帝国愛歌-龍の目醒める時-

如月 環

第十七側室・シスト②

「あなたの負けよ、トゥーラ姫。彼女はあなた達の勝てる相手ではないわ。わかったのなら大人しく身を退きなさい。それ以上国王陛下の前で恥を掻きたくないのならば」
「シュ、シュスレイア様っ!」

トゥーラ姫は顔を真っ赤にして逃げるように立ち去っていった。周りを取り囲んでいた人々もこそこそと離れていく。

「シュスレイア?」

その名前は確か。

《ヴァイネル陛下の第一側室だ》

直接頭の中に聞こえてきた紫杏しあんの声に、ライラは微かに頷いた。
今日の彼女のエスコート役はヴァイネルである。紫杏しあんとは囁きを交わせる距離ではない。それでも、紫杏しあんは彼女の声をちゃんと聞いている。何気ない呟きにも答えを返してくれる。
不安にならないように。

(ここにいるから)

紫杏しあんはライラが今、彼女自身が思っている以上に精神が不安定な状態にある事を知っていた。
普段はわからないからこそ、紫杏しあんは気遣う。
強くあろうとしている彼女の心は、本当はとても、弱いものなのだから。
静かに見守る紫杏しあんの視線の先では、ちょうどシュスレイアが口を開いたところだった。

「申し遅れました。わたくしはシュスレイア・サッキス・ハリシュア。第一側室です。シスト様」

ヴァイネルの妃は全員で十六名。皆側室だが、その中で一番正妃になる可能性が高いと言われているのが、このシュスレイア・サッキス・ハリシュアである。
先程のトゥーラ姫の生家、ムーディー家と並ぶ大貴族、サッキス家の長女だ。しっかりした後見と、どこに出しても恥ずかしくない程度の美貌。王妃に相応しい人物である。

「助かったよ、シュア。あのままだったらどうなっていたか」

苦笑を浮かべるヴァイネルに、シュスレイアは「とんでもない」と否定する。

「わたくしなどが口を出さずとも、シスト様なら難なく切り抜けられていました」

ねぇ、シスト様?
彼女だけでなく他の側室達もくすくす笑っているが、トゥーラ姫から感じたような嫌味な所は一つもなかった。本当に好意的に笑っているのだとわかる。
自然とライラの顔にも笑みが浮かんだ。

「シスト、と呼んで下さい。シュスレイア様」

こちらも微笑む。

「ではわたくしもシュアと呼んで下さいませ。王妃陛下」

おうひ、へいか。
つい最近まで呼ばれていたのと同じ響き。
大きく瞳を見開いたライラを、シュスレイア達は驚きと取ったらしい。優しく告げた。

「わたくし達はいつでも王の決定に従います。誰を側室にしようと、正妃にしようと、それが王の決めた事なら、わたくし達に異存はございません。王がわたくし達を真実愛して下さっている事を知っていますから」

愛し、愛される。それだけで何の問題もなかった。形なんか、どうでも良い。
そう言うシュスレイアの瞳が、ライラを優しく包み込む。

───愛しているならば。

ドクンッ!と心臓が大きく脈を打った。
その言葉はライラの心を深く抉る。

「シスト?」

ドレスの胸元を握りしめて立ち尽くすライラを、ヴァイネルは心配そうに覗き込んだ。

「どうした?」

瞬きすらせず、ライラはただ立ち尽くす。ヴァイネルの声などまるで聞こえていないようだった。

(形なんか、どうでも良かったはずなのに)

二人で一緒にいられれば、何の問題もなかった。
視線を合わせて、お互いの温もりを感じる程側にいて。
幸せだったはずなのに。

(二度と会う事のない、ひと・・・)

自分から望んで決別した。

(後悔なんて、していないはずなのに)

強く握りしめた手から、血の気が引いていく。体の奥から、何かが込み上げてくる。

紫杏しあん!)
「落ち着け。大丈夫だ。俺はここにいる」

背後からふわりと抱きしめられ、直接耳に声が届いた。
震える白い手は、今しっかりと紫杏しあんの手の中にある。壊れそうな程早鐘を打っていた胸は、次第に落ち着きを取り戻していった。

「・・・申し訳ありません」

突然のライラの異変に心配するヴァイネルとシュスレイアに向けられたものだ。

「大丈夫ですか?王妃陛下」

シュスレイアは知らない。その呼び名がどれだけライラにとって大きな意味を持っていたのかを。
かつて、幸せだった頃の呼び名。自分自身の勝手な望みの為に、ぶち壊してきた幸せの。

「シュスレイア様・・・いいえ、シュア様。私は王妃陛下ではありません。今も、この先もずっと。そんな資格など無いのです」

ここで王妃になるのなら、あのままで良かったのだ。わざわざ捨ててきた地位に、今更戻る資格も意味もない。

「わたくしは」

俯くライラの手を取り、シュスレイアは真摯な様子で言葉を紡ぐ。

「あなたに王妃になる資格がないとは思いません。先程のトゥーラ姫とのやり取りを見ていて、この方なら大丈夫だと、そう確信しました。それに何より、あなたは王が気に入った方」

ここまで言われて嬉しくないはずがない。しかも国王の妃であるシュスレイアにだ。

「・・・ありがとうございます」

でも。
今にも泣き出しそうに顔を歪め、それでも顔を上げた。そしてすうっと息を吸い、毅然と背筋を伸ばし、きちんと瞳を合わせて言う。

「私は本当に王妃になるつもりはないのです」

何の為に此処にいるのか忘れるわけにはいかない。

「王妃になる事よりも大事な、願いがありますから・・・」

その言葉に宿る強さは、そこにいた全ての者達から言葉を奪った。
さり気なく手を引く紫杏しあんに気付いて、ライラは有り難く思う。

「失礼します」

静かに立ち去る背中は、声を掛けられる事を拒否していた。




「ヴァイネル」

宴が終わってすぐ、庭を歩いていたヴァイネルはシュスレイアに呼び止められた。

「あの子を正妃にするのはやめましょうね」

あの子とはもちろんライラの事だ。

「もともと本気でそうするつもりではなかったのでしょう?あの子がそのつもりなら別でしょうけど」

さすがにヴァイネルの妃である。彼の事は誰よりもわかっていた。
最初は何故ライラを正妃にしようとするのか全くわからなかったけれど、今ならわかる。直接ライラに会って話をした今なら。

「幸せになって欲しかったのでしょう?同じ位の年齢だものね」
「・・・あぁ」

望む通りにしてやりたかった。初めて会った時から、深い哀しみを抱いているのを知っていたから。
何とかして取り除いてやりたかった。けれどどうして良いかわからずに。
だからせめて、何不自由ない生活を、と。
幸い他の妃も気の良い者達ばかりだ。いつか哀しみは消してやれると思った。
現実は違ったけれど。余計に哀しくさせたけれど。
本当はそうじゃなかった。

「苦しんで、それでも負けないと、強くあろうと胸を張っている。同じだったんだ。妹と」

九つ離れた、現在十五歳の妹がいる。
産まれた時から目も耳も口も、全てが働かなかった、暗闇に閉じこめられた妹。今も、彼女は光を知らない。言葉も、音さえ知らない。
何をする事も出来ず、森の奥深くの別邸で静かに暮らしている。
遠く森に想いを馳せ、ヴァイネルは瞳を閉じた。

「幸せになって欲しい」

それが望み。
叶えてやれない望み。

「シストも」

心から願う。

「私の妹とか、他の誰かの代わりではなく。シスト自身が幸せになって欲しい。今は、そう思う」

ほんの数日の付き合いだけれど、彼女は人にそう思わせるだけの魅力がある。
美しさと、知性と。そこから想像も付かない程の強さと。
人の上に立つ器。
守られたい。守ってやりたい。そう思わずにはいられない女性。


書簡が届いたのは、それから一週間後の事だった。

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