モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第五章 モブ令嬢と嬉しい訪問者

「ご主人様達がお帰りになりました」

 応接室のドアを開いたメアリーが、一歩部屋の中へと入って、ドアを押さえるようにしてその場に控えました。

「義父上、義母上。ただいま戻りました」

「戻りました!!」

 旦那様の言葉を、シュクルが元気にまねました。
 応接室へと入った旦那様とシュクルの後に続いて、私も部屋の中へと足を踏み入れました。
 すると私たちの右側前方で、ガタリッ! と、椅子の脚が床を打つ音が響きました。
 誰かが勢いよく立ち上がったからです。
 私がそちらへと目を向けますと、椅子から立ち上がったのはボンデス様でございました。
 立ち上がったボンデス様の隣では、夫の急な行動にカサンドラお義姉様が驚きに目を見開いております。
 そのお義姉様の斜め後ろには侍女が控えており、その侍女も驚いて逃げるように背後へと身体を動かしました。
 シュクルもビックリして旦那様の影に隠れるようにして、旦那様の左足に抱き付いてしまいます。
 私の視線からは外れておりますが、お父様とお母様が驚いて息を呑んだような気配がいたしました。

 一歩……二歩……と、ボンデス様はこちらへと歩いてまいります。
 彼の視線は……旦那様……ではなく私に向いておりました。
 ズン、ズンズン……と歩みは早まって、ボンデス様は私の方へとやってまいります。
 旦那様がその進路を塞ぐように動こうといたしました。

「フローラ?」

 旦那様が、不思議そうに私を見ます。
 それは……私が旦那様にその場に留まっていてくださるようにと、手で示したからです。
 私が旦那様に留まって頂いたのは、ボンデス様のお顔に……旦那様が重大な決心をなさった時に見せるのと同じ表情が張り付いていたからです。
 それに、以前は昏く濁っていた赤黒い瞳も今は澄んでおられて、危険な感じはいたしません。
 そうしている間に、ボンデス様は私のすぐ前にまでやってまいりました。
 私の前へと立ち止まったボンデス様は、一つ静かに息をします。

「なッ! 兄上ッ!」

 旦那様が声を上げます。
 それは……突然ボンデス様が私の手を取ったからでした。
 彼は、両方の手で私の右手を包み込むようにして、そして、しっかりと私と視線を合わせます。

「フローラ嬢。……貴女には感謝してもしきれない。俺が今、ここでこうして居られるのは全て貴女のおかげだ。……七大竜王様に捧げるのと同じ敬意を貴女に」

 ボンデス様は、まるで私たちが竜王様や陛下へと敬意を示すときのように片膝を突くと、両の手で包み込んだ私の手を頭上へと掲げました。

「……あっ、あの……それは一体?」

 私は混乱してしまいました。……私はボンデス様にこのように感謝されるような事をしたでしょうか?
 彼の頬を張ってしまったことは覚えておりますが、それでこのように感謝されるとしたらおかしな事ですし……。

「まったく……何をなさっているのですか……。貴男がフローラに感謝しているのは分かりますけど、唐突すぎます。見なさい、皆様呆然となさっているではありませんか」

 いつの間にかボンデス様の後ろにカサンドラお義姉様が立っておりました。

「ほら、旦那様。落ち着いてエヴィデンシア家の皆様と話をしましょう。私たちはそのためにやって来たのですから」

 お義姉様はそのように言って、私の手を取ったままのボンデス様の腕を引いて立ち上がらせます。

「申し訳ございません皆様……ごめんなさいねフローラ。この人、気持ちが先走ってしまって……さあアナタ席に戻りましょう」

「……ああ……その、皆様……申し訳ない。フローラ嬢も……私はあの牢獄の中でずっと考えていたのだ、次にフローラ嬢と顔を合わせる機会があれば、礼をしなければならないと。その気持ちが貴女を目にしてあふれ出してしまった」

 ボンデス様は、なんとも恥ずかしそうな様子でそのように仰りました。
 その仕草が、どこか旦那様と似ておられて……私は初めて、ボンデス様と旦那様が血の繋がった兄弟である事を感じることができたのです。



 あの後、ボンデス様とカサンドラお義姉様は席へと戻り、旦那様とシュクル、そして私も席に座りました。
 私たちの席はいつものように長テーブルの端になります。
 ただ、今回はシュクルが旦那様と私の間に座り、ニコニコと微笑んで私の腕に甘えるようにすりすりとすりついていました。
 本来ですととても褒められたことでは無いのですが、カサンドラお義姉様が、私と旦那様から離れるのをぐずっていたシュクルを目にして、今日は親族の集まりなのだからと、微笑ましそうに笑って許してくださったのです。
 私たちの遣り取りを見て居られたボンデス様の表情も優しいもので、以前の、いつも苛立ちに突き動かされていたような様子は微塵もございません。

「あの日……いや、あの時までの俺は、怒りばかりが鬱積して、それは長いこと、まるで腐った泥水の中でもがいているかのようだった……」

 皆が、席へと腰を落ち着けたのを待っていたかのように、ボンデス様は口を開きました。

「フローラ嬢……俺は、貴女に頬を打たれ叱咤された。心の中に在る幻を拭って、いまのグラードルを見よと。そうして考えろと……他人に囁かれた言葉ではなく、自身の心で……、グラードルは本当に俺の事を心配しているのだと……。貴女に頬を打たれた瞬間、俺はまるでこの身に纏わり付いていた怨讐の全てが吹き飛ばされたような気持ちになった。そして貴女に叱咤された言葉は、この頭の中で響いていた……だがあの時には、これまでこの身を包んでいた闇が急に晴れわたったようで――全ての感覚が強い光に打たれたように眩しく感じられて混乱してしまっていた……」

 ボンデス様は一度息をつくように言葉を留めます。
 彼の視線は私の方を見たままでした。考えてみますと、この部屋に私たちが入ってよりボンデス様は旦那様に対してはただの一度も視線を向けておりません。
 彼の物腰は以前とは比べものにならないほど落ち着いてはおりますが、やはりまだ旦那様に対してはわだかまりが残っておられるのでしょうか。

「捜査局の留置所に拘留されて、一日たち二日たち、だんだんと考える事ができるようになった。だがそうして心が落ち着いてみると、俺は何故あの時、貴女やグラードルを手に掛けようなどと――そのような恐ろしい事を考えることができたのか皆目分からなくなってしまったのだ。……あの時には、本当にただただグラードルを亡き者にしなければ……と、それだけが頭の中を渦巻いていたように思う。……たしかに、幼い頃から感じていた鬱憤があったのは間違いないとは思うが、今考えれば、それはあのような事をしでかしてしまうほどの怒りではなかった……」

 ボンデス様は、一つ一つ己の心情を解きほぐすように吐露してゆきます。
 そして……ボンデス様は、決心がついたように私から視線を外して、初めて旦那様と視線を合わせました。

「グラードル……留置所に面会に来た父上が言っていた。あの日我が家を訪れたお主が、俺が邪竜の邪杯の影響を受けているのかも知れないと心配していたと……。あの日以前の俺であれば、『何を、そんなものはお主が父上を謀る為の方便だ』と、言い捨てたところだ。しかしあの日以来、俺の荒れ果てていた心は、まるで凪の海のように澄んでいる。……もし、今の俺のような事がお主の身にも起きていたとするならば……そう考えたとき、お主が婚姻の儀のおりに言っていたことを思い出したのだ。死ぬような思いをして価値観が変わったと言っていた言葉をな……。……今の俺ならば、お主の言っていたことが理解できる。グラードル……あの時には本当に済まなかった。お主とフローラ嬢が俺の罪を問わぬと申し出てくれたおかげで、俺はこうしてまたカサンドラと共に生きてゆくことができる……」

「……兄上……」

 長年の蟠りが解けたように、旦那様とボンデス様はしっかりと視線を合わせております。
 互いに言葉は途切れてしまいましたが、その絡み合った視線は、無言であっても心を通じ合う言葉を交わしているようでございました。

「……ム、バアァ、……アンマ」

 不意に、高い声が耳を打ちました。それは赤ん坊の声です。
 その声は、まるで自分を忘れないでとでもいうように響きました。

「まあ、カミュ。起きたのね」

 お義姉様が隣の椅子の座面の方に手を伸ばします。
 後ろに控えていた侍女が、お義姉様を手伝うように手を伸ばして、おくるみに包まれた赤ん坊をお義姉様の腕の中へと渡しました。

「まあ、その子がお義姉様とボンデス様の……」

「ええ、この子がカミュよ。生まれてから四ヶ月。首が据わったので少しでも早く、この人に会わせてあげたくて、今回一緒にやって来たの」

 カサンドラお義姉様は、母親独特の母性を湛えた微笑みを浮かべてカミュを私たちに紹介してくれました。
 名前だけは文で教えて頂いておりましたが、とても可愛らしい男の子です。

「……アゥ、バァ……」

 目尻を下げて自身の子、カミュを目にしていたボンデス様は、旦那様と私に視線を戻して口を開きます。

「このように生まれてきた子を目にできたのも、そしてこれから先、この子の成長を見守れるのも、全てお主たち夫婦のおかげだ。……そうだフローラ嬢。貴女がカサンドラに文をしたためるようにと勧めてくれたのだね。カサンドラから聞いている。夫婦なのだから、お互いに心の内をさらけ出して語り合うべきだと。それについても重ねてお礼をしたい。この五〇日ばかりの間に何度か文を交わしたことで、お互いに己の心情を理解する事ができた。……その、以前よりは夫婦として心を交わせた気がする。それに父上についてもか――何でもお主たち夫婦を見ていて家族について考えを改めたらしい。三日とあげずに面会に来てな。商会や財務卿の選定選挙のほうは大丈夫なのかと、俺の方が心配するほどだったわ」

 そのように穏やかに笑うボンデス様を見て、ああ、この方はもう大丈夫だ……と、僭越ながら私は思ってしまいました。それは旦那様も同じようで、とても優しい眼差しでボンデス様親子を見ておりました。




「バア~~、アハッ、ねえ見てママ。赤ちゃん笑った。可愛い!」

 チョン、チョン、と、おっかなびっくりカミュの頬を突くように触って、アウァ、と笑ったのを目にしたシュクルが、こちらもニコリと笑って私を見ます。

「ええ、そうね可愛いわね」

 あのあと私たちは席を移動して、今お義姉様の隣の席に置かれるカミュの寝かされたかごを挟んで反対側の席に私は座っております。
 お父様とお母様は、後は兄弟の積もる話もあるだろうからとセバスに伴われて退出いたしました。

「貴女たちが帰ってくる前に、ご両親から話は聞いておりましたが、まさかフローラ、貴女の方が私の子よりも大きな子の母親になっているとは思ってもみませんでした」

 お義姉様が私とシュクルを目にして感慨深そうに仰います。
 シュクルを目にしても、疑問を口になされなかったので、お父様たちから話を聞いていたのだろうとは考えておりましたが、やはりそうでしたか。

「事の次第は、先日文にしたためて送ったのですが、お義姉様が王都へといらしたのでしたら行き違いになってしまいましたね」

「そうですね。私がルブレン侯爵領を出立したのは、お義父様から使わされた飛竜士によって、新政トーゴ王国によって王都が襲われたものの、貴女たちの活躍によって事なきを得たという報がもたらされてすぐのことです。旦那様も無事なので心配はないとの事でしたが、やはり心配になってしまって……それに、カミュにも会わせて差し上げたかったのでこの子も連れてやって来たのです。そうしたら折良く、この度のトーゴ王国との戦いに勝利した特赦として旦那様が釈放されることとなりました。それについても貴女たちには感謝しなければなりませんね」

 お義姉様は、そのように仰ってくださいました。

「とんでもございませんお義姉様。私は旦那様の為に力を尽くした結果、気が付けばこのような事になっていましたので、そのように感謝されてしまっては面はゆい心持ちになってしまいます」

 お義姉様は、澄み渡った赤黒い瞳で私を見つめます。ボンデス様も今は同じように澄んだ赤黒い瞳になっておられますので、少し似た雰囲気でお似合いの二人であるように見えます。
 そういえば、カミュも同じ赤黒い瞳をしています。
 加護を与えてくれる竜王様や精霊王によって、親子でも髪や瞳の色はまったく変わるこの世界で、親子三人の瞳の色が同じになることは珍しいことなのです。
 ですがそれは、これまで苦労なされたカサンドラお義姉様たちに対する、これから家族の絆が一つになってゆく吉兆のように私には思えたのです。

 お義姉様の向こうでは、ボンデス様と旦那様が昔の話をしております。
 旦那様は、既に二年半前ほどになっておりますが、それ以前とは意識が変わっておりますので、当時の自分の心情というものは理解できないと仰っておりました。
 ですがボンデス様が、あの時俺はこのように思っていたのだ。というような話をなされているのに必死に話を合わせておりました。
 それでも、お二人は少しずつでもお互いの心をすりあわせておられるようで、とても嬉しく思います。
 
「ふっふっふっふっ、どうだグラードル。カミュは可愛いであろう? お主のところのシュクルも可愛いが、カミュにはかなうまい」

「はっはっはっはっ、何を仰いますか兄上。たしかにカミュは可愛いですが、シュクルの可愛さにはまだまだ及びませんよ」

 あら? 先ほどまで互いに絆を深め合うように話しておられたのですが、いつの間にかカミュとシュクルの可愛さを巡って、一触即発な雰囲気になってしまっております。

「まったく、あの二人は何をやっているんでしょう。……カミュもシュクルちゃんも二人とも同じくらいに可愛いわよね」

 お義姉様が呆れた口調で仰って、カミュとシュクルに笑いかけます。

「うん! カミュちゃん可愛い!」

 私は、そのように笑顔を浮かべてお義姉様に答えるシュクルの頭を、優しく撫でて上げました。
 それは、久しぶりに我が家に訪れた、静かで優しい時間でございました。

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