モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第三章 モブ令嬢ともう一人の先生

「フローラは、誰にバリオンを教わったの? あれだけ巧いんだから独学ってことはないよね?」

 緑竜の月およそ五月に入ってすぐの黒竜の日日曜日、旦那様は突然思い出したようにそう仰いました。
 そのとき私は、書斎で旦那様にあの不思議な響きの言葉を教えていただいておりました。
 先日旦那様のお話を聞いた次の日。メアリーには『奥様に裏切られてしまいました……よよよよ……』と、真顔のまま言われてしまい、結局、彼女には私が教わったことを教えるという話になりました。
 旦那様にそう報告いたしましたら、『まあ……仕方がないか』と、半ば諦めたような表情を浮かべて、弱々しく笑っておりました。

「バリオンの基礎は……お祖父様とお父様に教えていただきました」

「……義母はは上じゃないんだね」

 旦那様が意外そうな表情を浮かべております。
 確かに、お母様はバリオンを弾きそうな雰囲気をしております。

「お母様は、楽器がお得意ではございません。……その、どちらかといいますとお得意なのは、舞踏ダンスですとか乗馬ですとか……あと、眉尖刀びせんとうが……」

「えッ? 眉尖刀って『あの薙刀なぎなたみたいな』、……意外だねぇ――ッて、義母上が!?」

「はい、お母様のご実家オーディエント子爵家は、マーリンエルトでも武門の家柄と言われております。私も乗馬はお母様に教えていただきました」

「ああ、そうか――義父ちち上が戦傷を負われたのは、フローラが生まれるより前だもんな」

「ええ、それにお父様とお母様は、その戦傷が元で出会ったのです。お父様は共闘しておりましたマーリンエルトの療養所へと運ばれ、そこで療養助婦をなされておられたお婆さまのお手伝いをしていたお母様と出会ったそうなのです。お母様から聞いたお話ですと、ご自分の身体の状態を知り、失意のあまり自暴自棄になっておられたお父様を叱り飛ばしておられる内に、『この人は私がいなければどうなってしまうか分からない』と思ったそうなのです。そして反対するご家族を説き伏せてエヴィデンシア家へと嫁いで来たのだそうです」

「うわーっ『ナイチンゲール症候群ってやつか』。でも……あれだけ仲睦まじくやってるんだから、運命の相手に巡り会ったってことなのかな……でも、ずれちゃったなフローラ」

 ナイチンゲール症候群とは何でしょうか? その辺りだけ日本語と呼ばれる言葉だったようです。後で、教えていただきましょう。ですが確かに話が、別の方向へと外れてしまっておりました。

「そうでした。私にバリオンを教えてくれた先生の話でした。あの……実は、拾いました」

「へっ? あっ……あの、拾ったって? えッ? もしかしてバリオンの先生を拾ったの!?」

「はい……あれは、使用人――アンドルクの方々が既に我家からいなくなり、既に一年以上が過ぎた頃の事で、その日は前日に降った雪が積もっておりました。広いお屋敷の中は私たち家族だけになり、訪ねてくる来る方もほとんどおりませんので、私はひとりで馬に乗って遊んでおりました。そのとき、大地一面が白く染まっていた門の側に黒っぽい塊を見つけたのです……」

 私は旦那様にそう語りながら、あの時の事を思い出します。

「ねえ、ウェントあれって何かしら?」

 私は、まだ二歳になったばかりの愛馬の首を軽くあやしながら、その塊へと近づいて行きました。
 近付きますと、そこには人が、雪の上に前のめりに倒れておりました。
 黒っぽく見えたのはマントのようです。さらにその背にはバリオンケースらしき物が背負われておりました。
 ちなみに、頭と思われる辺りにはよれた三角帽子が見えます。
 馬上からそれを確認した私は驚いて、馬から飛び降りますとその方へと駆け寄りました。
 私は、倒れている方のすぐ側まで行きましたが、『知らない方にむやみに近づいてはいけませんよ』とお母様に言われていたのを思い出して、足を止めます。 

「ねぇ……あなた、大丈夫? ねえ?」

 私はそう問いかけましたが、反応がありません。

「ねえ、大丈夫?」

 もう一度私が問いかけますと、私の後ろにいたウェントがヌゥウっと頭を下げて、その方を鼻先で揺すります。

「むぉッ、クッ……」

 ウェントに揺すられて意識を取り戻されたのか、声が漏れました。声の感じは男の方でしょうか?
 さらにウェントが、鼻先でグイグイと身体を揺すります。

「……はっ、腹が……クッゥ」

「おっ、お腹が痛いのですか!? 大変です! 私、お母様を呼んできます!」

 私がそう言って、駆け出そうといたしますと……

「はっ……腹――減った……」

 その方はそう仰いました。さらに続けて、

「……それにしても聞こえる声は、可憐なお嬢さんのようだがなんとも獣くさいお嬢さんだね……」

 そう仰いながら顔を上げて、ウェントと顔を合わせます。

「うわぉ……!?」

 そう叫んで、半身を起こして後ろへとずり下がりました。

「なんと、この国では馬が人語を話すとは!?」

 その方はそれだけ言うと、やはり空腹なのでしょう、そのままクタリとしてしまいました。

「いえ、あの、話していたのは私で、この子は我家の馬です……」

 私がそう言いますと、その方は目だけを動かして私を確認いたしました。一瞬、うぇーっ、とでも言うような表情を浮かべられたような気がいたしましたが、急がなければという思いが強く、その表情のことはすぐに忘れてしまいました。

「少々お待ちください。私、母を連れてまいります。僅かばかりですが、何かお腹を満たせる物もご用意しましょう。ウェント、この方を見ていて上げてくださいね」

 私はその後、お父様とお母様にこの方の話をしました。
 そしてお母様とウェントの協力もあり、何とかこの方を我家の玄関先まで運びまして、後はお母様と私が寄り添って、足りない分はご本人の気力を頼りに客間までたどり着くことができました。


「ふぐ、はぐ、はぐ、もぐもぐ……ウグッ、ゲホッ、ゲホッ」

「落ち着いてください――食事は逃げません。はい、お水です」

「う、うんぐ、ゴクッ……。フーッ、いやーすまないお嬢さん、奥方も、ここ数日飲まず食わずだったものでね。このような気候では、吟遊詩人というやつはあがったりでね。稼ぐのもままならない。お貴族様の御前で歌や演奏を披露して小金を稼げればと思っていたのだが、門前払いをされてこのざまさ」

 部屋へと身を落ち着けたその方は今、ベッドの中で腰掛けてトレーの上に置かれた食事を掻き込むようにして食べております。
 彼はトルテ・フォンサスと名乗りました。もう何日も野外で生活をしていたのか、彼の金色の髪はくすんだように汚れていて、ボサボサとしております。
 瞳の色は黄土色で、その目はどこかいつも笑っているようににこやかに見えます。
 お顔は先ほど布巾で拭っておりましたので、その肌が瑞々しい感じに潤って見えます。声の太さや語り口で男性だとは思うのですが、線が細く、非常に見目麗しいお顔立ちですので、外見だけですと女性か男性か判断に迷います。

 お父様は彼が、館に入ったときに挨拶をいたしましたが、今日のよう寒い日には古傷が痛むらしく、今は部屋に戻って休んでおられます。
 お母様と私は彼に食事を提供しながら、少し話をいたしました。
 彼は吟遊詩人で、大陸を自由気ままに歩き回りながら生活をしておられるとか。
 今回オルトラントにやって来たのは、なにやら探し物があるらしくそのついでだそうです。

 彼は翌日には少し体力を回復いたしまして、夕には食卓にて共に食事をいたしました。
 食後に彼はお礼だと言い、歌とバリオンを披露してくださいました。
 その歌と演奏は……軽やかで楽しいものから、悲しく泣き叫ぶようなもの、そして雄大で雄々しいものなど、どれも素晴らしく、私に強い衝撃を与えました。
 そしてそれは、音楽によって人の心がこれほど揺さぶられるのだと、私が初めて知った瞬間でございました。
 私は、それまでもバリオンの演奏が好きでしたが、それは私には娯楽といえるものがバリオンの演奏と、ウェントに乗って屋敷の林を歩き回るくらいしかなかったからです。

「あっ、あの……フォンサス様、お願いでございます。私にバリオンを教えてくださいまし!」

 彼の演奏が終わった後、私はお父様にもお母様にも相談することもなくフォンサス様にそう申し出てしまいました。
 お母様は私の行動に目を見開いて驚いております。
 ですが、お父様は少しムッとしたような表情を浮かべました。

「フローラ。失礼であろう突然そのように。申し訳ないフォンサス殿……」

 お父様がそのように私を戒めます。

「……しかし、フォンサス殿。昨日から本日で我家の状況についてお気づきかとは思う。私からも伏してお願いしたい。フローラ――我が娘は、この歳にして我家の状況を理解し、我が儘らしいことを言ったことがない。その娘が初めてこのようなことを言い出したのだ。親としてこの子の願いを叶えてあげたい」

「お父様…………お願いいたします。先生」

 私は、お父様のお言葉に涙が滲むのを止められませんでした。
 お母様が優しい視線を私とお父様に向けております。

「いやー、なんともいじらしい家族愛ですね。ふーむ、それに先生か……フッフッフッ、市井に暮らす私がお貴族様の先生ですか……いやー、これは友に自慢ができる。仲間内で先生などと呼ばれたのはボクくらいのものでしょう。分かりました。私もこちらには探し物があってやって来たので、しばしの間拠点となる場所がほしかったのです。しかし、自由を愛する吟遊詩人たる私、ずーっとというわけにはまいりませんが、宿と食事をご提供いただけるのならば、お引き受けするのもやぶさかではございません。先ほど言った探し物の件もございますので、フラリと出歩いたりするかも知れませんが、その辺りはご了承願いたい」

「いや有り難い。それだけでも十分だ。本当に感謝するフォンサス殿」

 そうして、私はトルテ先生にバリオンを教わることになったのです。
 先生は私に様々な楽曲だけでなく、その楽曲を創られた方のお話や、創られたときの時代背景や逸話など様々なことを教えてくださいました。それ以外にも吟遊詩人として語る昔話や神話など様々なことを語って聴かせてくださいます。
 ですが先生は、仰っていたように、我家にずっと滞在するわけではなく、フラリと数日、数ヶ月居なくなったりしながらも、四年ほどの間、我家を拠点としてオルトラント周辺を歩き回っておりました。

 そして、私が十一歳になった年、先生は、「以前からの約束があってね、ボクはトーワ皇国へと行かなければならないんだ。探し物が見付からなかったのは残念だが、あちらの約束も大事だからね。またいつかこちらにやって来るかも知れないが何年後になるかは分からない。フローラ……君のバリオンの才能は本物だ。次にボクと会うときには今よりも素晴らしい奏者になっていることを祈っているよ。……しかし、君はこの先、その髪と瞳の色で苦労するかも知れない。正直なところ、ボクはこの髪色と瞳の色だろ、以前ノルムの眷属に酷い目に遭わされたことがあってね。ボクは君のその髪と瞳の色が苦手だったのだけど……、いいかいフローラ……髪と瞳の色などというものは、ボクたち吟遊詩人のように気まぐれな竜王や精霊たちが勝手に与えた加護の強さが表れているだけなのだから。大切なのは君の心の輝きなのだということを忘れないようにね」

 という話をなされて、数日後にオルトラントを立つと仰います。
 そうして、トルテ先生が旅立つ当日、私はバリオンを背に館を出た先生に声を掛けました。

「お待ちください、先生」

 私の制止に、先生が不思議そうに振り返りました。
 私は隣に杖をついて立つお父様に目配せをいたします。お父様が静かに頷きました。

「先生、ウェントをお連れください。トーワ皇国はオルトラントからでは円環山脈を挟んで反対側になります。この四年でウェントもすっかり大人になりました。先生の旅路にきっと役に立つでしょう。それに来年には私も学園に通うことになります。この先、ウェントの世話も行き届かなくなってしまうかも知れません。先生さえよろしければ、ウェントを貰っていただきたいのです」

「ふーむ、良いのかい? 物臭なボクのことだ、もしかしたら金に困って早々にウェントを売り払ってしまうかも知れないよ?」

 先生は、どこか悪戯をする子供のような表情を浮かべてそう仰います。

「私は、先生がそのように悪ぶっておられましても、本当は面倒見が良いことを知っておりますので、先生にでしたら安心してウェントをお任せできるのです」

「……まったく、君っては。分かった、ボクの負けだよ。有り難くウェントをいただこう。次にいつこちらにやって来るかは分からないけど、ウェントはボクが大切に扱わせていただくよ」

「お話はまとまったようですね。――さあウェント、今日からはフォンサス様があなたの主になるのですよ。これまでありがとうウェント……」

 ウェントを駆り林の方からやって来たお母様がそう言いながら、ウェントの首をさすります。
 お母様がウェントからおりますと、私もウェントに寄り添って頭を下げたウェントのたてがみを撫でます。

「ウェント、いい、先生がまた生き倒れたりしないようにしっかり先生のことを見てやってね」

 私がそう言いますと、ウェントはそれに答えるように嘶き、先生はなんとも情けなさそうな表情を浮かべました。

「いやフローラ、それは手厳しいな。ボクはそこまで信用がないのかい?」

 私は少し涙を滲ませた半笑いの笑顔を先生に向けました。

「先生との出会いが出会いでしたので……」

 そうして、私たち家族に見送られ、先生はトーワ皇国へと旅だって行かれました。


「なるほど吟遊詩人が、先生だったのか……。それでフローラがいろいろな話に詳しい訳が分かったよ。エヴィデンシア家の状況を考えると、他人ひととの交わりが少なかったらしいのに、フローラが物知りなのが少し不思議だったんだ。学園の常在学で学ぶこと以外にも詳しいようだったからね」

 トルテ先生の話を聞いた旦那様は、納得顔でそう仰います。

「結局今日は、ほとんど私の話で終わってしまいました。旦那様、次の機会にはきちんと日本語を教えてくださいまし」

「『ああ、やっぱり誤魔化せないか』」

 旦那様は、日本語でそう仰いましたが。これは言葉ではなく旦那様の態度で、なんとなく意味が分かってしまいました。

「旦那様。誤魔化そうとなさっておりますよね?」

 私の問いに、旦那様は驚きの表情を浮かべて固まっておりました。

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