モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件
第五章 モブ令嬢と遅れてきたヒロイン
「初めましてエヴィデンシア伯爵。……私はオーランド・スレイン・レンブラントと申します」
私たちが応接室へと入り、席へと足を進めましたら、オーランド様と、彼が伴ってきたという女性が席を立って礼をいたしました。
「……こちらは、クラリス・ウィザー嬢。彼女は南東のベイルバーン子爵領からの奨学生です」
「……クラリス・ウィザーと申します。エヴィデンシア伯爵……」
クラリス・ウィザーと名乗った彼女は、身長は私より少しだけ高いでしょうか……、旦那様が仰っていたように茶色っぽい金髪で、金色の瞳をしておりました。
旦那様は雰囲気が私に似ているとおっしゃいましたが、私からはなんとも言いがたい感じでございます。
ですが彼女は、貴族の令嬢と言われてもそのまま受け入れてしまいそうなほどの美貌を誇っておりました。
ただ、少々目尻が下がっておられて、どこか小動物めいた雰囲気を纏っていることは間違いございません。
もしかして私、旦那様より小動物扱いされているのでしょうか? ……そういえば、皆が私の子供の頃に似ているというシュクルは、私が小さな頃より活発すぎるものの、動物的と言えば動物的かも知れませんし……。
「初めましてオーランド君、クラリス嬢。グラードル・ルブレン・エヴィデンシアです。ご存じだとは思うが、こちらは、我が妻、フローラ・オーディエント・エヴィデンシアです」
「初めましてクラリスさん。……オーランド様とは昨日お目にかかったばかりですが……、その、よろしいのですか、オーランド様?」
「ああ……そういえば君は、あの遣り取りを聞いていたのだったね……フローラ嬢。君は誤解しているよ……」
オーランド様は僅かな時間、どう説明したものかと考えているように見えました。
「……彼女の出身領であるベイルバーン子爵領の領主、ベイルバーン子爵は、母方の叔母上の夫なんだよ。彼女のことは叔母上からも頼まれているんだよ」
「でしたら何故、メイベル嬢にそのことを話さなかったのですか?」
叔母様の頼みであるのならば、メイベル嬢に説明ししてもよかったと思うのですが。オーランド様は私のその問いに僅かに顔を歪めました。
……私、何か不味いことを聞いてしまいましたでしょうか。
ですが彼は、僅かに考え込んでから意を決したように、口を開きます。
「……これは、我が家の恥を話すようなものなので、ここだけの話にして欲しいのだが。……我が家の父上と母上は、その――仲が破綻してしまっているんだ。……元々は、自分のことは無視するのに、父上がメイベルのことは可愛がるものだから。その、怒りと言ったらいいのか、憎しみと言ったらいいのか、そんなものがメイベルに向いてしまってね……」
オーランド様は一度言葉を切り、切なそうに机の一点を見つめました。
「……あの子は小さい頃、それは母上に虐待されていたんだよ。長いこと俺が間に入って守っていたんだ。父上は仕事で帰ってこないこともざらだったからね。だけど、四年ほど前、そのことが父上にばれてしまってね……。母上は今、精神を病んでいると幽閉されてしまっているんだよ。……そんなものだから、父上は母上の身内の頼み事などに耳を貸さない。俺がメイベルにクラリス嬢の事を話さないのはね。メイベルの口から父上にこの事が伝わったら、彼女にもメイベルにも迷惑が掛るかも知れないからなんだ……」
……メイベル嬢があのようにオーランド様を慕っているのは、そのような過去があったからなのですね。
ですが……オーランド様は話しながら、とても言葉を選んでいるように見受けられました。いま話された内容だけでもとても重いものでしたが、もしかしたら、まだそれ以上に話すことが躊躇われる内情があるのかも知れません。
「……申し訳ございませんオーランド様。そのように家の内情を話させてしまい……。それにしても、クラリスさんはそのことを……?」
私はオーランド様の隣に座るクラリス嬢に視線を向けました。
しかしその質問に答えたのはオーランド様です。
「ああ、彼女は我が家の事情を知っているよ。我が家を頼るようにと言われて王都にやって来たというのに、門前払いされていてね。そこを俺が偶然見かけたんだよ。こちらの事情が分からなければ彼女も混乱してしまうと考えてね。……まあそれで俺が、彼女の力になっているという訳なんだ」
「……オーランド様には、王都での住居と働き先までお世話頂きました」
クラリス嬢は、申し訳なさそうにそう付け加えました。
ベイルバーン子爵領といえば、ルブレン侯爵領から街道を逸れて五日ほど東に向かった新興の小さな開拓領地であったはずです。
クラリス嬢の言葉を受けて、それまで、私とオーランド様たちの会話を黙って聞いておられた旦那様が口を開きました。
「なるほど。それで……我が家を二人して訪れたのは?」
……そうでした。
話の流れで、レンブラント家の内情に立ち入ってしまいましたが、お二人が何故我が家を訪ねてきたのか未だに聞いておりませんでした。
私は、昨日の朝聞いてしまったメイベル嬢とオーランド様の遣り取りの中にあった話で、おおよその見当が付いておりましたが、旦那様には分からないはずです。
「実は、先の新政トーゴ王国の飛竜部隊による空襲で、彼女が世話になっていた宿が破壊されてしまったのです」
王都防衛戦の後。ノーラ様が、空襲の初撃によって第二城壁内の数カ所が破壊されたと仰っておられました。
その中のひとつが、クラリス嬢が住んでいた場所であったのですね。
「これまでは、学園でできた友人の家に厄介になっていたのですが、……さすがに心苦しく……、そのよう思っておりましたら、オーランド様が、エヴィデンシア伯爵家にて貴宿館という遠方領の学生向けの宿のようなものを運営なさっておられると仰って……」
「ああ……そういうことか」
事情は分かりましたが、旦那様が困った顔になってしまいました。
「……実はね。我が家が運営している貴宿館は、遠領の学生向けとは言っても、貴族の子息や子女を受け入れることを前提に考えられているんだ。食事と使用人による身の回りの世話まで含んで、一月に掛る家賃が四シガルになる。……その、奨学生ということは、学費を賄うだけで一杯一杯ではないかね?」
「……四シガル……オーランド様、私、そのような話……」
おそらく家賃の話は聞いていなかったのでしょう、クラリスさんがオロオロと目を泳がせて、オーランド様に視線を向けました。
「ああ、大丈夫だよクラリス嬢。……そのことについては、ファーラム学園長より聞き及んでおります。実は……彼女は今、農牧学部で学んでいるのですが、ファーラム学園長より、王国の魔道士強化の為、魔導学部へ転部する事を勧められました。ファーラム学園長は彼女の持つ魔力量と学園での成績は農牧学部に押し込めておくには惜しいと仰って、転部するのなら貴宿館の家賃をファーラム学園長が肩代わりしてくださるそうです。申し訳ございません。ファーラム様よりこちらの書状を預かっていたのでした」
オーランド様は、胸の隠しから書状を取り出して、テーブルの上へと置きました。
それをメアリーが受け取って、どこかから取り出したペーパーナイフと共に旦那様へと手渡しました。
旦那様は手紙に一通り目を通してから、私に手渡しました。
その書状には、貴宿館でクラリス嬢を受け入れて欲しいという願いと、家賃についてはファーラム様が肩代わりする旨が記されておりました。
ファーラム様が貴宿館の家賃を肩代わり……という事は、彼女が魔導学部へ転部したら、ワンドを下賜される成績を収めると確信なさっておられるのですね。
大賢者とも呼ばれたファーラム様が、そのように目を掛けているのでしたら、彼女の能力は相当に高いのでしょう。
それでも、私は彼女の真意を確かめたくて、口を開きます。
「あの、クラリスさんはよろしいのですか? 農牧学部という事は、学園卒業後にベイルバーン子爵領へと戻って、農業や牧畜の技術向上を図るおつもりだったのではないのですか?」
そう声を掛けたのは、彼女が自分の意思を曲げて転部なさるのでしたら、それは不幸なことだと思ったからです。
「……はい。私はそのつもりでおりました。ですが、ファーラム様が私が魔道士となればよりベイルバーン子爵領の力になれるだろうと、そう、仰っていたと……。私は、私を引き上げてくれたベイルバーン子爵様に、より力になれる道を進みたいと考えております」
彼女は、少し下がった目尻をキリリと引き締めて決意を滲ませました。
何年かの間、軍務部の魔道士としての出仕しなければなりませんが、その後はベイルバーン子爵家お抱えの魔導師として領主に仕える事も叶います。
私には、領地の食を支える農業や牧畜の重要性も、魔法を利用して成せる様々な事柄、そのどちらがより領地の為になるかは判別つきません。
ファーラム様や、領主様より奨学金を授けられる優秀な彼女が、魔導学部を選ぶのでしたら、きっとそれが正解なのでしょう。
私がそのように考えておりましたら、彼女は言葉を続けました。
「それに……ワンドは、この機会を逃せば手に入りませんが、農牧の知識はその気になればいくらでも学ぶことが出来ますから……」
そのように言って朗らかに笑った彼女に、私はとても圧倒されてしまいました。
この方の小動物めいた雰囲気に騙されましたが、彼女は強く、逞しい方のようです。
「……昨日の話を聞いていたのなら分かったろう。彼女は俺の好みからは外れているんだよ……君と同じだ」
オーランド様はどこか剽げた雰囲気で、私に向かって笑いかけました。
昨日の話と仰いましても……確か昨日聞いてしまった話ですと、私が心の弱い娘だったら手を差し伸べるつもりでいたそうですが、私を試して……私が強い人間だと感じたので、興味を失ったような事を仰っておりました。
……もしかしてオーランド様はとても庇護欲の強い方なのでしょうか?
小さな頃、虐待されていたというメイベル嬢を、ずっと守ってこられたことを考えましても、生来の気質なのかも知れませんね。
……ですがオーランド様は、メイベル嬢の心を自分から遠ざけようとしておりますが、それは本心からのものなのでしょうか? 私には、オーランド様の好みだと暗に示している女性像がメイベル嬢であるように思えてならないのですが……。
私の頭の中にそのような思いが浮かんでおりましたら、旦那様が耳元でぽつりと日本語で呟きました。
「『今朝言ったろ。彼女、君に雰囲気が似てるって』」
旦那様……それは、その、私が強いという事でしょうか?
私、自分が圧倒されたクラリス嬢に、雰囲気が似ていると言われて、なんだか承服しかねる心持ちになってしまいました。
私、その……、旦那様は時々口にしてくれますが、旦那様には可愛いと思って頂いていたいのです。
そのように私の心を乱しておきながら、旦那様はお二人に向き直りました。
「分かりました……。ファーラム様がこのように申し出られるのでしたら、クラリス嬢はベイルバーン子爵領だけでなく、オルトラント王国の為にもなる人材だと考えているのでしょう。すぐに部屋の準備をさせますので、クラリス嬢……いつなりと貴宿館にお越しください」
旦那様のその言葉に、オーランド様もクラリス嬢も安堵の息を吐きました。
あの王都防衛戦が始まった日から、丁度二十日になるはずです。
その間、友人とはいえ、他人の家に住まわせてもらっていた、気遣いによる心労もあったのでしょう。
ですが、いま旦那様も仰いましたが、先ほどベイルバーン子爵への恩義を口にしたクラリスさんを見て、私、ファーラム様の本当の目的が分かってしまいました。
彼女はとても義理堅い性格をしているようです。
これより学園卒業までファーラム様が彼女に援助なされる事は、間違いなく彼女を恩で縛ることとなりますし、ワンドを下賜する王国への恩も心に残るはずです。
ファーラム様は、王国が優秀な魔導師を一人得る一手を打ったのだと思います。
たとえ最終的にベイルバーン子爵領へと戻る事となっても、王国に何かあったときに参じるように命じれば、きっと彼女は応えるでしょう。
私には、彼女がそう言う人間に見えました。
その後、貴宿館へ移るため、クラリス嬢とオーランド様は、荷物を引き取りに彼女の友人宅へと向かわれました。
私たちの帰宅後、すぐに遊んでもらえると思っていたシュクルは、二階でごねていたそうです。ですが今回はお利口にも、応接室へと飛び込んでくることはありませんでした。
私と旦那様は、そんなシュクルを褒めてあげて、その後、旦那様は二日連続で動けなくなっておりました。
……私? 私は何とか二日連続で寝坊しそうにはなりませんでした。
……本当ですよ。
私たちが応接室へと入り、席へと足を進めましたら、オーランド様と、彼が伴ってきたという女性が席を立って礼をいたしました。
「……こちらは、クラリス・ウィザー嬢。彼女は南東のベイルバーン子爵領からの奨学生です」
「……クラリス・ウィザーと申します。エヴィデンシア伯爵……」
クラリス・ウィザーと名乗った彼女は、身長は私より少しだけ高いでしょうか……、旦那様が仰っていたように茶色っぽい金髪で、金色の瞳をしておりました。
旦那様は雰囲気が私に似ているとおっしゃいましたが、私からはなんとも言いがたい感じでございます。
ですが彼女は、貴族の令嬢と言われてもそのまま受け入れてしまいそうなほどの美貌を誇っておりました。
ただ、少々目尻が下がっておられて、どこか小動物めいた雰囲気を纏っていることは間違いございません。
もしかして私、旦那様より小動物扱いされているのでしょうか? ……そういえば、皆が私の子供の頃に似ているというシュクルは、私が小さな頃より活発すぎるものの、動物的と言えば動物的かも知れませんし……。
「初めましてオーランド君、クラリス嬢。グラードル・ルブレン・エヴィデンシアです。ご存じだとは思うが、こちらは、我が妻、フローラ・オーディエント・エヴィデンシアです」
「初めましてクラリスさん。……オーランド様とは昨日お目にかかったばかりですが……、その、よろしいのですか、オーランド様?」
「ああ……そういえば君は、あの遣り取りを聞いていたのだったね……フローラ嬢。君は誤解しているよ……」
オーランド様は僅かな時間、どう説明したものかと考えているように見えました。
「……彼女の出身領であるベイルバーン子爵領の領主、ベイルバーン子爵は、母方の叔母上の夫なんだよ。彼女のことは叔母上からも頼まれているんだよ」
「でしたら何故、メイベル嬢にそのことを話さなかったのですか?」
叔母様の頼みであるのならば、メイベル嬢に説明ししてもよかったと思うのですが。オーランド様は私のその問いに僅かに顔を歪めました。
……私、何か不味いことを聞いてしまいましたでしょうか。
ですが彼は、僅かに考え込んでから意を決したように、口を開きます。
「……これは、我が家の恥を話すようなものなので、ここだけの話にして欲しいのだが。……我が家の父上と母上は、その――仲が破綻してしまっているんだ。……元々は、自分のことは無視するのに、父上がメイベルのことは可愛がるものだから。その、怒りと言ったらいいのか、憎しみと言ったらいいのか、そんなものがメイベルに向いてしまってね……」
オーランド様は一度言葉を切り、切なそうに机の一点を見つめました。
「……あの子は小さい頃、それは母上に虐待されていたんだよ。長いこと俺が間に入って守っていたんだ。父上は仕事で帰ってこないこともざらだったからね。だけど、四年ほど前、そのことが父上にばれてしまってね……。母上は今、精神を病んでいると幽閉されてしまっているんだよ。……そんなものだから、父上は母上の身内の頼み事などに耳を貸さない。俺がメイベルにクラリス嬢の事を話さないのはね。メイベルの口から父上にこの事が伝わったら、彼女にもメイベルにも迷惑が掛るかも知れないからなんだ……」
……メイベル嬢があのようにオーランド様を慕っているのは、そのような過去があったからなのですね。
ですが……オーランド様は話しながら、とても言葉を選んでいるように見受けられました。いま話された内容だけでもとても重いものでしたが、もしかしたら、まだそれ以上に話すことが躊躇われる内情があるのかも知れません。
「……申し訳ございませんオーランド様。そのように家の内情を話させてしまい……。それにしても、クラリスさんはそのことを……?」
私はオーランド様の隣に座るクラリス嬢に視線を向けました。
しかしその質問に答えたのはオーランド様です。
「ああ、彼女は我が家の事情を知っているよ。我が家を頼るようにと言われて王都にやって来たというのに、門前払いされていてね。そこを俺が偶然見かけたんだよ。こちらの事情が分からなければ彼女も混乱してしまうと考えてね。……まあそれで俺が、彼女の力になっているという訳なんだ」
「……オーランド様には、王都での住居と働き先までお世話頂きました」
クラリス嬢は、申し訳なさそうにそう付け加えました。
ベイルバーン子爵領といえば、ルブレン侯爵領から街道を逸れて五日ほど東に向かった新興の小さな開拓領地であったはずです。
クラリス嬢の言葉を受けて、それまで、私とオーランド様たちの会話を黙って聞いておられた旦那様が口を開きました。
「なるほど。それで……我が家を二人して訪れたのは?」
……そうでした。
話の流れで、レンブラント家の内情に立ち入ってしまいましたが、お二人が何故我が家を訪ねてきたのか未だに聞いておりませんでした。
私は、昨日の朝聞いてしまったメイベル嬢とオーランド様の遣り取りの中にあった話で、おおよその見当が付いておりましたが、旦那様には分からないはずです。
「実は、先の新政トーゴ王国の飛竜部隊による空襲で、彼女が世話になっていた宿が破壊されてしまったのです」
王都防衛戦の後。ノーラ様が、空襲の初撃によって第二城壁内の数カ所が破壊されたと仰っておられました。
その中のひとつが、クラリス嬢が住んでいた場所であったのですね。
「これまでは、学園でできた友人の家に厄介になっていたのですが、……さすがに心苦しく……、そのよう思っておりましたら、オーランド様が、エヴィデンシア伯爵家にて貴宿館という遠方領の学生向けの宿のようなものを運営なさっておられると仰って……」
「ああ……そういうことか」
事情は分かりましたが、旦那様が困った顔になってしまいました。
「……実はね。我が家が運営している貴宿館は、遠領の学生向けとは言っても、貴族の子息や子女を受け入れることを前提に考えられているんだ。食事と使用人による身の回りの世話まで含んで、一月に掛る家賃が四シガルになる。……その、奨学生ということは、学費を賄うだけで一杯一杯ではないかね?」
「……四シガル……オーランド様、私、そのような話……」
おそらく家賃の話は聞いていなかったのでしょう、クラリスさんがオロオロと目を泳がせて、オーランド様に視線を向けました。
「ああ、大丈夫だよクラリス嬢。……そのことについては、ファーラム学園長より聞き及んでおります。実は……彼女は今、農牧学部で学んでいるのですが、ファーラム学園長より、王国の魔道士強化の為、魔導学部へ転部する事を勧められました。ファーラム学園長は彼女の持つ魔力量と学園での成績は農牧学部に押し込めておくには惜しいと仰って、転部するのなら貴宿館の家賃をファーラム学園長が肩代わりしてくださるそうです。申し訳ございません。ファーラム様よりこちらの書状を預かっていたのでした」
オーランド様は、胸の隠しから書状を取り出して、テーブルの上へと置きました。
それをメアリーが受け取って、どこかから取り出したペーパーナイフと共に旦那様へと手渡しました。
旦那様は手紙に一通り目を通してから、私に手渡しました。
その書状には、貴宿館でクラリス嬢を受け入れて欲しいという願いと、家賃についてはファーラム様が肩代わりする旨が記されておりました。
ファーラム様が貴宿館の家賃を肩代わり……という事は、彼女が魔導学部へ転部したら、ワンドを下賜される成績を収めると確信なさっておられるのですね。
大賢者とも呼ばれたファーラム様が、そのように目を掛けているのでしたら、彼女の能力は相当に高いのでしょう。
それでも、私は彼女の真意を確かめたくて、口を開きます。
「あの、クラリスさんはよろしいのですか? 農牧学部という事は、学園卒業後にベイルバーン子爵領へと戻って、農業や牧畜の技術向上を図るおつもりだったのではないのですか?」
そう声を掛けたのは、彼女が自分の意思を曲げて転部なさるのでしたら、それは不幸なことだと思ったからです。
「……はい。私はそのつもりでおりました。ですが、ファーラム様が私が魔道士となればよりベイルバーン子爵領の力になれるだろうと、そう、仰っていたと……。私は、私を引き上げてくれたベイルバーン子爵様に、より力になれる道を進みたいと考えております」
彼女は、少し下がった目尻をキリリと引き締めて決意を滲ませました。
何年かの間、軍務部の魔道士としての出仕しなければなりませんが、その後はベイルバーン子爵家お抱えの魔導師として領主に仕える事も叶います。
私には、領地の食を支える農業や牧畜の重要性も、魔法を利用して成せる様々な事柄、そのどちらがより領地の為になるかは判別つきません。
ファーラム様や、領主様より奨学金を授けられる優秀な彼女が、魔導学部を選ぶのでしたら、きっとそれが正解なのでしょう。
私がそのように考えておりましたら、彼女は言葉を続けました。
「それに……ワンドは、この機会を逃せば手に入りませんが、農牧の知識はその気になればいくらでも学ぶことが出来ますから……」
そのように言って朗らかに笑った彼女に、私はとても圧倒されてしまいました。
この方の小動物めいた雰囲気に騙されましたが、彼女は強く、逞しい方のようです。
「……昨日の話を聞いていたのなら分かったろう。彼女は俺の好みからは外れているんだよ……君と同じだ」
オーランド様はどこか剽げた雰囲気で、私に向かって笑いかけました。
昨日の話と仰いましても……確か昨日聞いてしまった話ですと、私が心の弱い娘だったら手を差し伸べるつもりでいたそうですが、私を試して……私が強い人間だと感じたので、興味を失ったような事を仰っておりました。
……もしかしてオーランド様はとても庇護欲の強い方なのでしょうか?
小さな頃、虐待されていたというメイベル嬢を、ずっと守ってこられたことを考えましても、生来の気質なのかも知れませんね。
……ですがオーランド様は、メイベル嬢の心を自分から遠ざけようとしておりますが、それは本心からのものなのでしょうか? 私には、オーランド様の好みだと暗に示している女性像がメイベル嬢であるように思えてならないのですが……。
私の頭の中にそのような思いが浮かんでおりましたら、旦那様が耳元でぽつりと日本語で呟きました。
「『今朝言ったろ。彼女、君に雰囲気が似てるって』」
旦那様……それは、その、私が強いという事でしょうか?
私、自分が圧倒されたクラリス嬢に、雰囲気が似ていると言われて、なんだか承服しかねる心持ちになってしまいました。
私、その……、旦那様は時々口にしてくれますが、旦那様には可愛いと思って頂いていたいのです。
そのように私の心を乱しておきながら、旦那様はお二人に向き直りました。
「分かりました……。ファーラム様がこのように申し出られるのでしたら、クラリス嬢はベイルバーン子爵領だけでなく、オルトラント王国の為にもなる人材だと考えているのでしょう。すぐに部屋の準備をさせますので、クラリス嬢……いつなりと貴宿館にお越しください」
旦那様のその言葉に、オーランド様もクラリス嬢も安堵の息を吐きました。
あの王都防衛戦が始まった日から、丁度二十日になるはずです。
その間、友人とはいえ、他人の家に住まわせてもらっていた、気遣いによる心労もあったのでしょう。
ですが、いま旦那様も仰いましたが、先ほどベイルバーン子爵への恩義を口にしたクラリスさんを見て、私、ファーラム様の本当の目的が分かってしまいました。
彼女はとても義理堅い性格をしているようです。
これより学園卒業までファーラム様が彼女に援助なされる事は、間違いなく彼女を恩で縛ることとなりますし、ワンドを下賜する王国への恩も心に残るはずです。
ファーラム様は、王国が優秀な魔導師を一人得る一手を打ったのだと思います。
たとえ最終的にベイルバーン子爵領へと戻る事となっても、王国に何かあったときに参じるように命じれば、きっと彼女は応えるでしょう。
私には、彼女がそう言う人間に見えました。
その後、貴宿館へ移るため、クラリス嬢とオーランド様は、荷物を引き取りに彼女の友人宅へと向かわれました。
私たちの帰宅後、すぐに遊んでもらえると思っていたシュクルは、二階でごねていたそうです。ですが今回はお利口にも、応接室へと飛び込んでくることはありませんでした。
私と旦那様は、そんなシュクルを褒めてあげて、その後、旦那様は二日連続で動けなくなっておりました。
……私? 私は何とか二日連続で寝坊しそうにはなりませんでした。
……本当ですよ。
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