モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件
第四章 モブ令嬢と聖女と食堂にて
アンドリウス陛下との謁見の夜には、旦那様の元へ軍務部より正式な伝令がやって参りました。
黒竜騎士団は二日で態勢を整えてトライン辺境伯領を目指すとのことです。また、後陣としてさらに数日後、銀竜騎士団が続くのだとか。
今回の新政トーゴ王国による侵攻は、今年の初めに行われたような数年おきに行われる国境線の小規模な攻防ではなく、トライン辺境伯領の領有権を正式に主張した宣戦布告によるものです。
それは、かの地を征服できるという自信の表れでもあるように感じられます。
旦那様が王宮帰りの馬車の中で仰っていたように、バレンシオ伯爵配下のならず者によって捕らわれた竜種が、かの国に売買されていたとするのなら……その数はこれまでにどれだけのものになっているのでしょうか?
大陸西方諸国における一国が抱える操竜騎士の数は、黒竜戦争後三十騎を超えたことはないはずです。
オルトラント王国が抱える操竜騎士は金竜騎士団が抱える二一騎になります。それでも一騎士団と正面から戦えるだけの戦力であるとか。
オルトラントにおいて白竜騎士団に次ぐ、騎士たち憧れの騎士団です。
ですが、旦那様から聞いた話によりますと、入団する為には、少なくとも第三世代の竜種と絆を結び主と認められなければならないそうです。
旦那様が『なんとも、中二病心溢れる騎士団だよ』と、少年のような表情を浮かべて、そのように仰っておりました。その後説明いただいた中二病という言葉は、私にはいま一つ理解するのに難しいものでした。
躁竜騎士を目指す者は、竜王様たちの計らいによって、眷属竜たちと見合わせする機会を頂けるそうですが、その機会に絆を結べる騎士は二百から三百人に一人ほどという話です。
ただ、奇計の類いではございますが、第三世代の竜種は鳥と同じように卵から孵った時に初めて目にしたモノを親と認識するという性質を持っているそうで、卵から孵す方もおられるそうです。ですがそれは、卵の親が何らかの理由で亡くなったり、抱卵を放棄されたものを手に入れられた場合に限られるとか。
バレンシオ伯爵配下のならず者は、竜王様の許可を得ずに山脈に分け入って幼竜を捕らえたり、盗卵をしていたそうですので、それは極刑を免れない明らかな犯罪行為です。
彼らは、ヲルドと名乗る集団であったそうですが、ライオット様が彼らの頭目を含んだ数名を捕らえられなかったと仰っておりました。あとルブレン家に潜り込んでいたシェリルという女性、その行方も気懸かりで、喉の奥に小骨でも刺さっているかのような嫌な感じでございます。
「……ーラ、フローラ。――どうしたんですの? 心ここにあらずといった感じですけれど?」
マリーズから声を掛けられました。
アンドリウス陛下との謁見の翌日、昼前の授業を終えて、私はマリーズと一緒に学園の食堂にて昼食を取っておりました。
テーブルを挟んで、正面に座るマリーズは、既に食事を終えて紅茶を頂いております。
私の目の前には、いまだに半分ほどの料理が残っておりました。
「申し訳ございませんマリーズ。少し考え事をしておりました」
「……まったく。今日はとても良い場所を取れたというのに……私、同士として情けないですよ」
相変わらず、マリーズの言う同士というのが今ひとつ分からないのですが、そういえば、食事を始める前に『今日は当たりの場所が取れました』と、うきうき顔になっておりました。
「この席からだけ、中学舎の裏庭が見えるのです。あそこでは時折、殿方たちが何やら密談をしていて、眼福なのですよ」
そう言いながらマリーズは、席の右手の窓ガラスに張り付いて、その先へと視線を向けます。
あの、マリーズ。私は慣れておりますのでまだ良いですが……やはりそのような姿を、このように人の多い場所で晒すのは問題があるのではないでしょうか?
近くを通った学生の何人かがマリーズに気付いて、ギョッとした顔をしたあと、まるで自分は白昼夢でも見ているのか? というような感じの表情を浮かべて去って行きました。
マリーズは、そのような事が背後で起こっているとは知らずに、窓ガラスに張り付いたまま言葉を続けます。
「まあ時折女性への告白の場所になっているときもあるようですが――ああ、今日は当たりのようです……あら? あれはグラードル卿では……」
その言葉を聞いた私は、マリーズと同じように席の左手にある窓ガラスに張り付いてしまいました。
「あら、あの方……見覚えがあるような……」
確かに一人は旦那様です、そしていま一人は線の細い――この場所から見ても美形であることが感じられる……
「……あれは、アルク様? 旦那様の弟君です」
「ああ、そういえば――ルブレン家の茶会で挨拶いたしました。どうりで見覚えがあるはずです」
私たちの位置からですと、お二人は中学舎、その建物側にアルク様、向かい合って旦那様が何かを話しておられるようです。
「……まさか、兄弟でそのような……、そういえば異母兄弟ですわね……これが禁断の……」
食堂のテーブルを挟んだ隣では、マリーズが口元を押さえてボソボソと呟いております。
しかし私は、ここから見ても深刻そうに感じる旦那様のご様子が気になって、何とかお二人の話を聞けないものかとマリーズの呟きについて考えている余裕はありませんでした。
ここのところ、先生からお借りしている練習用杖は、腰に吊しておりますので魔法は使えるのですが、私がいつも使っている聴音の魔法では、あの距離は効果範囲外です。
何か方法がないものでしょうか……。
そういえば……先日アンドゥーラ先生が使っておられた、改良型の術式を応用できるのでは?
私は、静かにテーブルの下でタクトに手をかけますと、先生がなさっておられたように、通常の聴音の魔法、風の精霊王ウィンダルの力を借りる前に、緑竜王リンドヴィルム様の神器、聖鞭リンヴィルの力をお借りします。
アンドゥーラ先生は、聖鞭リンヴィルの力で範囲を広げておりましたが、私はその心象を細く絞って先へ先へと伸ばします。
力を使った体積の総量が同じならば、面を細く絞って線にすれば届くのではないかと考えたのですが……。
『……ませんか。兄上が原因でしょ? 父上が最近やたらと構ってくるのは。自分はグラードルを見誤っていたとか、奴は得がたい嫁を手に入れたとか、ボンデス兄上とも、もっと話をするべきだったとか、正直うんざりなんですよ。ここのところ晩餐の時間には帰ってくるようになって、母上にもこれまでの事が嘘のように構っておられる』
成功しました。遠い為に通常の聴音の魔法よりハッキリとは聞こえませんが、それでも十分に理解できる音量です。
それにしましても、お義父様……さすがは王国一の商会を営んでおられる商人とでも申したら良いのでしょうか? こうと決めた後の行動力は目を見張るものがございますね。
アルク様の言葉は、婚姻の儀のおりに聞いたときのような刺々しさが弱まっているような感じがいたします。
『……そうか、父上がそんなことを……。良いことじゃないか、アルクも俺じゃなくて、父上に自分の思っていることをぶつけてみろよ。いまの父上なら、ちゃんと受け止めてくれると思うぞ』
私には、旦那様がアルク様に向ける言葉は、とても温かく響いて聞こえました。
しかしアルク様からは、どこか突き放すような雰囲気が漂って見えます。
『ボクは別に父上に構ってほしいなんていう歳はとっくに過ぎています……それこそ今更です。……で? 兄上の本題はいったい何なんです。最近の活躍を自慢しようとでも言うんですか? 早く言ってください。ボクは昼後から専攻授業で財務部に行かなければならないんですから』
「何でしょう、とても深刻な話をしているように見えますね。フローラは心当たりがございますか?」
マリーズは、顔を校舎裏に向けたまま、瞳だけを私に向けてそのように仰います。
私は、静かに首を振りました。
「それは問題ですわ! いくら兄弟とはいえ、妻に内緒であのように身体を寄せ合って……」
言いながらも、マリーズは窓ガラスに張り付いております。
私は、二人の間で交わされている話を聞き逃すまいとしていたので、申し訳ございませんがマリーズの話は漫ろに聞き流してしまっておりました。
『……アルク、これは最悪の場合――ということで聞いてほしいんだが。もしも近いうちに……俺が死ぬような事があったら――その、……フローラの事を頼めないだろうか』
…………旦那様は、いったい何を仰ったのでしょう?
私は、目眩を起こして目の前が暗くなったような感じがいたしました。
『……はぁ!? なッ、何を突然……』
アルク様も、目を剥いてそう言葉を吐き出します。
『最近の我が家の話を聞いているのなら……お前もフローラが、農奴娘などと蔑まれるような女性ではないことは、もう分かっているだろ』
『それは……しかし、なんでそんな話になるのです』
私も、アルク様と同じ事を旦那様に問いたい気持ちで一杯です。
『アルクが父上から聞いたとおり、我が家はいま有り難い事に、王家より幾何か目を掛けられている。だがもしいま俺が死に、廃爵になるようなことになれば…………エヴィデンシア家は、三十年に及ぶバレンシオ伯爵からの悪意ある妨害を退け、やっと日の目を見る時が来たのだ! それを……もしも俺が死んだことで無にはしたくない……』
やはり、旦那様はご自身の命が長くないのではないかと気付いてしまっていたのですね。
グラグラと、目の前が揺れて、首筋の後ろに氷でも当てられたような怖気が走ります。
『とてもそうは見えませんが、まさか……兄上は、どこかお悪いのですか?』
『……もしもの話だ。もしもの話として、お前に考えておいてほしいのだ。……結婚した相手が若くして亡くなったとき、相手の家に年の近い兄弟がいれば、代わりに添うということは、そう珍しいことではない』
確かに……そのような事はございますが、私は旦那様の口からそのような言葉が吐き出されるのを聞きたくございませんでした。
これは影から魔法で聞き耳を立てた私への罰でしょうか。
旦那様が、そのような……ご自身が亡くなった後の事――私やエヴィデンシア家の事を、たとえご家族であっても、人に託そうとすることを知りたくはございませんでした。
旦那様の死を見つめたその決断は壮絶で、胸の内から熱いものが込み上げてきてしまいます。
『旦那様は私が助けます』そう叫び、旦那様の元へと駆け寄れたらと、いまほどそう思った事はございません。
しかし、旦那様の容態など分からないアルク様は、訝しげな様子になりました。
『身体が悪いわけでもないのに、なぜそのような事を言い出すのですか?』
少し考えた後、彼の顔に浮かんだのは旦那様を嘲る表情でした。
『なるほど……そういう事ですか、兄上、本当はあの農奴娘に飽きが来たのでしょ? それでそのようにボクに押しつけようと……』
そこまで言ったとき、『ゴッ!!』と、壁を打つ音が響きました。
旦那様がアルク様の背後にある壁を殴りつけたからです。
「フローラ! あっ、あれは、噂に聞いた『壁ドン』という奴ですよ! 私、初めて見ました! ああっ、なんでこんなときにミームが居ないのかしら、これこそ、絵として留めておくべきモノだというのに……」
『だから、最悪の場合だと言っている。……誰が……、誰が最愛の妻を……弟といえど、むざむざ託そうなどと考えるものか……』
マリーズが、何やら興奮して話しているようですが、私の頭には、旦那様の底ごもる声が響いて、彼のその言葉以外は全て意味のない音となっておりました。
まぶたの堤防は決壊して、私の瞳からは留めもなく涙が流れ出しておりました。
「まあ、フローラったらそんなに感動したんですか!? ええ、分かりますとも、私も同好の士から聞き及んだ『壁ドン』を、この目で実際に見られて、それは感動しております」
「……いったいどうしたんだい? 二人とも窓に張り付いて」
「ああ、アルメリア……私たちいまは、あの『壁ドン』を実際に目にするという、得がたい体験をしていたのです」
「えっ? 『壁ドン』って、宿家で隣の部屋のうるさい輩を黙らせるあの? あれは体感するものであって、見えないと思うんだけど?」
「…………?」
感極まってしまっていた私の意識が現実へと戻って参りますと、旦那様とアルク様は、既に中学舎の裏庭から去っており、いつの間にかアルメリアが私の隣に座っていました。
そしてマリーズと彼女は二人で視線を合わせて、何か腑に落ちなさそうな顔で首を傾げておりました。
黒竜騎士団は二日で態勢を整えてトライン辺境伯領を目指すとのことです。また、後陣としてさらに数日後、銀竜騎士団が続くのだとか。
今回の新政トーゴ王国による侵攻は、今年の初めに行われたような数年おきに行われる国境線の小規模な攻防ではなく、トライン辺境伯領の領有権を正式に主張した宣戦布告によるものです。
それは、かの地を征服できるという自信の表れでもあるように感じられます。
旦那様が王宮帰りの馬車の中で仰っていたように、バレンシオ伯爵配下のならず者によって捕らわれた竜種が、かの国に売買されていたとするのなら……その数はこれまでにどれだけのものになっているのでしょうか?
大陸西方諸国における一国が抱える操竜騎士の数は、黒竜戦争後三十騎を超えたことはないはずです。
オルトラント王国が抱える操竜騎士は金竜騎士団が抱える二一騎になります。それでも一騎士団と正面から戦えるだけの戦力であるとか。
オルトラントにおいて白竜騎士団に次ぐ、騎士たち憧れの騎士団です。
ですが、旦那様から聞いた話によりますと、入団する為には、少なくとも第三世代の竜種と絆を結び主と認められなければならないそうです。
旦那様が『なんとも、中二病心溢れる騎士団だよ』と、少年のような表情を浮かべて、そのように仰っておりました。その後説明いただいた中二病という言葉は、私にはいま一つ理解するのに難しいものでした。
躁竜騎士を目指す者は、竜王様たちの計らいによって、眷属竜たちと見合わせする機会を頂けるそうですが、その機会に絆を結べる騎士は二百から三百人に一人ほどという話です。
ただ、奇計の類いではございますが、第三世代の竜種は鳥と同じように卵から孵った時に初めて目にしたモノを親と認識するという性質を持っているそうで、卵から孵す方もおられるそうです。ですがそれは、卵の親が何らかの理由で亡くなったり、抱卵を放棄されたものを手に入れられた場合に限られるとか。
バレンシオ伯爵配下のならず者は、竜王様の許可を得ずに山脈に分け入って幼竜を捕らえたり、盗卵をしていたそうですので、それは極刑を免れない明らかな犯罪行為です。
彼らは、ヲルドと名乗る集団であったそうですが、ライオット様が彼らの頭目を含んだ数名を捕らえられなかったと仰っておりました。あとルブレン家に潜り込んでいたシェリルという女性、その行方も気懸かりで、喉の奥に小骨でも刺さっているかのような嫌な感じでございます。
「……ーラ、フローラ。――どうしたんですの? 心ここにあらずといった感じですけれど?」
マリーズから声を掛けられました。
アンドリウス陛下との謁見の翌日、昼前の授業を終えて、私はマリーズと一緒に学園の食堂にて昼食を取っておりました。
テーブルを挟んで、正面に座るマリーズは、既に食事を終えて紅茶を頂いております。
私の目の前には、いまだに半分ほどの料理が残っておりました。
「申し訳ございませんマリーズ。少し考え事をしておりました」
「……まったく。今日はとても良い場所を取れたというのに……私、同士として情けないですよ」
相変わらず、マリーズの言う同士というのが今ひとつ分からないのですが、そういえば、食事を始める前に『今日は当たりの場所が取れました』と、うきうき顔になっておりました。
「この席からだけ、中学舎の裏庭が見えるのです。あそこでは時折、殿方たちが何やら密談をしていて、眼福なのですよ」
そう言いながらマリーズは、席の右手の窓ガラスに張り付いて、その先へと視線を向けます。
あの、マリーズ。私は慣れておりますのでまだ良いですが……やはりそのような姿を、このように人の多い場所で晒すのは問題があるのではないでしょうか?
近くを通った学生の何人かがマリーズに気付いて、ギョッとした顔をしたあと、まるで自分は白昼夢でも見ているのか? というような感じの表情を浮かべて去って行きました。
マリーズは、そのような事が背後で起こっているとは知らずに、窓ガラスに張り付いたまま言葉を続けます。
「まあ時折女性への告白の場所になっているときもあるようですが――ああ、今日は当たりのようです……あら? あれはグラードル卿では……」
その言葉を聞いた私は、マリーズと同じように席の左手にある窓ガラスに張り付いてしまいました。
「あら、あの方……見覚えがあるような……」
確かに一人は旦那様です、そしていま一人は線の細い――この場所から見ても美形であることが感じられる……
「……あれは、アルク様? 旦那様の弟君です」
「ああ、そういえば――ルブレン家の茶会で挨拶いたしました。どうりで見覚えがあるはずです」
私たちの位置からですと、お二人は中学舎、その建物側にアルク様、向かい合って旦那様が何かを話しておられるようです。
「……まさか、兄弟でそのような……、そういえば異母兄弟ですわね……これが禁断の……」
食堂のテーブルを挟んだ隣では、マリーズが口元を押さえてボソボソと呟いております。
しかし私は、ここから見ても深刻そうに感じる旦那様のご様子が気になって、何とかお二人の話を聞けないものかとマリーズの呟きについて考えている余裕はありませんでした。
ここのところ、先生からお借りしている練習用杖は、腰に吊しておりますので魔法は使えるのですが、私がいつも使っている聴音の魔法では、あの距離は効果範囲外です。
何か方法がないものでしょうか……。
そういえば……先日アンドゥーラ先生が使っておられた、改良型の術式を応用できるのでは?
私は、静かにテーブルの下でタクトに手をかけますと、先生がなさっておられたように、通常の聴音の魔法、風の精霊王ウィンダルの力を借りる前に、緑竜王リンドヴィルム様の神器、聖鞭リンヴィルの力をお借りします。
アンドゥーラ先生は、聖鞭リンヴィルの力で範囲を広げておりましたが、私はその心象を細く絞って先へ先へと伸ばします。
力を使った体積の総量が同じならば、面を細く絞って線にすれば届くのではないかと考えたのですが……。
『……ませんか。兄上が原因でしょ? 父上が最近やたらと構ってくるのは。自分はグラードルを見誤っていたとか、奴は得がたい嫁を手に入れたとか、ボンデス兄上とも、もっと話をするべきだったとか、正直うんざりなんですよ。ここのところ晩餐の時間には帰ってくるようになって、母上にもこれまでの事が嘘のように構っておられる』
成功しました。遠い為に通常の聴音の魔法よりハッキリとは聞こえませんが、それでも十分に理解できる音量です。
それにしましても、お義父様……さすがは王国一の商会を営んでおられる商人とでも申したら良いのでしょうか? こうと決めた後の行動力は目を見張るものがございますね。
アルク様の言葉は、婚姻の儀のおりに聞いたときのような刺々しさが弱まっているような感じがいたします。
『……そうか、父上がそんなことを……。良いことじゃないか、アルクも俺じゃなくて、父上に自分の思っていることをぶつけてみろよ。いまの父上なら、ちゃんと受け止めてくれると思うぞ』
私には、旦那様がアルク様に向ける言葉は、とても温かく響いて聞こえました。
しかしアルク様からは、どこか突き放すような雰囲気が漂って見えます。
『ボクは別に父上に構ってほしいなんていう歳はとっくに過ぎています……それこそ今更です。……で? 兄上の本題はいったい何なんです。最近の活躍を自慢しようとでも言うんですか? 早く言ってください。ボクは昼後から専攻授業で財務部に行かなければならないんですから』
「何でしょう、とても深刻な話をしているように見えますね。フローラは心当たりがございますか?」
マリーズは、顔を校舎裏に向けたまま、瞳だけを私に向けてそのように仰います。
私は、静かに首を振りました。
「それは問題ですわ! いくら兄弟とはいえ、妻に内緒であのように身体を寄せ合って……」
言いながらも、マリーズは窓ガラスに張り付いております。
私は、二人の間で交わされている話を聞き逃すまいとしていたので、申し訳ございませんがマリーズの話は漫ろに聞き流してしまっておりました。
『……アルク、これは最悪の場合――ということで聞いてほしいんだが。もしも近いうちに……俺が死ぬような事があったら――その、……フローラの事を頼めないだろうか』
…………旦那様は、いったい何を仰ったのでしょう?
私は、目眩を起こして目の前が暗くなったような感じがいたしました。
『……はぁ!? なッ、何を突然……』
アルク様も、目を剥いてそう言葉を吐き出します。
『最近の我が家の話を聞いているのなら……お前もフローラが、農奴娘などと蔑まれるような女性ではないことは、もう分かっているだろ』
『それは……しかし、なんでそんな話になるのです』
私も、アルク様と同じ事を旦那様に問いたい気持ちで一杯です。
『アルクが父上から聞いたとおり、我が家はいま有り難い事に、王家より幾何か目を掛けられている。だがもしいま俺が死に、廃爵になるようなことになれば…………エヴィデンシア家は、三十年に及ぶバレンシオ伯爵からの悪意ある妨害を退け、やっと日の目を見る時が来たのだ! それを……もしも俺が死んだことで無にはしたくない……』
やはり、旦那様はご自身の命が長くないのではないかと気付いてしまっていたのですね。
グラグラと、目の前が揺れて、首筋の後ろに氷でも当てられたような怖気が走ります。
『とてもそうは見えませんが、まさか……兄上は、どこかお悪いのですか?』
『……もしもの話だ。もしもの話として、お前に考えておいてほしいのだ。……結婚した相手が若くして亡くなったとき、相手の家に年の近い兄弟がいれば、代わりに添うということは、そう珍しいことではない』
確かに……そのような事はございますが、私は旦那様の口からそのような言葉が吐き出されるのを聞きたくございませんでした。
これは影から魔法で聞き耳を立てた私への罰でしょうか。
旦那様が、そのような……ご自身が亡くなった後の事――私やエヴィデンシア家の事を、たとえご家族であっても、人に託そうとすることを知りたくはございませんでした。
旦那様の死を見つめたその決断は壮絶で、胸の内から熱いものが込み上げてきてしまいます。
『旦那様は私が助けます』そう叫び、旦那様の元へと駆け寄れたらと、いまほどそう思った事はございません。
しかし、旦那様の容態など分からないアルク様は、訝しげな様子になりました。
『身体が悪いわけでもないのに、なぜそのような事を言い出すのですか?』
少し考えた後、彼の顔に浮かんだのは旦那様を嘲る表情でした。
『なるほど……そういう事ですか、兄上、本当はあの農奴娘に飽きが来たのでしょ? それでそのようにボクに押しつけようと……』
そこまで言ったとき、『ゴッ!!』と、壁を打つ音が響きました。
旦那様がアルク様の背後にある壁を殴りつけたからです。
「フローラ! あっ、あれは、噂に聞いた『壁ドン』という奴ですよ! 私、初めて見ました! ああっ、なんでこんなときにミームが居ないのかしら、これこそ、絵として留めておくべきモノだというのに……」
『だから、最悪の場合だと言っている。……誰が……、誰が最愛の妻を……弟といえど、むざむざ託そうなどと考えるものか……』
マリーズが、何やら興奮して話しているようですが、私の頭には、旦那様の底ごもる声が響いて、彼のその言葉以外は全て意味のない音となっておりました。
まぶたの堤防は決壊して、私の瞳からは留めもなく涙が流れ出しておりました。
「まあ、フローラったらそんなに感動したんですか!? ええ、分かりますとも、私も同好の士から聞き及んだ『壁ドン』を、この目で実際に見られて、それは感動しております」
「……いったいどうしたんだい? 二人とも窓に張り付いて」
「ああ、アルメリア……私たちいまは、あの『壁ドン』を実際に目にするという、得がたい体験をしていたのです」
「えっ? 『壁ドン』って、宿家で隣の部屋のうるさい輩を黙らせるあの? あれは体感するものであって、見えないと思うんだけど?」
「…………?」
感極まってしまっていた私の意識が現実へと戻って参りますと、旦那様とアルク様は、既に中学舎の裏庭から去っており、いつの間にかアルメリアが私の隣に座っていました。
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