Pessimist in love ~ありふれた恋でいいから~

櫻井音衣

一人で大丈夫 (3)

『もう会わない』と恵介に言った次の日、水曜日の夜。

残業を終えて夜遅くにマンションに戻ると、自宅のドアの前で恵介が待っていた。

その姿を目にした途端、心臓が壊れそうなほど大きな音をたてた。

思わず後ずさりしかけると、それに気付いた恵介は、足早に近付いてきて私の腕を掴んだ。

手に持っていた部屋の鍵が、ガチャンと冷たい音を響かせて通路の床に落ちた。

「幸……!」

「もう会いたくないって言ったのに……」

「なんで急にそんなこと言うんだよ?!」

「こんな遅い時間に大声出さないでよ……。近所迷惑になるから帰って」

わざと冷たい声でそう言った。

恵介の目を見ることも、顔を上げることもできずうつむいていると、恵介は床に落ちた鍵を拾い上げて、私の手を強く引いて部屋へ向かった。

「だったら話は部屋の中でゆっくり聞く」

「痛いよ……離して……」

鍵を開けて玄関の中に入ると、恵介は私を抱きしめた。

その力はとても強くて、私がどんなに力を振り絞っても逃れられなかった。

恵介の温かい腕の中にいると泣いてしまいそうで、私は必死になって体をよじった。

「お願い……もう離して……」

「なんで急に会いたくないなんて言うんだよ?この間のことまだ怒ってるなら謝る。それとも……そんなに俺のこと嫌いになった?」

好きとか嫌いとか、最初からそんな関係じゃなかったはずだ。

夏樹の身代わりが必要なくなった今、恵介が私といる理由なんてない。

恵介は私に、夏樹の代わりになると言ったんだから。

「夏樹の身代わりなんかもう要らない。私がもう無理って思ったら、いつでも別れてOKって、言ったよね」

「え……?」

恵介が息を飲んだのがわかった。

私はできるだけ表情を崩さないように、淡々とした口調で話を続けた。

「私はね……好きな人に好きになってもらいたいだけなの。そういう気持ちもないのに、体だけ求められるのもイヤ。恵介の理想の彼女のふりするのも、もう無理だから……」

胸が張り裂けそうに痛んだ。

好きだから一緒にいてとか、私を好きになってとか、そんなことを言う勇気はなかった。

だからこれ以上好きにならなくて済むように、1分でも1秒でも早く別れた方がいい。

声が震えてしまわないようにグッとお腹に力を入れて、思いきって口を開いた。

「もう会いたくないの。別れて下さい」

恵介は一瞬目を見開いた後、私から手を離し、下を向いて首の後ろを押さえた。

「幸が本気で俺に惚れるように、思いっきり甘やかして優しくしたつもりだったんだけどな……。そっか……幸は俺といるの、そんなにイヤになっちゃったかぁ……」

そう言って恵介は少し自嘲気味に笑った。

「そこまで嫌われたら、もう一緒にはいられないな」

「……うん」

「ホントに一人で大丈夫か?」

「ありがとう。私は一人で大丈夫だから、心配しないで。それと……やっぱり髪飾りと化粧品のお金を払いたいの。私にはそんな高価な物を恵介からもらう理由がないから」

恵介は少し悲しそうに目をそらした。

「いや、金はいい。お礼はしてもらったし、俺が勝手にやったことだしな。要らなければ捨ててくれてかまわない。嫌いな男にもらったものなんか持ってんのイヤだろ?」

嫌いなんかじゃない。

本当は大好きなのに。

一緒にいたいのに。

「捨てるのはもったいないから……大事に使わせてもらう。ごめんね、たいしたお礼もできなくて」

「俺は嬉しかったよ、幸が俺のためにいろいろしてくれたこと。ホントに欲しかった物はもらえなかったけど……」

ホントに欲しい物って……何?

尋ねようとしたけど、別れるんだから今それを知ってもしょうがない。

気にはなったけど、グッとその言葉を飲み込んだ。

「嫌われたのは、調子に乗りすぎた俺が悪いしな。イヤな思いさせてごめん」

「……うん」

恵介はひとつため息をついて、私に背を向けた。

「じゃあ……帰るわ」

「うん……」

これでもう会うことはないんだと思うと、堪えていた涙がこぼれそうになって、慌てて下を向いた。

「幸……最後にお願いがあるんだけど」

「……何?」


「Pessimist in love ~ありふれた恋でいいから~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く