恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~

安里紬@書籍発売中

飴と鞭

「詩陽、待って!」

「待ちません」

詩陽は鞄を持って、玄関で靴を履く。

後ろからバタバタと音がしているのは、隙をついて仕事に行こうとした詩陽を、伶弥が慌てて追いかけようとしているのだ。

あれから、詩陽はなし崩し的に伶弥と同棲することになってしまった。

そもそも、プレゼンが得意な出世頭の伶弥の論破に、詩陽が叶うはずもない。

同期であっても、一人だけ主任に抜擢されたことでも、その実力差ははっきりしている。

「一緒に」

「行きません」

靴を履き終わった詩陽は、ようやくやって来た伶弥に手首を掴まれた。

クイクイと甘えるように引っ張られ、大きな溜息を吐く。

「相変わらず、詩陽は塩対応ね」

「今更でしょ」

そう。あの日はあまりの出来事のせいで、自分らしくなく、伶弥の甘やかしに身を任せてしまった。

少しだけ素直になっていたし、弱っていたから、伶弥に対しても物腰が柔らかかった。

実際の詩陽は異なる。

仕事では冷たい男が、詩陽の前では甘々のオネエになる伶弥に対し、普段は無難な人当たりの良さで振舞っているのに、伶弥のことだけは冷たくあしらうのが詩陽だ。

それでも手を離そうとしない伶弥の方へ向き、上の方にある美麗な顔を見つめる。

すると、伶弥は照れたように目元をほんのりと赤らめた。

「可愛い」

「伶弥がね」

詩陽よりもずっと可愛らしい。

かっこいいのと、可愛いのを併せ持つなんて、神様はどれだけ伶弥にギフトを与えるのだろう。

その分、オネエとなることでバランスを取っているのかもしれない。

「今日の夕飯は、何が食べたい?」

伶弥に話題を変えられ、反射的に伶弥の料理リストを思い浮かべる。

詩陽も料理はするが、伶弥には敵わない。

忙しい伶弥に料理を任せることには多少の抵抗があるものの、それ以上に楽しそうに料理をしている様子を見ていると、自分がやるとは言い出せなくなる。

「煮込みハンバーグ」

「了解」

伶弥の得意料理の一つであるメニューを告げると、伶弥はクスクスと笑って、詩陽の髪を撫でた。

その手を払い除ようとしたが、伶弥に手首を掴まれ、妨害されてしまった。

「いいじゃない。ちょっとくらい甘えさせてよ」

「もう……」

会社では常に気を張って過ごしている伶弥を知っている身としては、そんなことを言われると無碍にできない。

詩陽は少しの間、伶弥が栗色の髪に指を通して微笑んでいるのを見上げて待ってやった。








「これはどういうことだ」

一瞬で、フロア内に緊張が走る。

伶弥の静かな声は、どんなざわつきの中であっても、不思議とよく通る。

詩陽が目を向けると、資料を手にした伶弥の前に、三年目の香椎かしい心葉ここはが立っていた。

肩を竦めているから、これから厳しい叱責があることを覚悟しているのだろう。

「こんな状態のものを課長や部長に見せるつもりだったのか? 穴だらけじゃないか。そもそもターゲットは誰だ? 従来のものより優れている部分は?」

「それは……」

「開発部が上げてきた商品の魅力を、より分かりやすく人々に伝えること。それが俺たちの仕事だ。商品を理解していない奴が、どんな魅力を伝えられる? 基本を学び直せ」

伶弥は心葉に資料を差し出し、すぐに興味を失ったように、別の書類に手を伸ばした。

打ちひしがれたように背中を丸めた心葉が、トボトボとこちらに戻ってくる。

詩陽は軽く息を吐いて、心葉のデスクに向かった。

「香椎さん」

「ことりさん……!」

親しみを込めて、詩陽のことを『ことり』と呼ぶ人は多い。

心葉もその一人だ。

「だいぶ言われたね」

詩陽は泣きそうになっている心葉に笑顔を見せ、安心させるように意識した。

伶弥にガツンと言われた人は必ず激しく落ち込む。

言い方も声も冷たいから、内容以上にショックが大きくなるのだろう。

「あんなにも言わなくてもいいのに……冷たすぎません?」

「そうね。主任は優しい言い方をしてくれないよね」

「ことりさんも、そう思いますか!?」

パッと表情を明るくした心葉を見て、詩陽は溜息を堪えた。

「でもね、主任が言ったこと、よく考えてみて? すごく大切なことを話していたと思うよ」

「意地悪で言ってるだけですよ!」

そう言って、心葉は頬を膨らませた。

皆、厳しい伶弥のイメージから脱することができず、内容の理解に至らないことが多い。

今回の心葉のように。

「本当にそうかな? きっと主任はもう一度考えてみたらどうかって言ったんだと思うよ。だって、却下って言われなかったでしょ? 大事なことを見直して、もう一度書いて来いってことじゃない?」

「……あぁ、そっか。確かに、頭から否定されたわけじゃないかも」

「ヒントも出していたよ。どこを見直すといいって言っていたか、思い出してみて」

「はーい。さすがことりさん!」

凄いのは伶弥なのに、こうして大きな誤解を生む。

これもいつもの光景だ。

伶弥が雷を落として、詩陽がフォローする。

そうして、皆一様に詩陽に感謝する。

まったく、伶弥は損な役どころだ。

詩陽がちらりと伶弥に視線を向けると、一瞬だけ、目が合った。

詩陽がフォローしていることも、伶弥は織り込み済みだ。

こうしてこの企画部では、伶弥が嫌われ役を買って出ることで、飴と鞭が出来上がるのだ。

それから、詩陽はニコニコと笑っている心葉の手の中にチョコレートを一つ乗せて、自分のデスクへ戻った。

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