モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件
番外ルリア編 鬼姫の宝物
私たちが凶手の少年と戦ったあの日から、既に一年以上の月日が流れました。
あの日以来、アンドルクたちの情報網には、彼らの足取りがパタリと途絶えたままです。
捜査局によって捕らえられた、マギルス子爵を初めとした貴族たちは、人身売買に加担したとして多くの者が処罰されたと聞きました。
これは幸いと言って良いのかは分かりません。
ですが彼らの蠢動が途絶えたことで、私はお腹の子が生まれるまでの間を穏やかに過ごせました。
窓越しに差し込む日差し、居室の中は柔らかい暖かさで満ちています。
朝晩にはまだまだ暖炉に火を入れなければなりませんし、野外に吹く風は、いまだ強い冷気を含んでいますが、ゆっくりとした春の訪れが感じられるようになってきました。
「バァ……アゥァ……」
「まあ、ロジャー? どうしたの」
座っているソファーの上、そこに置かれた赤ちゃん籠の中で、初子のロジャーが僅かにむずがり出しました。私は、ようやく首の据わりだした我が子を慎重に抱き上げて、胸元に寄せてあやします。
「あらあらどうしたのかしら? おむつは替えたばかりだし、お腹が空いたの?」
ゆったりとした上衣をはだけてロジャーの口元を胸元へと寄せると、慣れたもので乳房に吸い付きました。そして、もぐもぐとお乳をふくみます。
そんな我が子の姿がこれほどに愛おしく、そしてなんと安らいだ気持ちになることでしょう。
心の奥底から溢れてくる思いに自然と口角が緩みます。
「あらあらやっぱり。お腹が空いていたのね。……でも影響がなかったようで良かったわ」
懸命にお乳をふくむロジャーをしみじみと見下ろして、私は小さな安堵の息を吐きました。
ロジャーの妊娠が分かったあのときは、喜びが先に立ちましたが、あの直前まで魔闘術を多用していたことに一縷の不安があったのです。
それは、人それぞれに持つ魔力の質が違うことでした。
私たち人間は七大竜王様と六大精霊王から加護を頂いており。魔力にはその加護の力が宿っているとも言われています。
通常ならば気にするほどではないのですが、強い魔力を持つ魔法使いは、妊娠中魔具の作製や魔法薬の生成を控えるそうです。強い魔力を体内で動かすと、母が持つ魔力の質と赤子が持つ魔力の質の違いによって、赤子に大きな負担が掛かるからです。それによって最悪、赤子が流れてしまう事も多いのだそうです。また流れずとも何らかの障害を抱えてしまう場合もあるといいます。
ただ非常にまれな事ですが、障害ではなく強力な魔力を授かったという例もあったそうですが……。
そのような事情もあって、体内で魔力を身体強化の力へと変質させる魔闘法を使う私とアネットは、赤子がお腹の中にいる間は、魔闘法を使わないようにと、お父様より強く言い含められておりました。
オーダンツより続く我がオーディエントの血族の中で、女ながら魔闘術を修めたのは私とアネット、そしてエステラお祖母様だけです。
ただお婆さまは私やアネット姉様とは違い、戦う為では無く、術が医療に応用できるのではないかと考えて魔闘術を修めたそうです。
魔闘術を自身では無く、傷病者の体内に使い、一時的に運動能力を強化することで、彼らの身体機能の回復を助けるのです。
自身の身体強化でさえ、術の制御を誤ると大怪我をするというのに、他者の肉体に作用させるのですから、術の制御の困難さは、想像を絶するものです。
私もお婆さまから手ほどきを受けたものの、他人の人生を左右するかもしれないという思いが頭を誤り、結局その術を修めることはできませんでした。
こと術の制御に関しては、お祖母様が一族最高の使い手だといわれています。
そのお婆さまでさえ、お父様たちを身ごもった時には術を使わなかったと聞きました。
「アブゥ……」
「まあロジャー、もういいの?」
ロジャーの健やかな様子に安堵して、少し考え込んでしまいましたら、その間にお腹も満ちたのでしょう、ロジャーが乳房から口を離していました。
私はロジャーを立てるようにして抱き寄せると、おくびをさせる為に軽く背中を叩きます。
そうしていると、居室の扉が開いてアネットが入ってきました。
彼女の手には、換えのおむつや大布巾が抱えられています。
「ロジャーさまにお乳をあげていたのですか?」
縦抱きにしたロジャーの背中を、ポンポンと叩いている私を目にして、彼女は直ぐに事情を察したようです。
「こちらに納めておきますね」
アネットは部屋の奥へと進むと、赤ちゃん用の寝台の脇に置かれた棚に、手にしたおむつなどを収めました。
彼女は一仕事終えると、ロジャーをあやしている私をしみじみとした様子で見詰めています。
「ルリアに子育てができるのか少し心配していましたけれど、やはり母になればなんとかなるものですね……。オーダンツからの倣いでもありますが、あまり無理はしないように。私は授乳することはできませんけど、それ以外は手伝えますからね」
その瞬間だけ従姉妹のアネット姉様に戻って、彼女は言いました。
酷い言われようですが、正直私も、自分に子育てができるのか不安に思っていたので、拗ねてみせることもためらわれます。
「この子の世話をするくらいしか今の私にはできることがありませんけれど、そうでなくともできるだけこの子のことを見ていてあげたいの」
それは、私の素直な思いでした。
通常、貴族家では赤子の養育に乳母を頼むのが一般的です。
エヴィデンシア家の現状では、バレンシオ伯爵との因縁もあり、縁戚貴族との付き合いも途切れているためそうもいきません。また現在我が家に仕えているアンドルクの方々も、時期悪く、子を成し授乳できる人はおりませんでした。
とはいうものの、私の実家であるオーディエント家を含む主筋、オーダンツから続く血族では、伝統的に実母が授乳しておりました。その方が子が逞しく育つと、私たちの血族では信じられているのです。
この事はロバートにも話したことがあったのですが、ロジャーが生まれたばかりの頃、乳母の当てがつかず申し訳ないと謝られてしまいました。
正直あのときには、何故謝られたのか直ぐには分かりませんでした。
貴族として当たり前の事が当たり前にできないことに対して、やはり彼には思うところがあるようです。
ただ私も、エヴィデンシア家が今の状況に陥っていなければ、夫人として、茶会など、貴族間の交流行事の差配に追われることになっていたはずです。
だとしたらここまでロジャーに掛かりきりになることはできなかったでしょう。
そもそも、エヴィデンシア家がこの状況に陥っていなければ、私とロバートとの出会いもまたあり得なかったはず。であったのならば、私が今この胸に抱く愛おしいロジャーも、また存在しない……。
私の頭に、とても罰当たりな思いが浮かび上がってしまいます。
「我が家の状況に感謝してしまうなど……」
邪な思いを頭から払い出すように僅かに首を振ると、その呟きを耳にとらえたのでしょう。
「何か仰いましたか、ルリアさま?」と、部屋の奥でアネットが振り返りました。
昼にはまだ早いものの、力を取り戻しつつある陽光によって、部屋の中が少し汗ばむほどに暑くなっています。それを察したアネットが、薄く窓を開けました。
スーッと、冷気を含んだ外気が室内を巡り、肌をさする微風が心地よく感じられます。
胸に抱いたままのロジャーは、いつの間にかうつらうつらとの眠りの淵に落ちていました。
そのかわいらしい寝顔を見詰めて、私は今このときの幸せを噛みしめるのでした。
あの日以来、アンドルクたちの情報網には、彼らの足取りがパタリと途絶えたままです。
捜査局によって捕らえられた、マギルス子爵を初めとした貴族たちは、人身売買に加担したとして多くの者が処罰されたと聞きました。
これは幸いと言って良いのかは分かりません。
ですが彼らの蠢動が途絶えたことで、私はお腹の子が生まれるまでの間を穏やかに過ごせました。
窓越しに差し込む日差し、居室の中は柔らかい暖かさで満ちています。
朝晩にはまだまだ暖炉に火を入れなければなりませんし、野外に吹く風は、いまだ強い冷気を含んでいますが、ゆっくりとした春の訪れが感じられるようになってきました。
「バァ……アゥァ……」
「まあ、ロジャー? どうしたの」
座っているソファーの上、そこに置かれた赤ちゃん籠の中で、初子のロジャーが僅かにむずがり出しました。私は、ようやく首の据わりだした我が子を慎重に抱き上げて、胸元に寄せてあやします。
「あらあらどうしたのかしら? おむつは替えたばかりだし、お腹が空いたの?」
ゆったりとした上衣をはだけてロジャーの口元を胸元へと寄せると、慣れたもので乳房に吸い付きました。そして、もぐもぐとお乳をふくみます。
そんな我が子の姿がこれほどに愛おしく、そしてなんと安らいだ気持ちになることでしょう。
心の奥底から溢れてくる思いに自然と口角が緩みます。
「あらあらやっぱり。お腹が空いていたのね。……でも影響がなかったようで良かったわ」
懸命にお乳をふくむロジャーをしみじみと見下ろして、私は小さな安堵の息を吐きました。
ロジャーの妊娠が分かったあのときは、喜びが先に立ちましたが、あの直前まで魔闘術を多用していたことに一縷の不安があったのです。
それは、人それぞれに持つ魔力の質が違うことでした。
私たち人間は七大竜王様と六大精霊王から加護を頂いており。魔力にはその加護の力が宿っているとも言われています。
通常ならば気にするほどではないのですが、強い魔力を持つ魔法使いは、妊娠中魔具の作製や魔法薬の生成を控えるそうです。強い魔力を体内で動かすと、母が持つ魔力の質と赤子が持つ魔力の質の違いによって、赤子に大きな負担が掛かるからです。それによって最悪、赤子が流れてしまう事も多いのだそうです。また流れずとも何らかの障害を抱えてしまう場合もあるといいます。
ただ非常にまれな事ですが、障害ではなく強力な魔力を授かったという例もあったそうですが……。
そのような事情もあって、体内で魔力を身体強化の力へと変質させる魔闘法を使う私とアネットは、赤子がお腹の中にいる間は、魔闘法を使わないようにと、お父様より強く言い含められておりました。
オーダンツより続く我がオーディエントの血族の中で、女ながら魔闘術を修めたのは私とアネット、そしてエステラお祖母様だけです。
ただお婆さまは私やアネット姉様とは違い、戦う為では無く、術が医療に応用できるのではないかと考えて魔闘術を修めたそうです。
魔闘術を自身では無く、傷病者の体内に使い、一時的に運動能力を強化することで、彼らの身体機能の回復を助けるのです。
自身の身体強化でさえ、術の制御を誤ると大怪我をするというのに、他者の肉体に作用させるのですから、術の制御の困難さは、想像を絶するものです。
私もお婆さまから手ほどきを受けたものの、他人の人生を左右するかもしれないという思いが頭を誤り、結局その術を修めることはできませんでした。
こと術の制御に関しては、お祖母様が一族最高の使い手だといわれています。
そのお婆さまでさえ、お父様たちを身ごもった時には術を使わなかったと聞きました。
「アブゥ……」
「まあロジャー、もういいの?」
ロジャーの健やかな様子に安堵して、少し考え込んでしまいましたら、その間にお腹も満ちたのでしょう、ロジャーが乳房から口を離していました。
私はロジャーを立てるようにして抱き寄せると、おくびをさせる為に軽く背中を叩きます。
そうしていると、居室の扉が開いてアネットが入ってきました。
彼女の手には、換えのおむつや大布巾が抱えられています。
「ロジャーさまにお乳をあげていたのですか?」
縦抱きにしたロジャーの背中を、ポンポンと叩いている私を目にして、彼女は直ぐに事情を察したようです。
「こちらに納めておきますね」
アネットは部屋の奥へと進むと、赤ちゃん用の寝台の脇に置かれた棚に、手にしたおむつなどを収めました。
彼女は一仕事終えると、ロジャーをあやしている私をしみじみとした様子で見詰めています。
「ルリアに子育てができるのか少し心配していましたけれど、やはり母になればなんとかなるものですね……。オーダンツからの倣いでもありますが、あまり無理はしないように。私は授乳することはできませんけど、それ以外は手伝えますからね」
その瞬間だけ従姉妹のアネット姉様に戻って、彼女は言いました。
酷い言われようですが、正直私も、自分に子育てができるのか不安に思っていたので、拗ねてみせることもためらわれます。
「この子の世話をするくらいしか今の私にはできることがありませんけれど、そうでなくともできるだけこの子のことを見ていてあげたいの」
それは、私の素直な思いでした。
通常、貴族家では赤子の養育に乳母を頼むのが一般的です。
エヴィデンシア家の現状では、バレンシオ伯爵との因縁もあり、縁戚貴族との付き合いも途切れているためそうもいきません。また現在我が家に仕えているアンドルクの方々も、時期悪く、子を成し授乳できる人はおりませんでした。
とはいうものの、私の実家であるオーディエント家を含む主筋、オーダンツから続く血族では、伝統的に実母が授乳しておりました。その方が子が逞しく育つと、私たちの血族では信じられているのです。
この事はロバートにも話したことがあったのですが、ロジャーが生まれたばかりの頃、乳母の当てがつかず申し訳ないと謝られてしまいました。
正直あのときには、何故謝られたのか直ぐには分かりませんでした。
貴族として当たり前の事が当たり前にできないことに対して、やはり彼には思うところがあるようです。
ただ私も、エヴィデンシア家が今の状況に陥っていなければ、夫人として、茶会など、貴族間の交流行事の差配に追われることになっていたはずです。
だとしたらここまでロジャーに掛かりきりになることはできなかったでしょう。
そもそも、エヴィデンシア家がこの状況に陥っていなければ、私とロバートとの出会いもまたあり得なかったはず。であったのならば、私が今この胸に抱く愛おしいロジャーも、また存在しない……。
私の頭に、とても罰当たりな思いが浮かび上がってしまいます。
「我が家の状況に感謝してしまうなど……」
邪な思いを頭から払い出すように僅かに首を振ると、その呟きを耳にとらえたのでしょう。
「何か仰いましたか、ルリアさま?」と、部屋の奥でアネットが振り返りました。
昼にはまだ早いものの、力を取り戻しつつある陽光によって、部屋の中が少し汗ばむほどに暑くなっています。それを察したアネットが、薄く窓を開けました。
スーッと、冷気を含んだ外気が室内を巡り、肌をさする微風が心地よく感じられます。
胸に抱いたままのロジャーは、いつの間にかうつらうつらとの眠りの淵に落ちていました。
そのかわいらしい寝顔を見詰めて、私は今このときの幸せを噛みしめるのでした。
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