モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

番外ルリア編 エヴィデンシア家と放浪の催眠術師

 ハイネン男爵が殺害されたあの日より、早いもので既に三月ほどの月日が流れました。
 セバスが予想していたように貴族街の警邏が強化されたことと、次の標的であるヒメネス子爵が、夜会などの外出を控えている為です。
 私たちが次の機会を待つ間に、季節はオーラスの短い夏を通り過ぎて、朝晩は薄ら寒く、袖の長い上着を着込まなければならなくなってまいりました。

 そんなある日、エヴィデンシア家の応接室には、見慣れない人物が招かれておりました。
 収まりの悪い、緩く巻いたような黒髪に濃緑色の虹彩を持つ、端正な顔立ちをした優しげな風体をした三十代手前ほどの年齢に見える男性です。
 カナン・ラティーフという方で、風の民ヴィンディ-であるそうです。
 彼は多くの風の民ヴィンディーがそうであるように、淡褐色たんかっしょくの肌をしておりました。
 大陸南方に多い肌色ですが、私たちの住まう西方諸国は、五百年前、邪竜戦争前後の戦乱の時代に、比較的大きな人種の交わりがありましたので、彼のような肌色を持つ方も街中で見掛けることがあります。
 ですがこの土地で生まれ育った人間とは、あきらかに纏っている雰囲気が違っておりました。

 彼は、ハイネン男爵が殺害された後、アルフレッドの手配によって見つけられた、催眠術の錬師です。
 アルフレッドはあのあと直ぐ、首都オーラスやオルトラント王国内だけでなく、風の民ヴィンディーたちの氏族が、旅の合間に集い、情報交換をするという南方のトランザット王国とペテルギア帝国の西端が接する地へと、配下の人員を遣わせたのです。
 そこで私たちの要望に応えて、オルトラントへとやって来てくださったのがカナンさまでした。
 彼は、長テーブルの短辺。彼の座る席からは斜めに位置する場所に座っている私たちへと視線を向けます。
 いま応接室で彼と応対しているのは、ロバートと私です。
 私たちの背後にはアルフレッドとアネットが控えておりますが、カナンさまは私たち……正確にはロバートへと意識を向けています。

「……あなた方の気懸かりは杞憂ではなかったようですね。確かに、彼には暗示が仕込まれていました」

「……ほんとうに……」

 考えすぎであればと思っていた懸念が、事実であったと知れて、私は小さく呟いてしまいました。
 ロバートは深刻な表情を浮かべて、カナンさまに視線を返します。

「トナム殿には、いったいどのような暗示が掛けられていたのかな?」

 ハイネン男爵が殺害されたあの日、トナムさんに催眠術が掛けられている可能性がある事を、軍務部より帰館したロバートにも伝えました。
 さすがに私の行いを話しはしませんでしたけれど、『催眠術』といったものの存在。
 それを知った状態で考えてみれば、逆説的にはなりますものの、これまでの出来事でロバートが知った情報からも、その答えは導き出すことが可能でしたから。
 それに彼は、軍務部へと出仕する為に外出します。ですから身を守るためにも、敵方に催眠術を使う術者がいることを、知っておいてもらわなければなりません。
 
「トナムさんには、強い毒を含む特定の野草などを、常用される食材と誤認するように誘導されていました。……催眠の術が産まれたバンリ国ではよく使われる暗殺手法です。彼はこちらで調理をしていると聞きましたので、厨房や食料庫を調べさせて頂きました。誤認される食材はありませんでしたのでご安心ください」

 カナンさんの言葉を聞いて、ロバートはひとつ安堵の息を吐き、少し表情が柔らかくなりました。

「まあ彼は客人で、厨房の主人はエスコフだからね。食材に危険なものが入り込む事は無いだろう」

 カナンさまの言葉どおりならば、私たちがトナムさんと出会うことになったあの事件。その翌日に行われるはずだった、お義父様たちの食事会が狙われていたという事でしょう。
 ……ですが、そうしますと新たな疑問が湧き上がりました。

「あの、よろしいでしょうか。カナンさまには既に事の詳細が説明されていると聞いております。催眠の誘導で実行させる事ができるのでしたら、賊は何故正常な状態の彼に毒を盛るように指示をしたのでしょうか? 私たちとしてはそれで事が知れたので助かりましたが……」

 疑問が頭に浮かんだ瞬間、そう口を開いてしまいましたが、同時に私の背中には、叱るような気配が打ち付けられました。
 それは、当主であるロバートとカナンさまの会話に割って入ってしまった私に対する、アネットからの無言の戒めです。ロバートの斜め後ろに控えるアルフレッドは静観しておりますのに……。
 私の言葉を耳にしたカナンさまは、僅かに私の方へと視線を動かすと、どこかおもしろいものでも見るような表情を浮かべました。
 元々、このような重苦しい話の席に、女の私が居ることもそうでしょうが、口を差し挟んだことに対して、ロバートがたしなめないことを、意外に感じたかも知れません。
 私の中にそのような思いが浮かんでいる間にも、彼は表情を引き締めると、ゆっくりと口を開きます。ですがその彼の視線は、問いを発した私ではなくロバートへと向けられています。

「催眠の術は魔法ではありません。おそらく皆さんが考えているよりも、ずっと繊細なものなのです。本人が望んでいないことを実行させることは簡単なことではありません。その術者が事前に彼にそのような指示をしたというのならば――それはきっと『自分は拒絶した』。という認識を彼に強く植え付けるためでしょう。おそらくあなたたちがその場面に居合わせなかったら、彼らは申し出を取り下げた後、トナムさんをなだめて、翌日調理をさせたのでしょうね……」

 彼はどこか測るような様子で言葉を止めます。
 それを受けるように、考え込むようにして聞いていたロバートが、カナンさまに応えました。

「それは……。犯行を思いとどまったとトナム殿に安堵させたうえで、誤認する毒草を食材として使わせてようとした。――そういうことだろうか?」

 その口調は、難しい問題の解を答えるような感じです。

「まさにその通りですよエヴィデンシア伯爵。ご理解が早くなによりです。ただ暗示を仕込んだだけならば、トナムさんは、紛れ込ませた毒草に強い違和感をおぼえ、それが切っ掛けで催眠が解けたかもしれません。――怒りと否定。そしてその後の安堵。それによって彼を油断させることが目的だったのでしょう」

 彼の説明には、確かにひとつの理を感じました。
 戦いにおいても、怒りは判断を誤らせます。そしてさらに言うのならば、その怒りが抜けた瞬間ほど人は致命的な隙を晒すものなのです。
 ロバートも、カナンさまの説明に納得した様子ですが、彼はゆっくりとテーブルの上で両の手を握り合わせると、少し前のめりの体勢になって、口を開きます。

「……それで、トナム殿に掛けられていた暗示というのは、解くことができるのだろうか?」

 そう、トナムさんに催眠術が掛けられていると判明した以上、これこそが本題なのです。
 ロバートのその問いに、カナンさまも表情を正しました。 

「……彼に掛けられていた暗示は、複数の条件を組み合わせた、なかなかに厄介な掛け方をされておりました。ですが幸いなことに、私の技術が及ぶ範囲のものでした。――解くことは可能です」

 それは嬉しい報告でした。しかしカナンさまは、その表情に愁いの影を滲ませて、さらに言葉を続けます。

「ただし、解くことは可能ですが、時間が必要です。暗示を解く鍵となるモノを見つけなればなりません」

「暗示を解く鍵?」

「ええ、それは言葉であったり、物、画などのようなモノであったりします」

「……それは、催眠術を掛けた本人でなければ分からないのでは?」

「いいえ伯爵。今一人居るではありませんか……」

 ロバートの疑問に対して、カナンさまはどこか思わせぶりな――まるで謎かけを楽しむ童子のような表情を浮かべます。
 困惑しながらも考え込むロバートの横で、私も考えます。
 あの事件のとき、トナムさん以外にあの場所に居たのは、バストン子爵家の従者と凶手の少年。
 そして殺されてしまった料亭の亭主と下働きですが、彼の言っている事は、そういう意味ではないでしょう。
 術を掛けた本人以外……

「……! まさか!?」

「ルリア? 分かったのかい?」

「……術を掛けられたトナムさん――自身ですか?」

 私の吐き出した答えを受けて、カナンさまが片眉を挙げて私を見詰めました。
 先ほどまでと違い、今度の視線はしっかりと私に向かっています。

「奥方は鋭い方ですね。ええそのとおりです」

 彼はハッキリと私に向かって微笑みました。

「失礼ながら……私は、伯爵が何故奥方をこのような話に参加させているのか、不思議に思っておりました。しかしこちらへとやって来る前に伺った、オルトラント王国でのエヴィデンシア伯爵家の窮状。その家へと嫁いでこられた奥方は、只者ではなかった……ああ、申し訳ございません。今のは失言でした」

 カナンさまはそこまで言ったところで、ロバートが僅かに顔を顰めていて、私が戸惑い顔になっていることに気付いたようでした。
 彼は、仕切り直すように小さく咳払いをして、言葉を続けます。

「ええ、その……奥方が気付きましたが、術をかけられた本人にも、鍵となるモノの記憶は残っています。ですがそれは、普段は忘却されるように誘導されているのです」

「カナン殿。貴男にはその記憶を呼び起こせる……ということか」

「はい。人の記憶はたとえ忘れてしまった物事でも、頭の中にはしっかりと残っているものなのです。催眠の術の中には、記憶を過去へと遡る事で、忘却の淵より浮かび上がらせることができる『逆行催眠』と呼ばれるモノがあります。それを使えば不可能ではありません。……ただ、そちらにも罠が仕掛けられている可能性がありますので、時間をかけて慎重に進めて行かなければなりません」

「トナム殿は我が家の事情に巻き込まれたようなものだ。彼の身に危害が及ばないようにお願いする。――それで、他の者は?」

「侍女のアルドラさんでしたか、彼女に暗示が仕込まれた形跡は診られませんでしたのでご安心ください。それから……」

 カナンさまはそう言うと、私の方――いえ、私の背後に控えるアネットへと視線を向けました。

「そちらのアネットさん……から聞いた、催眠の術者らしき者の外見が曖昧になっているという話ですが。それは、どうやら催眠術と言うよりも奇術の類いですね」

「奇術ですか?」

「そうですね。これを見てください」

 カナンさまはそう言うと、隠しから一枚の硬貨を、右手の親指と人差し指でつまむようにして取り出すと、硬貨を上にしてこちらへと差し出しました。

「よく見ていてください……」

 彼は差し出した硬貨を左の手のひらで包み込むようにして横にずらします。
 右手の指先でつまんでいた硬貨は、左の手のひらの中へと握り込まれたように見えました。
 カナンさまは硬貨を握った左手を、私たちの方へと向けたまま、ゆっくりと開いてゆきます。

「なッ!? 硬貨は……」

 ロバートが驚きの声を上げました。
 それは、カナンさまが開いた左手には、握り込んだはずの硬貨が消えて無くなったからです。
 彼は丁寧にも、右の手も開いて私たちへと向けて見せます。
 それを見て、ロバートはさらに驚いた表情を浮かべました。
 ですが、私は彼の一連の動作から、硬貨の場所を指摘します。

「カナンさまの右の袖……。左手で握り込むように見せかけて、袖の中へ落としましたね」

「おやおや、ばれてしまいましたか。素人の手慰みとはいえ巧くできたと思ったのですが」

 カナンさまは、悪戯が見つかった子供のように笑いました。
 そして右腕を軽く振るようにしたあと、右手を上に向けると、その指先には先ほどの硬貨がありました。

「この奇術の種はばれてしまいましたが、つまりは……」

「視線の誘導……という事ですね?」

「そのとおりです奥方。貴女たちが対峙したという――少年ですか? 何か、それに強く目を奪われるような特徴があったのではないですか? 対峙したのが短い時間であったのならば、なおさらひとつの点に意識を奪われれば、記憶というのは急速に曖昧になりますから」

 彼のその説明は、確かに現状最も説得力のあるものでした。
 ですがそれは、幼少期より戦士として仕込まれたアネットと私……。ふたりがあの少年に出し抜かれたということです。
 彼によって、トナムさんに仕込まれていただろう暗示を取り除く目処は立ちました。
 しかし、相変わらず敵は、私たちにその影を踏ませてはくれません。

 結局、当初からの予定どおり、ヒメネス子爵から話を聞かなければなりませんね。
 しかしその機会が訪れる時は、きっと敵方も十分な罠を張り巡らせていることでしょう。
 ですが見ていなさい。
 きっとその罠を食い破って、彼らの首筋に私の刃を突きつけてやりましょう。
 私は密かにそう決意しました。

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