境界の教会/キョウカイ×キョウカイ
二周目の惨劇/の始まり
●
「……何か、阿呆らしくなっちゃったなぁ」
背もたれに力なく寄りかかった一之瀬が、ボソリとぼやいた。疲労感の篭もった彼女の言葉は皆の中に積もりつつあった無力感を刺激する。どうせ出られないんだ、こんなことしても無駄なんだろう、という徒労の予感。
居た堪れなくなった美玲はここにいない人物を出汁に使うことにした。
「鬼無さん、ちょっと呼んでくるよ。あの人も何かを感じ取ったんだよね」
「私も一緒に行くわ」阿誰が立候補する。
そして二人はそそくさと席を立ち、逃げるように資料室へ向かった。廊下に出てから阿誰に目配せして意志を伝えようとした。苦笑を差し向けると、阿誰は眉を下げた苦笑を返してきた。色んな感情が篭もっていそうな笑みだ。
再び資料室のドアの前に立つ。美玲がドアをそっと開け、室内を伺った。
ひっそりとした空気。埃の粒子が宙を漂って、蛍光灯からの光の道筋を浮き上がらせている。光の輪郭の下、あちこちに書物の山脈が築かれている。今にも崩れそうな不安定な山はきっと美玲が重ねたものだ。特に身に覚えはないのだけれど、自分ならああやって重ねてしまうだろうという妙な確信からの推測。そうやって崩しては阿誰や鬼無にどやされるのだ、とそこまで想像を働かせて、くすりと笑う。
「鬼無さーん」
奥に呼びかける。返事はない。この部屋にはいないのだろうか。美玲はドアを半分開いたままにして他の部屋を見に行った。倉庫、事務室の順に見て回った。入り口からチラと覗いただけだが、そちらにも鬼無がいないことが分かった。
美玲たちは廊下に立ち尽くして首を捻った。
「鬼無さん、どこに行ったんだろう?」
「行き違いになってしまったのかしら? 一回戻ってみましょ」
聖堂に取って返した。無駄に歩き回っている気がするが、仕方がない。
二人が聖堂ホールに戻ると、他の者はさっきと同じ配置に座ったままだった。話し合っていた様子ではないが、一触即発なムードは解消していた。
しかし、ホールにも不機嫌な探偵はいなかった。
「どうであったか? 彼女の意見は」
タルボットがにこやかに言う。
「いえ……、鬼無さん、こっちに来ていませんか? どうも見当たらないのです」
「ほう? それはおかしいな。いや、来ていないよ」
「どこかに隠れているんじゃないの?」ふとした思い付きを美玲は口にした。それぐらいしか可能性は残されていない気がする。
「隠れてるって、こんなときに? 何のために?」
阿誰が鋭く突っ込んでくる。
「それは……何でだろ?」
「美玲君、迂闊なことを言ってはいけないよ」
「どっかに出口を見つけて、一人だけで先に脱出しちゃったんじゃないの?」一之瀬が意見する。「何つーか、あの人の性格だったらあり得そうじゃない?」
「気持ちは分かるけど、そこまでずるい人じゃないよ」
美玲が苦笑した。
「もう一回探してみよ。もしかしたら本の山の下に埋まってるのかも」
「えげつないこと考えるね、美玲ちゃん……」一之瀬が渋面を作る。
「そう? 普通じゃない?」
美玲たちはまた資料室に向かった。あそこが一番物陰が多い。入り口から覗いただけではちゃんと探したとは言えない。二人は資料室に入室する。
床に置かれた本に足を取られないよう、慎重に雑多な奥へと進む。
壁際に大きな本の山があった。城壁のように取り囲んで、中央がぽっかりと空いている。近付きながらそっと背伸びすると、まず革靴の先が見えた。革靴は人の足に履かれるものだ。足は身体に繋がって、身体には頭が付いている。
本の城壁の陰にくたびれたスーツの人形が横たわっていた。
「――――」
膝から力が抜けて、近くにあった山の天辺を崩してしまう。本の雪崩の一部が人形の爪先に掛かるけど、人形はぴくりとも反応しない。
足先から胴体へ視線を這わせていき、最後に辿り着いた眠り顔。
「鬼無さん?」
何をしているのだろう。こんなところで寝るなんて。
真っ黒に鬱血した鬼無の顔面。虚空を映す瞳。だらんと弛緩した両手足。
悲鳴が聞こえた。隣からではなく、もっと近い場所から。
自分の喉の奥底から、それは放ち出されている。
精一杯の金切り声に、自分ってこんなに大声を出すことができたんだ、って思う。
網膜に飛び込んできて、深く焼きつく苦悶の表情。
いつから見ていたのだろう。
誰一人死なせない、悲しみ一つない幻想を。
ようやく甘い夢から覚めて、でもそれは喜びでも幸せでもない覚醒で。
美玲は呼吸を繰り返し、目の前の事象をもう一度認識する。
鬼無が眠っている。永遠に目覚めない眠りに落ちて、ただの物体に成り果てて。
彼女が羨ましい、と思ってしまった。
ずっとずっと眠れるなんて夢みたい、と。
とっても不謹慎で、おかしな話。
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「……何か、阿呆らしくなっちゃったなぁ」
背もたれに力なく寄りかかった一之瀬が、ボソリとぼやいた。疲労感の篭もった彼女の言葉は皆の中に積もりつつあった無力感を刺激する。どうせ出られないんだ、こんなことしても無駄なんだろう、という徒労の予感。
居た堪れなくなった美玲はここにいない人物を出汁に使うことにした。
「鬼無さん、ちょっと呼んでくるよ。あの人も何かを感じ取ったんだよね」
「私も一緒に行くわ」阿誰が立候補する。
そして二人はそそくさと席を立ち、逃げるように資料室へ向かった。廊下に出てから阿誰に目配せして意志を伝えようとした。苦笑を差し向けると、阿誰は眉を下げた苦笑を返してきた。色んな感情が篭もっていそうな笑みだ。
再び資料室のドアの前に立つ。美玲がドアをそっと開け、室内を伺った。
ひっそりとした空気。埃の粒子が宙を漂って、蛍光灯からの光の道筋を浮き上がらせている。光の輪郭の下、あちこちに書物の山脈が築かれている。今にも崩れそうな不安定な山はきっと美玲が重ねたものだ。特に身に覚えはないのだけれど、自分ならああやって重ねてしまうだろうという妙な確信からの推測。そうやって崩しては阿誰や鬼無にどやされるのだ、とそこまで想像を働かせて、くすりと笑う。
「鬼無さーん」
奥に呼びかける。返事はない。この部屋にはいないのだろうか。美玲はドアを半分開いたままにして他の部屋を見に行った。倉庫、事務室の順に見て回った。入り口からチラと覗いただけだが、そちらにも鬼無がいないことが分かった。
美玲たちは廊下に立ち尽くして首を捻った。
「鬼無さん、どこに行ったんだろう?」
「行き違いになってしまったのかしら? 一回戻ってみましょ」
聖堂に取って返した。無駄に歩き回っている気がするが、仕方がない。
二人が聖堂ホールに戻ると、他の者はさっきと同じ配置に座ったままだった。話し合っていた様子ではないが、一触即発なムードは解消していた。
しかし、ホールにも不機嫌な探偵はいなかった。
「どうであったか? 彼女の意見は」
タルボットがにこやかに言う。
「いえ……、鬼無さん、こっちに来ていませんか? どうも見当たらないのです」
「ほう? それはおかしいな。いや、来ていないよ」
「どこかに隠れているんじゃないの?」ふとした思い付きを美玲は口にした。それぐらいしか可能性は残されていない気がする。
「隠れてるって、こんなときに? 何のために?」
阿誰が鋭く突っ込んでくる。
「それは……何でだろ?」
「美玲君、迂闊なことを言ってはいけないよ」
「どっかに出口を見つけて、一人だけで先に脱出しちゃったんじゃないの?」一之瀬が意見する。「何つーか、あの人の性格だったらあり得そうじゃない?」
「気持ちは分かるけど、そこまでずるい人じゃないよ」
美玲が苦笑した。
「もう一回探してみよ。もしかしたら本の山の下に埋まってるのかも」
「えげつないこと考えるね、美玲ちゃん……」一之瀬が渋面を作る。
「そう? 普通じゃない?」
美玲たちはまた資料室に向かった。あそこが一番物陰が多い。入り口から覗いただけではちゃんと探したとは言えない。二人は資料室に入室する。
床に置かれた本に足を取られないよう、慎重に雑多な奥へと進む。
壁際に大きな本の山があった。城壁のように取り囲んで、中央がぽっかりと空いている。近付きながらそっと背伸びすると、まず革靴の先が見えた。革靴は人の足に履かれるものだ。足は身体に繋がって、身体には頭が付いている。
本の城壁の陰にくたびれたスーツの人形が横たわっていた。
「――――」
膝から力が抜けて、近くにあった山の天辺を崩してしまう。本の雪崩の一部が人形の爪先に掛かるけど、人形はぴくりとも反応しない。
足先から胴体へ視線を這わせていき、最後に辿り着いた眠り顔。
「鬼無さん?」
何をしているのだろう。こんなところで寝るなんて。
真っ黒に鬱血した鬼無の顔面。虚空を映す瞳。だらんと弛緩した両手足。
悲鳴が聞こえた。隣からではなく、もっと近い場所から。
自分の喉の奥底から、それは放ち出されている。
精一杯の金切り声に、自分ってこんなに大声を出すことができたんだ、って思う。
網膜に飛び込んできて、深く焼きつく苦悶の表情。
いつから見ていたのだろう。
誰一人死なせない、悲しみ一つない幻想を。
ようやく甘い夢から覚めて、でもそれは喜びでも幸せでもない覚醒で。
美玲は呼吸を繰り返し、目の前の事象をもう一度認識する。
鬼無が眠っている。永遠に目覚めない眠りに落ちて、ただの物体に成り果てて。
彼女が羨ましい、と思ってしまった。
ずっとずっと眠れるなんて夢みたい、と。
とっても不謹慎で、おかしな話。
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