モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第五章 モブ令嬢と当て馬だった旦那様(一)

「レオパルド君……フローラのことを頼んだ。痺れはそう時を経ずに取れるはずだから」

「そっ、それは、承りますが……しかし、グラードル卿、大きな戦力であるフローラ嬢をこのような状態にして、貴方はいったい何をやるつもりなんですか?」

 レオパルド様は、旦那様の行動の訳が分からずそう仰いました。

「パパ、ママはどうしたの?」

 シュクルもこの状況を呑み込めずに、横たわった私に寄り添います。
 ああ、シュクル……旦那様を止めて、お願い……。
 私のその願いも虚しく、旦那様に優しく頭を撫でられている、シュクルは嬉しげに喉を鳴らしています。

「ママは少し疲れただけだから、シュクルもママを見ていてやってね……」

 旦那様が、愛おしそうに私の頬に触れ、そうして意を決したように立ち上がりました。

「なるほど……グラードル卿。このような使い方を考えていたから、一定量以上服用しないと効果を現わさないように指定したのか……。もしかして君は、あれを私に頼んだときからこのような事態が起こる可能性を考えていたのかね?」

 不意に……そう響いた声は、間違いようもなく、アンドゥーラ先生です。
 先生の声は旦那様の向こうから響いてきました。
 月光に照らし出された先生の美しい顔が、地面に横たえられた私の視界に入ります。
 先生は、一瞬だけ私の側の地面に視線を走らせてから、私へと視線を向けました。
 私は……痺れで身体も口も巧く動かすことが出来ません。
 それでも私は、視線で必死に旦那様を止めてくださるようにと訴えかけました。先生は私の視線を受け止めます。ですが、視線に乗った思いを理解してくださったのかは分かりません。
 先生は、旦那様へと視線を戻しました。

「なるほど……フローラが金竜の愛し子であったというのは、真のことだったんだね。……グラードル卿、君はいったい何をやろうとしているのかね? いまの君がこのような行動に出るのだ、この状況を何とかできる算段があるのだろう? 私を納得させるだけの理由を示さなければ、弟子のために是が非でも止めさせて頂くよ」

 アンドゥーラ先生は、私の外見の変化にはあまり関心の無いご様子で、旦那様に声を掛けると胸元からワンドを取り出して構えます。

「アッ、アンドゥーラ卿。いったいいつの間に……」

「……丁度、君がフローラに口づけをしていたところにね……。私はここでは役立たずだが、君たちのために力になれるであろう強力な援軍を連れてね」

 アンドゥーラ先生は視線の動きで、ご自分の背後にどなたかがおられることを示します。

「……その、私、なにかとんでもないところに、とんでもない時に連れてこられたような気がするのですが……」

 そう仰りながらこちらへやって来たのはサレア様でした。……先生、まさか、詳細を話さずに連れてきたのでしょうか?

「サレア様……アンドゥーラ卿、このような危険な場所にサレア様を……」

 旦那様もいまの状況を忘れてそのように仰いました。
 ですが、先生はニコリと笑います。

「……ああ、毒霧のことは聞いている。安心したまえ、別に飛んできた訳ではないからね。マリーズ嬢が、バルファムート様の結界の中に守られていることは知っていたのでね。瞬転魔法で転移する場所を彼女の近くの安全な場所に条件付けることで、このようにやって来る事ができたわけだ」

 ……先生……またですか。しかも今度はサレア様まで巻き込んで。巧くいったから良いものの……。
 このような状態でなければ、私も思わずアンドゥーラ先生に説教してしまうところでした。

「それよりも、先ほどの答えを聞きたいのだがね? 早くしなければフローラの痺れが抜けてしまうよ。そうなったら、君がなにをやろうとしても力ずくでも彼女はそれを止めるだろうね」

 先生は、私の想いを理解してくださっています。ですが現実主義者でもある先生は、旦那様がやろうとなさっていることに利があると認めれば、それを止めることはなさらないでしょう。
 ああ、早く……早くこの痺れが抜けてください!
 私は、一縷の望みを掛けてサレア様に視線を向けます。
 アンドゥーラ先生以外で、私のこの状態を治せる方は居ないと考えたからです。ですがサレア様は、すでにマリーズの方へと去ってしまっておりました。
 考えてみれば、アンドゥーラ先生がサレア様を連れてきたのは、この戦いの中で私たちの守りを担っているマリーズのことを考えてだったのでしょう。
 マリーズはこの戦いが始まってより、バルファムート様による癒やしと魔法薬を使った癒やしによって体力の回復をはかって居たのです。マリーズへの癒やしをサレア様が担ってくれるだけで、バルファムート様とマリーズの負担が大きく減るはずです。

「……分かりました。アンドゥーラ卿、俺がなにをやろうとしているか話します。きっと竜王様方も聞いているでしょうから……丁度良い」

 旦那様はそう仰ると、私とシュクルを慈愛を込めた視線で見つめてから、アンドゥーラ先生へと視線を戻しました。
 静かに……そうしてハッキリと、旦那様は口を開きます。

「おそらく……いま俺の中には、新たに生まれた黒竜王様の聖杯ムガドがあります」

「なッ! それは真かね!?」

 まさか……そんな、なっ、なぜ旦那様はそのような事を……。
 アンドゥーラ先生も、左の眼窩に嵌めた片眼鏡モノクルを落としそうになるほど目を見開きました。
 旦那様は私たちの驚きをよそにそのまま続けます。

「クルークの試練を終え、王都を防衛した後、フローラから俺が助けられたときの話を聞きました……。私の身体の中に消えたという、黒い杯の事を……その時は僅かな疑問だったのです。それはただ私の魂を留めて置くために使われた器だったのかと……」

 そこで言葉を切った旦那様は、一度サレア様が去っていった方向に視線を向けました。

「ですが考えてみると、この世界において、失われた人の命を回復する力というモノの存在を私は知りません。それは……ゲームの中でもでした。癒やしの術は強力ではありますが完全ではない。エヴィデンシアの義父ちち上や私のこの顔の傷がそうです。複雑骨折や時間が経過しすぎた傷は完全には治りません。竜王様は他の竜王様方が生きておられれば復活なされる事が可能ですが、元々神によってそのように定められた存在です。その竜王様が、五〇〇年の時を経てもまだ復活しておられない。なのに大幅に削られたという私の寿命が簡単に回復できるでしょうか?」

 旦那様は、私たちがこうして話をしている間も、邪竜の泥濘の触手から逃れながら、空を舞い、地を駆けて攻撃を繰り返しておられる竜王様方に視線を向けます。
 その視線の先にはクルーク様がおられるのが分かりました。

「私の削られた寿命は、いまだ目覚めない黒竜王様の命を借りて保たれているのです。……そうですよねクルーク様」

『何故……まさか、それだけのことで……、それだけのことでそこまで思い至ったのですか!?』

「別に、それだけでそう思ったわけではありません。……この、私に下賜された甲冑、さらに盾に剣、そうして偽神器シュギン……。命を助けて頂いただけで十分であるモノを……それに、たとえ金竜王様と銀竜王様の子であるシュクルを託したからといっても、どう考えても過分なモノが私に下賜されている。考えているウチに思い至りました。……クルーク様は私が定められた寿命をまっとうするあいだ、間違えても私の身に何かあってはならないと、これらの品物を下賜なされたのではないのですか?」

 ああ、私は何故そのことに思い至らなかったのでしょうか……。こうしてあげ連ねられますと、確かに不自然に感じられます。

「それに、そのように考えているからではないと思うのですが……感じるのです。この身に、私以外の何かが息づいているのを……」

「グラードル卿、まさか君は……」

『グラードル……まさか貴方……』

 アンドゥーラ先生とクルーク様の言葉が重なりました。
 旦那様はお二方の言葉を受け、とても優しい透き通るような微笑みを浮かべて口を開きます。

「いまの私ならば……黒竜王様の力を発現することが可能だと思うのです」

「やはり……君は、その身を犠牲にするつもりか? アンドリウス陛下と顔を合わせたときに、少し話は聞いた。あの邪竜は五〇〇年前のトーゴの王が、聖杯を零落させた結果のものだと。もしも、もしもだ――君が第二の邪竜にならないという保証がどこにある!」

『………………』

 アンドゥーラ先生はそう疑問を呈しました。ですがクルーク様は言葉を発しません。それは、旦那様の考察を肯定しているようです。

「私が、聖杯を零落させるような穢れた欲望を抱えた人間だとしたら、そもそもクルーク様はフローラに試練など与えなかったでしょう。……いま、この身の内にある聖杯は零落せずに保たれている。……私は、決して無謀な賭けをしようとしているのではありません。……ひとつ、ひとつだけ不安があるとすれば、聖杯の浄化の力が間に合わずに邪な欲望に呑まれてしまうことでしょうか。いまの私になる前まで、その欲望に呑まれていた私にはそれだけが不安です……」

 旦那様は、遠くに見える邪竜に視線を走らせました。

「……それは最悪の事態です。ですが、仮にそうなったとしても、穢れた欲望は大きく浄化できるはずです。いまの邪竜を倒すよりは大幅に楽になるでしょう……。最高の結果は、私が穢れた欲望に呑まれることなく、あの邪竜に満ちる穢れを浄化することですが……もしもダメだったときは、黒竜王様の復活がさらに遠のいてしまい……お手を煩わせることとなります。その時は皆さん……お願いします」

 旦那様は、この場に居る皆様に、深く……深く頭を下げました。

「…………なるほど。決してむやみに命を投げだそうというわけではないのだね……」

 アンドゥーラ先生は、悩むように腕を組みます。

「……アンドゥーラ卿、そうやってフローラの回復を待っているのでしょうが、時間が差し迫っていますので私はもう行かせて貰います」

 旦那様は私の状態を確かめるように一度視線を落とすと、背中を向けて歩き出しました。
 私は必死に痺れた身体に力を込めて、僅かに首を動かします。
 遠くに見える邪竜へと向かって足を進める旦那様。
 ……おそらく邪竜は、モーティス公爵領の主都リューベックまで、もう一ベルタほどの距離まで近付いているでしょう。
 その邪竜を追う彼を見送って、アンドゥーラ先生は手にしたワンドを所在なさげにもてあそびながら、私に視線を落とします。

「……困った。もっと無謀な考えだったら止めるつもりでいたのだが……。フローラ、すまない……。どうやら私は彼に説得されてしまったようだ……」

 ああっ……旦那様。これはとても我が儘な私の――罰当たりな想いです。私は旦那様と共に滅びるのであれば……それでさえ嬉しいと思えるというのに。

「……ママ? どうして泣いてるの?」

 動くことができずに、ただ涙を流した私を見て、シュクルが不思議そうにそう言いました。

「ュ……シュ、クル……パッ……パを、パパを……止めて、お願い!」

 シュクルにそう懇願の言葉を掛けている内に急速に身体の痺れが抜けて行きます。
 魔法薬による麻痺は、その効果が素早く現れたのと同様に、消えるときもあっという間でした。
 おそらく旦那様は、ゲームという物語の中の出来事から、このような最悪の事態をも選択肢の中に入れていたのでしょう、それで旦那様が力を使う間だけ私を止めておく為の手を講じられた。……私が、完全な足手まといにはならないように……。
 魔法薬の効果が切れた私は、素早く起き上がって胸のストラディウスを顕現させます。
 使うのは拘束の魔法……、緑竜王リンドヴィルム様の神器、聖鞭リンヴィルの力を借りました。
 ですが……その拘束の力は僅かに遅かったのです。
 旦那様のその身から黒い霧が噴きだし、私の放った魔力はその霧によって形をなす前に霧散されてしまいました。
 それは旦那様の身が、自身に悪影響を与える魔法を無効化する、竜王様方と同じ存在へと変じてしまった証です。

 ああ……旦那様……

 私は、ガクリと足元から崩れ落ちます。
 身体中から力が抜けてしまいました。人である旦那様が神器の力で竜王様の身へと変じたのです。
 仮にこの事態を円満に解決できたとしても、その身にどのような影響が現れるか……、旦那様はリュートさんを押し止めておいででしたが、リュートさんの性分化と同じように、人の身に戻れなくなっても不思議ではございません。

「フローラ! しっかりしなさい!! まだ何も始まっていない! 全てが巧く行く可能性もあるのだ。ならばその可能性を少しでも高めるために力を尽くしなさい!! いまこそ君の、そのストラディウスの力が必要なときだろう!」

 アンドゥーラ先生に叱咤されて、失意のあまりほうけかけていた私の意識は急速に覚醒いたしました。
 確かに先生の仰るとおりです。
 私は、ストラディウスをバリオン形態へと変化させて、竜王様方の神器と皆の偽神器の力を強化します。

 その間にも、旦那様の身を覆った黒い霧はどんどんと深まり大きく広がって行きます。
 邪竜の発する濁ったような黒霧ではなく、漆黒で煌めきを放つような霧が、渦巻くようにどんどんと大きくなって行きました。
 …………そうして、その煌めきを放つ黒霧の中からそれは現れます。
 竜王様方と同じような巨大な竜……。
 その竜は黒曜石のような光沢を持った鱗に覆われた巨大な竜でした。
 旦那様が、黒竜王様の聖杯ムガドの力を使って変化した姿……。
 その旦那様の頭上に、その鱗と同じような光沢を持った聖杯ムガドが姿を現わします。
 バサリッ、と黒竜は大きく翼を広げました。
 黒竜となった旦那様の威容に、この場に居る皆が息を呑みます。
 その姿は……まさに黒竜王ヨルムガンド様と言って差し支えのないものでした。
 大きく広げた翼を羽ばたかせて、彼は飛び立って行きます……。
 私は、旦那様に届け……と、心の底から湧き上がる彼への想いを込め、ストラディウスを奏で始めました。
 ストラディウスから響き始めたその音は、私の想いの程を現わすように力強いものの、どこか悲しく響き渡ったのです。

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