モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第四章 モブ令嬢と旦那様と王宮にて

「嬢ちゃん、アンタが旦那を生かしたんだよ。アンタがいなければ間違いなくアンタの旦那は死んでいたよ」

 そう仰ったのは、私と対面する形でソファーに掛けて、紅茶をすすっているブラダナ様です。
 私は、ベッドで静かに眠っておられる旦那様に視線を向けました。彼の胸はゆっくりと上下しています。その呼吸の動作に生を感じて、目元にじわりと熱いものがこみ上げてきます。

「私はただ――ただ旦那様の手を取って意識を無くしていただけです……旦那様を助けてくださったのはサレア様のお力では……」

 昼前の、いまだ僅かに冷気を含んだ空気が、開け放たれた窓の向こうから流れてきます。

「アンタはあたしの目が特別なのは知ってるだろ? あの時……アンタたちの魂が繋がってるって感じたんだ。だから嬢ちゃんたちをそのままにしときなって言ったのさ。確かにあの癒やしの巫女サレアの力も一因ではあるけどね、それでも危ない状態だったんだ……アンタが旦那の魂をこの世界へと繋いでいたんだよ」

 ブラダナ様も旦那様にいたわるような視線を向けて下さいました。
 いま私たちが対面して座っているのは、王宮の一室になります。
 私が目を覚ましたのは、旦那様が針に塗られていた毒……アンドリウス陛下とノーラ様のグラスに塗られていたのと同じ、バジリスクの毒に倒れた翌日の夜のことでした。
 陛下やノーラ様の恩情によりまして、私たちは旦那様が目を覚ますまで王宮に留まることとなったのです。 
 今日は、私が目を醒ましてから二日目……光の月およそ六月四日になります。
 王宮の使用人の方々には食事の世話などを頂いて、まことに心苦しいのですが、今の旦那様を館へと移動させるのも、お身体に掛かる負担を考えれば無理がございます。

「古い……古い話だけどさ。それはそれは、とても仲睦まじい夫婦がいたそうだ。あるときその夫婦の妻が流行病にかかり、夫の手厚い看護の甲斐もなく亡くなってしまった。悲しみに暮れた夫はそれまでの看護の疲れもあって妻の手を取ったまま意識を失ってしまったそうだ」

 ブラダナ様は私へと視線を戻しますと、突然そのように語り出しました。

「夫が意識を取り戻すと、そこには銀竜クルークの審判を待つ亡者たちが、炎の消えかけた燭台を手にして立ち並んでいたそうだ。夫は亡者たちの列に紛れ込んで銀竜クルークの前までゆくと、クルークに妻を帰してほしいと嘆願した。だが既に妻はクルークの審判を受け、次なる転生の地が決まっていたのだとさ……」

 私はブラダナ様に気付かれないように、静かに息を呑みます。
 あの時の約束……それがもし本当だとしたら、約束の適用される範囲がはっきりと分からない以上、下手なことは口に出来ません。
 無言で聞き入る私を、ブラダナ様は深い海のような蒼い瞳で見つめます。その瞳の中に、どこか探るような光が瞬いて見えるのは気のせいでしょうか。

「……だが、生者の身で銀竜クルークの審判の場まで訪れた夫に、クルークは二人のその強い絆に感動を覚え、一度だけ――約束を守ることを条件に機会を与えたんだ」

 流石にこれ以上無言でいるのは不自然だと思い、私は口を開きます。

「……その条件とは、いったい?」

「それは、銀竜クルークの審判の場から地上へと戻るまでの間、決して背後に付き従う妻に振り向かないこと……、もしその約束を破ったら――その瞬間、審判は執行され妻は新たな生命へと生まれ変わることとなるってさ」

 このブラダナ様のお話はもしかして……、あの方は、あそこを訪れた生者は何百年ぶりだと仰っておりました。もしかして、その方のお話なのでしょうか? このような話、私、初めて耳にいたしました。
 銀竜王さまの審判の話はトルテ先生から教えて頂きました。ですがあの逸話を大量に仕入れておられたトルテ先生からも今の話は聞いたことがございませんでした。
 それに、私と旦那様とのときとは少々様子が違うようです。私の試練がこの話と違うのは、もしかして旦那様が銀竜王クルーク様の審判を受ける前だからなのでしょうか?
 私がそのような事を考えている間にも、ブラダナ様は言葉を続けます。

「結局のところ、夫はクルークの審判の場から地上までの道のり……その、永遠に続くのでは無いかと思われる道のりに、背後の妻が本当に付いてきているのか……確信が持てなくなってしまったんだねぇ。ついは振り向いちまったんだ。妻は確かに夫の直ぐ後ろを歩いていた。だけどさ、その妻が手持っていた長い蝋燭の乗った燭台、その上に灯っていた炎がその瞬間、異常に大きく燃え上がってみるみる間に蝋燭は短くなり、妻も生者の肌色から死者の肌色へ……そして肉は腐れてついには骨となり、炎が消えるのと同時に消えて無くなっちまったんだとさ…………ああっ、ああ、悪かったよ嬢ちゃん。泣かすつもりじゃなかったんだがね……」

 ブラダナ様は、表面上はいつもの淡々としたご様子ですが、その口調が珍しく慌てたものになってしまいました。
 それは、私がいつの間にか瞳から涙を溢れさせていたからです。
 私、その夫の悲しみがいかばかりのものであったかと想像してしまいましたら、涙が溢れてしまって留めることができませんでした。

「……ブラダナ様……フローラを虐めないで、頂きたい……」

 頬に涙を流す私の横から、そのように掠れた声が掛かります。

「ああっ……旦那様!」

 私はソファーから立ち上がり、旦那様へと駆け寄りました。そのままの勢いで抱きついてしまいそうになって、グッと身体を押しとどめました。
 私の目からは、先ほどまでと違い、歓喜の涙がこぼれ落ちます。

「お目覚めになったのですね……ああっ、無理をなさらないでください」

 旦那様が、ベッドの上に身体を起こそうといたしました。
 私は押しとどめようといたしましたが、彼は思いのほか力強く……その身をベッドの上に起こします。

「大丈夫だよフローラ……俺は、いったい……」

「覚えているかい? アンタは、バレンシオ伯爵が針に仕込んでいた毒にあてられて死にかけてたんだよ。まあ、弟子アンドゥーラの魔法薬の中を針が通り抜けたおかげで、だいぶ威力が弱まったようだけどさ、普通だったら即死の毒だ。嬢ちゃんと己の運に感謝するんだね」

 ブラダナ様が、ぶっきらぼうに言い放ちました。

「ああ……覚えています。まるで全身に焼けた鉄でも押し当てられたような……」

 旦那様はそこまで言いましたが、私の表情を見て口を閉ざしました。
 私が、よほど痛々しそうに旦那様を見つめてしまっていたからかもしれません。

「それよりも、ここは?」

「ここは王宮の一室です旦那様。陛下の恩情でこちらに滞在させて頂いております」

「……今日は?」

「旦那様が倒れてから今日で三日目になります」

 私は、旦那様の言葉の意味を察して答えます。

「そうか……ならば、俺の目も覚めたことだし、陛下にお礼を述べて引き上げよう」

「大丈夫なのですか!? 今目覚めたばかりだというのに……」

 心配する私に気を遣いながらも、旦那様は自身の身体を確かめるように腕や足を動かして見せます。

「思いのほか、大丈夫な感じがするんだが……」

 その様子をブラダナ様は目を細めて見ておりました。

「嬢ちゃん。本人が大丈夫ってんなら、大丈夫だろうよ」

 そのような遣り取りをしておりましたら、部屋のドアの向こうから、「皆様、アンドリウス陛下がお越しになりました」と声が掛かり、寸暇を置かずドアが開け放たれました。
 アンドリウス陛下は供を伴わずに室内へと入ってまいりました。

「おお、エヴィデンシア伯爵、目覚めたか……少しやつれたようだが、思いのほか血色が良いな」

 陛下は、旦那様を目にしてそのように仰います。

「ああ、そのままで良いぞ」

 私たちが陛下に礼をしようと身体を動かすより先に、陛下が手を差し出して留めました。

「この度は、私のためにこちらの部屋を使わせて頂き、まことにありがとうございました」

 旦那様は陛下の言葉に甘え、ベッドの上に掛けた状態です。

「そのような挨拶はよいわ。お主たちの働きで、長年の痼りが取り除けたのだからな。まあ、便利な痼りでもあったのだが、王家に弓引くことまで考えておったとはな……、それにしても毒を受けて目覚めたばかりにしては元気そうではないか……」

 陛下がそのように話を始めますと、ブラダナ様がヒョイとソファーから立ち上がりました。

「陛下……あたしゃ、退室させて頂くよ。隠居した身でこれ以上やっかい事に巻き込まれたらたまったもんじゃないからね」

 そのように仰ると、陛下の返事も待たずにひょこひょこと部屋を出て行ってしまいました。

「……まったく、彼奴めは……弟子が弟子なら師も師だな」

 どこか呆れた様子で陛下が呟きます。

「……ところで、褒美の話はどうする。我は今この場でも構わんぞ」

「いえ、それはまた後に機会を設けて頂きたく存じます。立ち会って頂きたい方が、今はおられませんし……それに、こちらには伝声管が仕込んであるのではございませんか?」

 旦那様がそう言いますと、陛下が片眉を上げて興味深げに私たちを見ました。

「ほう、何故そう思った」

「私が目を覚ましたのは先ほどです。しかし陛下は、まるで待ってでもいたようにやってきましたから」

「……やはり、面白い男だな卿は。グラードル……お主、第二夫人を娶る気はないか? 我が良き娘を紹介してやるぞ」

「なっ、何を突然そのような事を……」

 アンドリウス陛下の突然の申し出に、旦那様は狼狽して軽く咳き込みました。
 私は、自身の狼狽を心の内へと隠し、旦那様の背をさすります。
 陛下は、そんな私に軽く視線を走らせてから旦那様に視線を戻しました。

「お主の妻は、いまだその身体が幼く見える。子を成すのに耐えられぬのではないか?」

 ……陛下はそのように仰いました。一応身長は、年相応と言われております……陛下。

「お主のように才気ある者の家は、長く続いてもらいたいからな。お主の血が残ればエヴィデンシア家もさらに発展するだろう」

 陛下のそのお言葉に、私は胸が詰まりました。陛下は旦那様の寿命が短いことを知っておられるのですね。
 それで、そのような……。
 旦那様は陛下の申し出に答えるために、ベッドの上ではあるものの姿勢を正してまっすぐに陛下に視線を合わせます。

「誠に有り難い申し出ですがアンドリウス陛下……、そのお申し出はお断りさせて頂きます。……私の愛情は、このフローラに注ぐ以上の量がございません。貴族家同士の婚姻が愛だけでない事は存じております。しかし、幸いにも私は、己の愛情の全てを注ぐことのできる相手を妻とすることができました。小才なる身の私には過ぎたお言葉でございます」

 旦那様のその言葉に、私は身体が震えるほどの嬉しさと、恐れ多くて身の縮む思いとを同時に味わうという、希有な体験をしてしまいました。
 私個人にとって旦那様のこの言葉は、身体が震えるほどに嬉しいものです。しかし、貴族として陛下の申し出をこのように断るなど……おそらくこれは、陛下から旦那様への恩賞のひとつであったはずです。
 そのように考えて私が身体を硬くしておりましたら、突然、陛下が笑い出しました。それは痛快そうに……。

「誠に……グラードル。卿は面白い! 我の言葉を真っ向から断るなど…………そういうわけだそうだぞ、レガリア。お主の相手はまた別の者を探さねばならんな」

 陛下はそう仰って、ドアの向こうへと視線を向けました。

「アッ、アンドリウス陛下……別に、私はそのような事……」

 ドアの影から出てこられたレガリア様が、所在なさげにチラチラと私を見やりました。

「あっ、あの……フローラ。別に貴女の旦那様を取り上げようなどと、そのような事を考えたのではありませんよ。私、エヴィデンシア家の館でのグラードル卿と貴女との仲睦まじさを目にしていて……それに茶会で、身を挺してグラードル卿が貴女をあのように庇う姿を見て……その、少しときめいてしまったのです。ええ、それだけです。……ですから、大丈夫です。このような思いは一時のこととして、直ぐに整理できます。ですから、学園や貴宿館では、今の陛下のお話は無かったこととして……その、接してくださいね。……陛下。私、恨みますからね」

 私たちに向かって、しどろもどろに仰ったレガリア様は、最後にいじけたように陛下に恨み言を残して、廊下の向こうへと消えて行かれました。

「いやいや、レガリアのあのように娘らしい態度が見られるとはな……エヴィデンシア家の娘ならば知って居ろう、レガリアの家のことは」

 なんとも朗らかに楽しそうにお笑いになるアンドリウス陛下には申し訳ございませんが、私、レガリア様の味方です。陛下は無神経だと思います。
 ですが、問われた以上は答えないわけにもまいりません。

「はい……レガリア様のルクラウス家は、初代国王クラウス陛下の御子である双子。弟の方が優れているからと王位を継承しなかった第一王子、兄であるルーファス様から続くお家柄です。クラウス陛下がその王家を思う心根に心動かされて、公爵家へと分家なされるときにルクラウスと、ご自分の名前が入った姓を贈ったとか。ここ何代か王家との婚姻が無かったために公爵家から侯爵家へと降爵なさっておりますが、オルトラント王国でも有数の名家です」

 私がそのように言いますと、隣で旦那様が目を剥いておられました。このような逸話を知っている家も、オルトラントでは少なくなってしまっております。
 しかし、レガリア様の名が出ずに第二夫人の話を持ちかけられましたので、この場合は助かったのかも知れません。これは、もしかしてまた陛下に試されたのでしょうか?

「しかし、エヴィデンシア伯爵夫人……これから心しておけよ。バレンシオ伯爵が退けられ、しかもお主の夫は、茶会の席であれだけ大々的に、その能力ちからをひけらかしたのだ。エヴィデンシア伯爵家を敬遠する理由がなくなった今。農奴娘などと陰口をたたかれる第一夫人を蹴落として、自分がエヴィデンシア家の第一夫人の座を……などと考える奴儕やつばらが、どこから現れるか分からんからな……この男が、これだけ入れ込む女だ。お主のことも我は見ているぞ……」

 アンドリウス陛下の強い視線が私を貫きます。
 先ほどの話、私一瞬旦那様の野心を量られたのかと思いましたが……もしかして陛下は、私の事を考えて先ほどの話をしたのでしょうか? レガリア様が嫁いでこられれば、大半の貴族家は割り込もうなどとは考えないでしょうから。

「陛下には、我が家に対して勿体ないお心遣い痛み入ります」

 私がそのように返事をいたしますと、陛下の意図を察したと理解されたのでしょう。満足げに、力強い笑みを浮かべました。

「グラードル卿も、毒をくらって目覚めたばかりだ、今日はこのくらいにしておくか。身体の調子と準備が整ったらクラウス付きの近衛を通して言ってくるが良い。卿と語り合うことを楽しみにしておくぞ」

 そのように仰いますと、陛下は部屋から出て行かれました。
 結局、その日の夕に私と旦那様は、王家の馬車にゆられて我が家へと戻ることとなったのです。

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