モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第三章 モブ令嬢と旦那様と襲撃者(後)

「ぐぁッ! イタッ、痛い、痛い! はッ、放せ! くそっ! ナゼだ、何故」

 旦那様はボンデス様の両の手を後ろ手に捻り上げました。

「暴れないでください兄上! レオン兵長、馬車に縄がないか探してきてくれ!」

 レオンさんが壊れた馬車に向かい御者台の辺りを探ります。その様子を確認して私は旦那様の側へと移動いたします。

「くっ、貴様! あっ、待て! 奥方!! 危ない!」

 レオンさんから視線を外して私が旦那様の側へと数歩歩いたところで、レオンさんが警告の叫び声を上げました。
 その声に振り返りましたら、黒ずくめの男が私に向かって突進してくるところでした。
 男の手には剣が握られていて、剣の刃が不気味に月光を反射して光ります。

「フローラ!!」

 私の名を呼ぶ旦那様の叫び声が耳を打ちます。
 男が腰だめに剣を持ち、そのまま身体をぶつけるように私に向かって走ってきます。その一連の動作は非常にゆっくりと感じられました。ですが、私の身体も同じようにゆっくりとしか動きません。意識だけが状況を素早く捉えて、私の絶望的な状況を知覚させます。

 私、まだ死にたくありません……旦那様と幸せな未来をこの手にしたいのです。決して、旦那様をゲームという物語のような不幸に見舞わせたくないのです。
 それに、苦しい時代を乗り越えて、やっとこの先に光明が見え、穏やかな生活が訪れようとしている父様もお母様も幸せにしたいのです。旦那様と私にエヴィデンシア家の未来を見て、力を尽くしてくれているアンドルクの方々。彼らの助力をこのようなことで無にしたくはございません。
 しかし、男の狂気に染まったような暗い紫の瞳が、私を捕らえて放しません。

 私は、どんなに無様であろうとも最後まで生きることを諦めたくございません。生きていればこそ成せることがあるから……、私は、気が狂いそうなほどに僅かにしか動かない身体を、必死に刃から逃れるようにと動かします。

 刃が、私の身体に届く――そう思われた瞬間、男がガクリと膝を地面に付きました。そして誰かの手が男の剣を持つ腕をつかんで、その進路を私の身体から逸らせます。そしてその逸らせた力をそのまま利用して男の体勢を崩すと、腕をつかんだのと逆の腕で、顔面に肘打ちを入れました。しかもそのまま地面に叩き付けるようにと組み落とします。
 まるで蛙を踏み潰したようなグェッという声が上がり、男は動かなくなりました。
 それを確認して、私を助けてくださった方はゆっくりと立ち上がります。
 逆に私は気が抜けてしまい、ストンとその場に座り込んでしまいました。そして身体が震え出します。

「フローラ! 大丈夫か!」

 旦那様がそう仰い、私に駆け寄ってきました。……ボンデス様はどうなされたのでしょうか? そう思ってそちらに視線を向けましたら、ボンデス様は地面に伏して気絶しておられるご様子です。もしかしてですが、私を助けに動くために、気絶させたのでしょうか?

「ああグラードル卿、安心したまえ――君の最愛の人は無事だ。しかしすまなかった――出遅れてしまったねぇ。まあ、何とか間に合ったようでよかったよ」

 月の光が差し、私を助けてくれた方の横顔が僅かに覗けます。

「……ライオット様」

「フムフムいかにも、捜査局のライオットだとも。しかしまさか、ルブレン家の敷地内で御者の入れ替えをされるなど思ってもみなかった。君らの乗った馬車が逆方向へと曲がって、馬が暴れ出したときには肝が冷えたよ。逃げたあの御者は別の者が追いかけているが……捕まえられれば良いのだがねぇ」

 ライオット様は、寸前までこの場にあった悲壮な状況などありもしなかったように、いつもの剽げた調子で仰います。
 旦那様は私の前に屈むと、傷を受けていないか確認するように私の身体に優しく触れます。……その、少し恥ずかしいですが、旦那様は私のそんな様子には気づかずに、真剣な面持ちで剣の刃を突き立てられそうになったお腹の辺りを丹念に調べました。

「……本当に、無事でよかったフローラ。兄上を放り出してでも助けに走るべきだった……俺は……」

 一通り私の身体を調べて旦那様はそう仰いました。声が僅かに震えております。
 いいえ、いいえ旦那様。あのとき、もしもボンデス様を放り出しても間に合いませんでした。
 今回こそは、私はこの身の幸運を有り難く思うしかございません。
 ですが、ライオット様が間に合ったのも、旦那様とレオンさんが時を稼いでくださったからです。

「旦那様、心配お掛けしました。私、生きておりますよ。少々、いえ、だいぶ恐ろしかったです……あの、旦那様、ぎゅーってして貰っても良いですか?」

 悪夢を見た幼子のような事を言ってしまってから、私は恥ずかしくなって顔を赤してしまいました。
 しかし旦那様は、私を愛おしむように微笑むと、そのおねだりに応えてしっかりと抱きしめてくださいました。

「ふむふむ、こちらは普段の調子に戻ったようだね」

 そう言って、ニヤニヤと笑います。
 あの、ライオット様――それでは、旦那様と私はいつも抱き合っているようではございませんか。そんな私の抗議の視線を無視して、ライオット様はレオンさんに向き直りました。
 丁度、レオンさんが馬車から縄をみつけこちらへとやってきたところです。

「それにしても、君の判断もなかなかだった。君の投げた短剣のおかげで、この男の足が止まった。グラードル卿たちと面識があるようだが?」

「ハッ、軍務部においてグラードル卿の配下の歩兵小隊を取り纏めております、レオン兵長であります!」

「いやいや、丁寧な紹介痛み入る。しかし俺は法務部の人間なのでそのような格式張った態度は無用だよ。ああそうだ。あの辻馬車の持ち主が、馬泥棒だと騒いでいたので後できちんと話を付けに行かないといけないね」

「ああっ、やっぱり伝わってなかったですか……奴らが説明してくれていれば良いんだが」

 ライオット様の言葉に、レオンさんはげっそりしたようは表情をいたしました。
 私たちのために、このように尽力して頂いたのに、そのために馬泥棒の汚名を着せてしまっては申し訳ございません。





 あの後、ライオット様を追いかけるように捜査局の人員が数名、カンテラを手にやってまいりました。
 私たちがこの場所で襲われていたときには人がおりませんでしたが、いまは物見高い人たちが捜査局で封鎖した空間の向こうで群れており、人の声がざわざわと聞こえます。
 その中に旦那様を救出に向かった折、同行してくださったアンドルクの方が数名見られました。彼らは見物人に紛れて、周囲を警戒しているご様子でした。

「あの馬は可哀そうなこだったね。毒を使われたようだ。西門の辺りで事切れていたそうだよ」

 法務部の護送用馬車が来るまでの間に、分かっている状況だけをライオット様が語って聞かせてくださいました。
 見物人たちから私たちが見えないようにと、近場から借りてきたらしい大きな布で小さな陣のような場所がつくられて、私たちはその中におります。

「あと、本来の御者だがね……残念なことに殺されていたよ。ルブレン家の庭園の片隅に隠すようにして放置されていたそうだ」

 それを聞いた旦那様が、片方の手で顔を覆って天を仰ぎます。それから少しして、旦那様はボンデス様に向き直って口を開きました。

「兄上……このような暴挙をして、ご自身がどうなるか分かっているのですか?」

 旦那様は、後ろ手に両の手を縛り上げられて地面に座らせられているボンデス様を遣る瀬ない表情で見つめます。
 カンテラの中の僅かに揺らめく炎の光の明暗が、旦那様の揺れる心の内を写し取っているように感じられました。
 旦那様の問いかけに、ボンデス様がギョロリ、と、どこか焦点の合わない赤黒い瞳で彼を睨み付けます。

「……俺が――俺こそが、父上のあとを継ぐにふさわしい人間なのに! いつもそうだ! キサマは持っているのに――血も、地位も……。俺は兄と生まれただけで、何が我慢しろだ! 俺とて五歳で母を亡くし、その悲しみも癒えぬ間に、父上はお主の母を迎えた。キサマなど物心つく前には居なかった母に何の悲しみがあるのか!! ヴェルザー商会はお祖父様と父上が、我が母と共に大きくしたのだ!! それをただ地位を手に入れるためだけに迎えた女の……グラードル、ヴェルザー商会もルブレン侯爵の爵位も、お前などに渡してなるものか!! なのに……なのに、きっ、キサマが! 何故キサマなどが王の御前にまみえる事が叶うのだ!! そうやって王に取り入り、我が家を乗っ取るつもりであろう! この狐のような奸物が!!」

 ボンデス様がそう叫ぶように仰います。
 ギリッ、と旦那様の口元から音が響きました。まるで歯が割れでもしたような音です。彼はそれほど強く歯を噛みしめたのでしょう。

「……誰がその事を兄上に?」

 そう底ごもるような声で旦那様が問いました。その声に含まれているのは明らかな怒りです。
 しかしその怒りは旦那様の表情にはありません。いえ、あまりの怒りに表情が抜け落ちてしまい、顔色も蒼白に見えるほどです。
 いったい誰が、ボンデス様に王家の茶会のことを告げたのか。お義父様もそのことをボンデス様が知ったらどのような反応をするか分からないと心配しておいででした。
 旦那様は、ボンデス様のように叫んではおりません。しかし、彼の全身から発せられた怒りにボンデス様は気圧されたように見えました。

「なッ、何だグラードル……そのように恐ろしい顔をして……、ロラン……だ、従僕のロランが注進してくれたのだ。お前が王家の茶会に招かれると。そこで、王にエヴィデンシアとルブレンを合爵して、エヴィデンシアを侯爵家へと昇爵する願いを出すのだと。父上とその話をするために我が家を訪れていると……」

「何を馬鹿な! 落ち着いて考えてみてください兄上。我が家はいまたまたま白竜の愛し子と聖女様を預かっているから、その関係で呼ばれるのです。それに何回も言っておりますが、私はルブレン家の爵位もヴェルザー商会にも未練はございません」

「まあまあグラードル卿。身内のいざこざはとりあえず後にしなさい。ボンデス君。先ほどグラードル卿たちを襲った者たちは君が手配したのかね?」

 ライオット様が、旦那様とボンデス様の間に入り旦那様の言葉を遮ります。そうして、ボンデス様の前に屈んで視線を合わせて笑いかけました。

「……話してみなさい」

 ライオット様の言葉には、有無を言わせない力強さがございました。普段の剽げたご様子が幻のように感じられます。

「……おっ、俺ではない。ロランが手配してくれたのだ。彼奴はずっと俺の味方をしてくれていた。俺がルブレン家で不当に扱われていると……、家臣として見るに堪えないと言って……グラードルさえ亡き者にすれば、全て巧く行くと……、グラードルを片付ける所を俺に見せてくれると連れ出されて、俺は……何を……、いや、ロランが俺に嘘を言うわけが……」

 視線がぐるぐると落ち着き無く動いて、いまにも目を回して泡を吹きそうなご様子です。

「…………うーむ、この様子は、精神誘導されているようだね。どうするねグラードル卿? 君の命を狙ったことは確かだし、直接ではないにしても御者を殺害した一味という扱いで捕縛することは出来るが」

 その言葉に、旦那様が地面に両膝をついて頭を下げました。これは相手に懇願する体勢です。旦那様の前世でも同じ意味の体勢であったと仰っておりました。

「バーズ捜査局長、お願いです。私を狙った件については不問に願います。兄上は精神が疲弊しておられる。私は気の迷いだと理解しております」

「ふむ、命を狙われたというのに寛容なことだ。奥方も巻き添えで命を失っていたかもしれぬというのに……」

 いえ……おそらくは、私たちエヴィデンシア家の事情にボンデス様を巻き込んでしまったというのが正解かもしれません。ボンデス様以外の襲撃者の目的は、私か旦那様を亡き者にすることであったと思います。旦那様もそのことには気付いておられるでしょう。

「今回の襲撃はおそらく、バレンシオ伯爵の手の者の仕込みであると思われます。まさかルブレン家の使用人に、バレンシオ伯爵の間者が紛れ込んでいるとは考えてもおりませんでした。しかし、兄上は一度捕縛して頂いて、隔離した方が良いかもしれません。ルブレン家にまだ間者が忍んでいる可能性がございます。下手をすれば兄上が消されかねない」

 旦那様がそう仰いますと、突然ボンデス様が狂ったように笑い出しました。

「……そのように殊勝な申し出をして、俺に恩でも売るつもりか!! 俺は騙されんぞ! 父上やここに居る連中は騙せても、キサマの心中は俺が一番よく分かっているのだ! 金のために身を売ったルブレンの売女の子が!!」

 そうボンデス様が旦那様を罵った瞬間、私は彼の前へと進み出て、その頬を張ってしまいます。
 私はキッとボンデス様を睨んでしまいました。しかし私には、彼がいまどんな表情をしているのか分かりません。それは私の瞳からボロボロと涙が溢れてしまっているからです。

「ボンデス様……いい加減に現実を見つめてくださいまし! どうしてご自身の心中の幻に固執するのですか。確かに以前の旦那様はボンデス様の仰っているような方だったかもしれません。しかし、お願いします……心の中に在る幻を拭って、いまの旦那様を見てあげてくださいませ。そうしてお考えください。囁かれた他人の言葉でなく、ご自身の心で……それでも、信じられないのでしたら、何度でもお顔を合わせて話し合いましょう。旦那様はボンデス様、お義兄様の事を本当に心配しているのですよ……」

「…………………………」

 私、自分がこのように感情のままに動いてしまう人間であったのかと、旦那様と結婚してからハッキリと自覚してしまいました。……とても恥ずかしく思います。

 ボンデス様に対して、なぜ旦那様の事を分かって頂けないのかという焦れたような思いと、感情を抑えられずに爆発させてしまった自身に対する恥ずかしさで、私が身悶えておりましたら、「いっ、いまのは……いったい……!?」と、旦那様が何かに驚いているような呟きを漏らしました。

 私は涙を拭って旦那様を見ました。旦那様はボンデス様を何か不思議なものでも見るようなご様子で見つめております。
 そのボンデス様は、私に頬を張られた衝撃でどこかぼーっとしたご様子でおられます。

「……旦那様? どうかなさったのですか」

「いっ、いや、気のせいだったかもしれない……」

 私が尋ねますと、旦那様は周囲をそれとなく見回して、どこか歯切れの悪い返事をいたしました。
 私も旦那様にならい周りを見回しますが、ライオット様もレオンさんも何かおかしなものを目にしたようなご様子は窺えません。
 いったい旦那様は何を見たのでしょうか?

 その後、やってきた護送の馬車に乗り、私たちは法務部行政館へと移動することとなりました。

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