じる中、恐る恐ると言った様子で声をかけてくれたのは心葉だった。

持つべきものは可愛い後輩である。

「心葉ちゃん、おはよう」

「おはようございます、って、それどころじゃありません!」

どこか憐憫の目をした心葉は詩陽の手首を掴み、フロアから出ようとした。

突然のことにバランスを崩した詩陽は、後ろに倒れそうになり、反射的に目を閉じる。

だが、その体は引き締まった体に支えられ、危なげなく踏み止まった。

「危ないだろう」

男性だとわかったが、怖いと思わなかったのは無意識に伶弥だと気付いたから。

背中に直接響いた声は冷たい。

「……主任」

心葉の掠れた声が、いつの以上に戸惑いを滲ませている。

「主任、おはようございます」

「おはよう」

「お休みをいただき、ありがとうございました。すっかり元気になりました」

「体調管理は、社会人として基本中の基本だ。もう一度、自己管理を見直すように」

詩陽は先程まで甘々オネエだった伶弥の冷たい言葉に、思わず吹き出しそうになって、唇を噛み締めた。

俳優になれるな、と改めて思ってしまった。

ふと、詩陽はこれまでにないざわつきに気付き、周囲を見回してみた。

まったく違和感のない会話をしていたはずが、やけに注目されている。

興味津々といった視線も感じ、詩陽は伶弥を見上げた。

伶弥の同様に疑問に思ったようだ。怪訝な表情をしている。

「ああ、もう! 黙っているなんてできません!」

突然、心葉が声を上げたため、詩陽は視線を遣った。

心葉は真っ赤な顔をして、詩陽と伶弥を交互に見ている。

心葉も熱があるのでは心配したが、次の瞬間、詩陽の方が顔を真っ赤にした。

「知ってますか? ことりさんが倒れた時、どうやって運ばれたのか」

「救急車とか?」

考えていなかったが、救急車を呼ばれたか、もしくは誰かがタクシーでも拾って運んでくれたのだろう。

「主任が病院に連れて行ったんですよ!」

「あぁ、うん」

そうだろうと思った。

心配性の伶弥が救急車を呼んで、大事にしなかったことが救いだ。そう思ったのに。

「私、お姫様抱っこを初めて見ました!」

「……ん?」

「まさか主任がそんなことをするなんて、誰も思っていなかったので、皆、すごく驚いたんですよ」

詩陽はこめかみにピキッと音がしたのがわかった。

それに、全身が熱い。

「ことりさんのことを、本当に大事そうに抱き上げて、颯爽と去っていく姿は、まさに王子様……!」

心葉のうっとりとした表情から目を逸らし、詩陽はそっと伶弥を見上げた。

すると、視線がスッと外される。無表情だが、バツが悪そうな目をしている。

「なるほど」

詩陽の声に、伶弥は僅かに肩を竦めた。

「主任、ちょっと」

詩陽がそう言うと、伶弥がゴクッと息を飲んだのがわかった。

栖主任なら、冷たく言い返せばいいのに、今の伶弥にはその余裕がないようだ。

詩陽が目で示して歩き始めると、伶弥は大人しく着いてくる。

詩陽は、いつの間にか静まり返っていたフロアを一瞥する。

「皆さん、仕事の準備はよろしいですか?」

笑顔の詩陽の声に、何人かは身震いをし、何人かは弾けたように動き始めた。

それから、詩陽は伶弥を伴って、廊下へと出た。
 
死角になっているところまで来ると、詩陽は周囲に誰もいないことを確認し、伶弥のネクタイを掴んで引き寄せる。

「伶弥、何を考えてるの?」

「だって、詩陽が倒れたのを見たら、何も考えられなくなったんだもの」

「確かにそう言っていたね。それは理解したつもりでいたけど、お、お姫様抱っこはダメでしょう!」

知らない間に、そんな恥ずかしい思いをしていたなんて。

間近にある伶弥の鼻を抓み、きゅっと力を入れる。

「ひはる……」

「せめて、事前に言って! 心の準備も対策もとれなかったじゃない!」

「ごめんなひゃい」

鼻が痛いせいか、詩陽が怒っているせいかわからないが、伶弥は涙目になっている。

「皆に怪しまれたらどうするの? 大体、主任のキャラじゃない行動だし……」

詩陽は鼻から指を離し、諦めたように肩を落とした。

「誰も、私には興味ないから、すぐに忘れるわよ」

鼻をさする伶弥だが、ネクタイを掴まれているせいで腰が曲がっていて、なんとも情けない。

「興味ないといより、怖がられているだけだから」

「似たようなものじゃない」

心の底から気にしていない様子の伶弥に腹が立ち、詩陽はネクタイを更に引き寄せた。

「皆の前で、私に触れたら、その日は口きかないから!」

プンスカ怒る詩陽の言葉に、伶弥は笑いを堪えるように口を引き結んだ。

「……わかったわ」

ようやく解決した、と安心した詩陽はネクタイを離してやり、胸を張る。

「ほら、もう仕事しないと」

詩陽は踵を返し、颯爽と歩き始めた。

後ろで、伶弥が顔を赤くしていることにも、呟きにも気付かず。

「嫌じゃないんだな……」

伶弥が心の中で思っていること。

それを詩陽は知るべきか、知らないままいるべきか、一体どちらだろうか。

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