恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~

安里紬@書籍発売中

鬼上司の『がんばれ』には、深い意味がある

西村たちの働きは、詩陽の期待以上のものだった。

大手の会社と契約を結び、詩陽の企画はいよいよ実現に向かって、本格始動した。

これまで以上に責任を感じる中、詩陽は懸命に仕事をこなしてきた。

それは食欲が最強の欲求とも言える詩陽が、度々、食事を忘れるほどに。

小鳥おどり、休憩時間だ」

聞き慣れた声が聞こえ、詩陽は顔を上げた。

眉間に皺を寄せた伶弥が、詩陽のことを睨んでいる。

それは心配している表情なのだが、他の人から見たら、怒っているようにしか見えない。

「もう少しで、キリが」

「昨日もそう言って、昼食を抜いただろう。食事をとらないと、肝心な時に体調を崩すぞ」

「……すみません」

本当は、体力には自信がある。

だが、それを言ったところで、何の意味もないことはよくわかっている。

それに、家ではこれの何倍も言われているのだ。

甘々オネエの伶弥は、怒るというよりは、詩陽が食事を抜くことがこの世の終わりように嘆き、泣きべそをかく。

その度に反省するのだが、張り切っている詩陽は意識が仕事に集中してしまいがちだ。

詩陽は財布を持って席を立ち、伶弥に目で謝った。

小さく溜息を吐いた伶弥に頭を下げ、詩陽は社員食堂へと向かった。

出遅れたこともあり、食堂は座る場所を見つけるのが困難なほど混み合っている。

この会社の社員食堂は美味しくて人気があり、早く行かなければ食べ損なうこともあるほどだから、今日は厳しいかもしれない。

「あ、ことりさん!」

諦めようかと思った時、詩陽を呼ぶ声が聞こえ、食堂の中を見回した。

人混みの中で手を振っている心葉を見つけ、詩陽の頬が自然と緩んだ。

心葉がジェスチャーで空席であることを伝えてきたため、詩陽は思わず笑ってしまった。

心葉の健気で素直なところが好きだ。

仕事にミスが多かったり、伶弥を頻繁に怒らせていたりするが、その素直さがあれば、これから成長するだろうと思っている。

詩陽はかけそばを買って、心葉の元へ向かった。

心葉の前には、空になった食器と日替わりデザートのレアチーズケーキが置かれている。

「心葉ちゃん、ありがとう。もう無理だと思って、諦めるところだったよ」

「気付けてよかったです! ことりさん、それだけですか?」

「あぁ、うん。早く戻って仕事したいし」

食欲がないわけではないが、ここ最近、あまり空腹を感じない。

それも食べ忘れる原因の一つになっていることは明白だ。

心葉の顔が陰ったことに気付かなかった詩陽は、隣に座って、手を合わせた。

「それにしても、よく空いていたね」

「さっきまで、西村さん達が座っていたんですよ。外回りに出るって、ちょうど空いたんです。本当にタイミングがよかったです」

そう言って、心葉はチーズケーキにフォークを刺した。

「そうなんだ。西村くん達にはお世話になっているから、終わったらお礼をしなきゃいけないね」

「そうですね! 私が幹事をやりますよ」

「ありがとう。じゃあ、一緒にやろうね」

「はい!」

元気のいい返事を聞き、詩陽も疲れが飛んだ気がした。




それから、時は経ち、遂にイベントの前日となった。

詩陽はこの一週間、様々な確認に追われ、過去最高の忙しさを経験していた。

主任である伶弥にも助けてもらうことはあるが、基本的に責任者は詩陽であり、指示を出すのも管理するのも、詩陽の仕事になっている。

詩陽としては、ちょうどステップアップがしたいと思っていた。

主任になりたいとまでは言わないが、チームリーダーとなって、皆をまとめたり、企画を進めたりする立場になりたいし、それが可能であると評価されたい。

この企画は、その大切な一歩なのだ。

「詩陽、顔色が悪いわ」

朝食をとっていると、伶弥が心配そうに覗き込んできた。

詩陽は白い頬に笑窪を作り、伶弥を見つめる。

「大丈夫だよ。いよいよ本番だから、緊張しているだけ」

「昨日は寝れなかったの?」

「そんなことないよ」

二人は別々の部屋で寝ているから、どう返事をしても真実が知られることはない。

本当は、眠れない日が続いている。

大学受験の時も寝不足の日は続いたが、こんなに辛くはなかった。

これも年のせいに違いないと、悔しく思っているところだ。

「今日は忙しくなる?」

「うん。会場設営とノベルティの受け取りをして、各自の役割を再確認するでしょ。あとは、不測の事態にも対応できるように、シミュレーションもたくさんしないと」

詩陽はやることの多さに目が回りそうになりながら、伶弥には笑顔を向け続けた。

最も認められたい相手は伶弥なのだ。

これまで頼ってばかりだったが、こんなにもできるようになっているのだと知って欲しい。

詩陽がしっかり仕事をこなせるようになったところを見れば、もしかすると、伶弥も詩陽を頼ろうとしてくれるかもしれない。

だから、特に今回の仕事では伶弥を頼りたくないのだ。

「詩陽。無理しないで、周囲の人間を上手く活かすことも忘れちゃダメよ。何でも、自分一人でやろうとしないで」

「……わかってるよ」
 
そう返事をしたものの、詩陽に実力がないと言われたようで、内心は複雑だった。





「ことりさん、こっちのチェックもお願いします」

「はーい!」

あちらこちらから、詩陽を呼ぶ声が聞こえる。

イベント会場となるホールは、着々と整えられており、今のところ順調であった。

実のところ、一番の問題は詩陽の体調にある。

「ことりさん、顔色が悪くないですか?」

詩陽は心配そうな心葉の肩を叩き、笑顔を見せる。

少し口元が引きつるのは、めまいと倦怠感のせいで足元が覚束ないからだ。

「平気平気! 絶対に成功させようね!」

「無理はしないでくださいね」

「うん、ありがとう」

別の場所から詩陽を呼ぶ声が聞こえたため、心葉に指示を出して、その場を離れた。



夕方近くなった今も、詩陽の体調は悪化の一途を辿っていた。

体が熱くなってきたから、発熱しているのだろう。

「あと少しなのに」

設営はほぼ完了しているし、役割分担の確認も終えた。

ノベルティを受け取って配置を終えれば、あとは当日を迎えるだけだ。

それなのに、予定時刻を過ぎてもノベルティが届かず、詩陽は焦り始めていた。

「ことりさん……」

詩陽を囲んで、数人が残っているだけで、他の人たちは会社へ戻ったところだ。

残ったメンバーのうち、心葉が不安そうに声をかけてきた。

「大丈夫。きっと少し遅れているだけだから」

「でも……」

「まだ時間もあるし、心配しないで。工場に連絡を入れてみるね」

詩陽は一人でホールを出て、搬入口に向かうことにした。

予定ではそこから運び込まれるため、ノベルティを見て、すぐにでも安心したいという思いもある。

歩きながら、スマホを取り出し、工場に電話をかけた。

何度か鳴った呼び出し音が途切れ、女性の声が聞こえた。

それから、状況を確認した詩陽は人気のない搬入口で、すとんと座り込んでしまった。

「日にちが間違って伝わっていたなんて……」

詩陽の声は誰に拾われることもなく、無機質なコンクリート壁に吸い込まれる。

会場となるのは、民間の設計会社が建てたイベントホールで、大ホールは天井の高さと採光にこだわりを持った空間となっている。

対して、搬入口はあっさりとした造りで、無駄がない。

華やかなホールに比べ、素っ気ない印象を受けるのは仕方がないだろう。

「確か、心葉ちゃんに」

ノベルティを発注する際、心葉が張り切って手を挙げていた。

詩陽は他にもやることがあり、どんなものを発注するかは決まっていたため、積極的に取り組んでいた心葉に任せたのだ。

「私、その後、確認した……?」

その時を振り返ってみるものの、心葉に確認した際に日付の確認をした記憶はない。

ノベルティについて正確に伝わっているかにばかり、気を取られていた気がする。

「私のミスだ。あんなに何度も確認して、あんなに神経を使ってやってきたのに。すごく大事なことを見落としていたなんて……」

めまいが一層酷くなってきた。

壁に背を預け、足を投げ出しても、体は倒れそうになる。

指先が小刻みに震える。

目の前が真っ暗になってしまいそうだ。

いっそのこと、気を失ったら、現実から逃げられるだろうか。

詩陽は膝を引き寄せ、顔を埋めた。

小鳥おどり?」

不意に聞こえた声に、詩陽は勢いよく顔を上げた。

そのせいで、グラグラと頭が揺れたが、唇を強く噛み締めて堪える。

「主任……」

伶弥は怪訝な顔で詩陽を見下ろしていたが、詩陽の声を聞いてすぐに目の前に跪いた。

皺一つない濃紺のスーツが汚れてしまう。

そう思ったが、伶弥の行動には迷いがない。

「どうした?」

「ノベルティが、間違っていて」

「何が間違っていた?」

「日付が……」

「対応できるか?」

そう言う伶弥の目はいつも以上に厳しい。

鬼上司の顔をして、嫌われ者の声色のまま、詩陽に問いかけている。

それを寂しいと思う前に、伶弥の言葉を反芻した。

二人きりにも関わらず、上司の態度を崩さない伶弥の言動には必ず意味がある。

伶弥の顔を見た瞬間、詩陽は伶弥に泣きつきたくなった。

甘やかしてもらいたくなった。

でも、それを望んでいなかったのは自分だ。

「がんばれ」

前から手が伸びてきて、詩陽の頭がぽんと叩かれた。

真剣な表情に隠れるように存在した気遣わし気な目線に気付き、詩陽は拳にグッと力を籠める。

鬼上司だったら、本来は絶対にやらない仕草を見て、詩陽の頭が動き始める。

「はい」

絶対に成功させると頑張ってきた。

あとはノベルティの問題だけだ。

きっとやり切れる。やり切ってみせる。

詩陽が立ち上がろうとすると、伶弥に手を掴かまれ、引っ張り上げられた。

表情は厳しいのに、やることは優しい。

そんないつにない矛盾が、伶弥の心情の揺れを垣間見せる。

詩陽は大きく深呼吸をして、再びスマホを耳に当てた。

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