身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される

黒柴歌織子

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 小さな女の子が泣いている。
 とても無視は出来なくて、近寄ってしゃがみ、その子の視線に合わせる。

「どうしたの? 迷子になったの?」

 女の子は首を振る。
 彼女が抱いているテディベアには見覚えがあった。試供品でもらったウェディングベア。

「おそかったの。もう、わたしはいらないの」
「どういうこと?」

 聞き返した横で、大きな歓声が響く。
 驚いてそちらを見ると結婚式が行われていた。教会から新郎新婦が出てくる。
 つばきと、悠馬さんだった。
 幸せそうな表情でフラワーシャワーを浴びている。

「これでいい」

 私の後ろで正一郎おじさんが言う。

「良くない。私は、私は――」

 足元が崩れた。真っ逆さまに坂を落ちていく。
 誰も私の手を取ってはくれなかった。

 背中に走る痛みで目が覚めた。
 ベッドから落ちたようだ。最悪な夢を見たせいで私の息は荒く、汗びっしょりだった。
 しばらくそうしていると目覚ましが鳴った。

「そういう夢は求めていないんだけどな……」

 ゆっくりと起き上がり目覚ましを止める。
 夢見が酷いせいで一日分の疲労を覚えていた。こういうのを見てしまう理由は分かるけれど、ストーリーが最悪すぎる。恐れていたバッドエンドをまざまざと見せつけないでほしい。
 私だけしかいない空間、静かすぎる空気の中でしばらく立ち尽くした後に気持ちを切り替えようとコーヒーを入れる。
 傷の痛みからするに雨が今日降りそうだ。天気予報を見れば当たっていた。折り畳み傘、会社に置いていたっけ。
 悠馬さんからメールが届いている。私からは、つばきが帰ってきたことを伝えていた。
【深夜には空港につきます。あやめさんも無理をしないでください。あなたに早く会いたいです】
 最後の文面を見てわずかに力が抜けた。どんな顔をして書いていたのかな。
 深夜ということは、早くて明日の朝には会えるということか。
 ……明日有給使ってしまおうかな。でも一か月前申請だから伊勢さんに絞められてしまいそう。いっそ仮病を使うとか。
 それは会社に行ってから考えよう。
 用意をしていると同棲して間もない時にもらったネックレスに気づいた。事務服を着ると隠れるし、お守りとして身に付けておこう。

「行ってきます」

 ウェディングベアに声を掛けて、私は家を出た。


「おっ、なんか決意に溢れている顔だね?」

 葉月が私の肩を突きながら言う。地味に痛いからやめてほしい。

「葉月セラピストのおかげかもね」
「相談料は高いからね。ケーキフェスタ行きたい、ケーキフェスタ」
「ぼったくりじゃん……」

 依然悩み事はあるけれど、一人ではないと思うと心強かった。
 なにより悠馬さんが帰ってくるのだ。嬉しさと安堵を覚えている。
 融資の件は、今日実家で話すとして――いつごろ本家から連絡が来るかなんだよね。
 つばきには三日前の段階で一週間と伝えてあるけれど、それより早く彼は帰ってくる。そうなると、悠馬さんと話し合う時間はまだある。大丈夫だ、きっとうまく行く。

「本条先輩! ここどうすればいいんでしたっけ」

 ……その前に目の前の仕事をどうにかしなくてはいけない。



 終業時間を迎え、私はロッカールームで着替えていた。
 葉月と里美ちゃんが先に帰り、私もバッグを手にした時だった。マナーモードにしているスマホに着信が入る。
 ……つばきからだ。
 緊張しながら、すぐ近くにある休憩室に入り込む。誰もおらず薄暗い。
 生唾を呑みこみながら電話を取る。

「……もしもし。どうしたの、つばき」
『私だ』

 思わず悲鳴が漏れそうになった。
 正一郎おじさん!?

『いい加減、直接の連絡のほうがいいと思ってね。娘のものを借りている』

 わざわざつばきのものを使わなくても、家の電話機からかけても良かったのでは……。そう手間は無駄だと判断したのかもだけど。

「ど、どうしましたか?」
『明日には香月くんが帰ってくるそうだな』
「――え?」

 どうして……。つばきもかえで君も、帰国の正確な日数は知らないはず。
 私の疑問に答えるように、おじさんは続ける。

『香月くんの会社に問い合わせた。――海外出張とは聞いていなかったな』
「……いちいち報告することでもないと思いましたので」

 服の裾を握りしめる。
 息をしろ、あやめ。大丈夫、大丈夫だから。私はひとりではない。

『ふん、まあいい。つばきが帰って来た。これでめでたく君の役割は終了ということだ』
「……そう、ですね」
『いや、まだひとつ仕事が残っているな』

 なんのことだ?
 あまりにも心臓が動いて、耳の中で鼓動が聞こえるようだ。

『香月くんに別れを告げなさい』
「……ッ!」
『騙していたことを詫びて、身を引くんだ。どうせこの先会うにしても、わずかな時間だけだ。君の人生に影響は及ぼさないだろう』
「だ、騙していたのは――そちらも、ではないですか。おじさんは、どう言い訳するんですか」

 正一郎おじさんは眉をひそめたようだ。電話越しでも分かる。

『いくらでも手はある』
「……」
『今日は本条の実家へ帰りなさい。もうあそこは君の戻るところではない。引っ越しの手配をしておこう』

 いやだ、と叫べない。声が出てこなくて、喉がひゅうひゅうと鳴るだけだ。

『明日の十時、私の家へ。香月くんも呼ぶ』

 たぶんそこにはつばきもいるのだろう。

『その場で、別れなさい』

 対面で。ふたりきりにもなれずに。
 人の感情はそこまで単純ではないのに、彼はまるで簡単に言い放つ。

『期待しているよ』

 私は暗がりでいつまでも電子音を聞いていた。
 傷が痛くて、痛くて、たまらない。

 それからどうやって実家に戻って来たのか。
 出迎えた母親が驚いた顔をしていたのまでは覚えているけれど、次の瞬間には朝になっていた。私の部屋だ。
 始業時間五分前。普段なら大慌てだけど感情が一切動かない。しばらくぼんやりとした後、緩慢な動作で会社に電話を掛ける。

「体調が悪いので休みます」

 伊勢さんが何か言っていたが、頭にぜんぜん入ってこなかった。
 着信がおびただしいほどに入っている。悠馬さんからだ。気付かずに寝込んでいた。
 メールも届いていた。
【なにがあった? 連絡してほしい】
 そんな内容がいくつか。かえで君からも来ている。
【香月さんが心配していた。連絡してあげて】

 少し迷った後に、電話を掛けた。
 留守番サービスに繋がってしまった。寝ているのかな。何を吹き込んでいいか分からず、そのまま切る。

「あやめ、起きた?」

 母親が顔を覗かせる。

「お母さん。仕事は?」
「わたしは休みよ。あやめも今日は――」
「うん、もう休みの連絡を入れた。だけど本家にはいかないと」

 時間ぴったりにつくわけにはいかない。
 少し余裕を持たせるなら、もう用をしなければ。

「……そんな体調で? 顔面真っ青よ」
「だって、これでお終いだもの。どんな顔していてもやるべきことはやらないと」

 ぐらついているのは視界だけではなく、心もだ。
 私の手から悠馬さんが離れていきそうな感覚が、恐ろしい。

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